講演余談

 突然に悪の権化と糾弾される悪人顔のゴーン氏は、なるほどミスター・ビーンに似ていなくもないけど、ごくごく微量ながら、気の毒をおぼえないワケでない。

 数多の企業や資産家がその収入をば過小に申請した挙げ句に国税局の調査でもって『申告漏れ』という”優しい指摘”で是正されるのと、いきおい『逮捕』でもって”虚偽の犯罪” として暴かれるのじゃ大違い。しかもこの国で2例めとなる、おまえの悪さは見逃してやるからアイツを潰すの協力しろという「司法取引」での事件化。

 なんだかきな臭くもあるし、また一方で、関係者の自殺というただならない事態を引き起こしながら政治屋と周辺連中の虚偽は片目つぶってお見逃しがまかり通っているようでもあって、どうも……、バランスの悪さだけが腐臭としてハナにつく今日この頃。

 

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 毎回の事ながら、1つ講演を終えると、小さい波みたいな反響がしばらく続く。トークする身としては、ひそかな演出効果として幾つかのポイントを持って話している次第だけど、そこの反応が薄く、でも、意外な所で反応がかえって来たり、する。

 講演後の複数日で、何通かメールをもらい、

「タタラの話を聴いててズッと『もののけ姫』を思った」

「フランスの風呂事情はもっとしっかり勉強した方がいい」

 とかとか……、実は余談として触れたことがクローズアップされているというのが、それで判る。

 こういうのが、いわばライブの醍醐味。唄って踊ったりしないけど、講演もまたライブなシーンとボクは思ってるから、それらのお声は実に嬉しくありがたい。

 もちろん、いささか残念に思う面もある。

 例えば今回は、鎌倉時代東大寺再建のさい、麻苧(あさお)という綱が、いかに重要であったかを云い、そのために重源は各地に湯治場を設け、地域住民にそこを利用させて、その見返りとして綱造りを頼んだ、あるいは半ば強要したのでは……、ということを云ったのだけど、あんがいと反応が希薄だったりもした。

 けど、それもまたオモチロイ。自己満足で終わらないのがライブの醍醐味。

 数年スタジオにこもってアルバム作りにはげんだビートルズの4人が、鬱屈から逃れるようにして凍てつく厳寒のアビーロード・スタジオの屋上でライブを演った、そのシーンを思い出す。「ゲット・バック」は実にその気分を象徴した曲だった、な~。

 

 講演のために準備していたものの、持ち出さなかったコトガラも幾つか。

 いわば”選曲”しなかった題目。

 木材がらみでの、茶室のカタチ。

 木材がらみでの、鎌倉時代初期の運送に関わったヒトの着物。

 などなど―――。

 枝葉が広がりすぎて散漫ゆえ、あえて”選曲”しなかったワケだけど、ま~、内心は惜しむような気分もチラリンコ。

  下記は、”選曲”しなかったけど参考にめくって、メチャに面白くガツ~ンと来た本。

 

『きものの思想』戸井田道三著 毎日新聞社

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 いかんせん絶版で今は古書で手にいれるっきゃ~ないけど、タイトル通りの中身の凝縮が素晴らしい。

 着付け本や作法本はバッカみたいにたくさんあるけど、着物を通してヒトのことを思想した本は、そうはない。

 水浴する天女が漁師に羽衣を奪われ天に帰れなくなって、やむなくも彼と結婚する『羽衣伝説』に触れ、天女ともあろうものが何故にわざわざ下界に降りて水浴したんだろう? との疑問から考察を進め、やがて「禊(みそぎ)」へと導くスリリングさや、『源氏物語』の光源氏の眼に映えていたであろう庶民の衣装の貧寒っぷりのコトなど、1度読んでまた直ぐ読み返していいような秀逸が冴えてる。

 その『源氏物語』中に登場の末摘花(すえつむはな)は特異な人物だと戸井田は指摘する。この女性は毛皮のコートを着てるのだけど、紫式部自身の感受性はその毛皮に違和感を抱いているようだと云い、あとは……、ま〜、読んでのお楽しみ。

 

『図解日本の装束』 

図解 日本の装束 (F-Files No.018)

図解 日本の装束 (F-Files No.018)

 

 昔の、時代に応じた着物なんぞの部分呼称やらその変遷をたぐっていくに最適な本。図解で判りよく、けっして深くはないけど日本の装束の基礎知識を得るに便利。軽量な辞書として植物図鑑なんぞと共に常備しておきたい1冊。

 

満洲暴走 隠された構造』 安富歩著 角川新書

満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦 (角川新書)

 不穏なタイトルだけど、中身の基本は日本の満州進出とそれに付随しての木材の話がメイン。森林破壊の様子が知れ、そこに巨大な大豆畑が出来ていく様相など、めっぽう面白い。

 その大豆から油がとられ、さらにその絞りカス「大豆粕」が、当時の日本や世界での木綿作りの肥料(大量に必要)として飛ぶように売れるという実態などを本書で知る。

 実は「亜公園」を造った片山儀太郎は亜公園閉園後の一時期、その満州での木材業務に関わっていたらしきであったから、満州の木材事情を知ろうと手にした本なのだった。

 けども、それはそれとしてともあれ、興味深く読めた本。

 男性ながら女装で通している著者にも、好感。

  

『きもの文化と日本』 伊藤元重・矢嶋孝敏著 日経プレミアシリーズ

きもの文化と日本 日経プレミアシリーズ

 いわゆる「ジャケ買い」な1冊。この表紙の、ただマッスグに立ってるだけっぽい姿カタチに惹かれた次第ながら、中身も良し。

 全編、大学教授の伊藤元重と着物の(株)やまと社長の矢嶋孝敏の対談というカタチ。弾み良いフレーズがポンポコ出てきて、快調。

 明治・大正・昭和・平成の着物の変遷を知るにはもってこ~~い。

 2016年の出版ながら、晴れ着と成人式の関係を「制服化」で切り、ハロウィーンの流行をその「制服化」で既に予見するなど、眼の置き場が素敵でクリア。

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 5000円札樋口一葉の写真に言及、襦袢の首に接する部分に衿を縫い付けた半衿部分がやたらに露出していて現代の感覚ではおかしく思われていると云い、下記に引用するけど、

矢嶋  一葉はきものをかなり下のほうで合わせてるから、半衿が大きく露出しちゃってる。それが「何か変な感じ」の正体だけど、これは彼女なりの着こなしなんです。

伊藤  おしゃれに着こなしているということですね。

矢嶋  一葉は明治の人だけど、きものがまだ行きてる時代だから、きものはファッションだった。自分なりの着方を工夫して当然ですよね。ところが、戦後、きものがファッションでなくなった。自分なりの着こなしなんて、誰も考えなくなった。自分の外に「正しい着こなし」なるものが存在すると思い込んでいるから、これを見て違和感をおぼえるわけ。正統があるから「間違ってる」と感じる。

 

 こんな感じでトントコ話が進む。今回11/17の講演で話した鎌倉時代初期の頃の、帯のハナシもあって――――庶民はほとんど帯じゃなくって縄であったらしきコトやら、戦乱期に背中で結ぶ帯などありえないもの、背後から掴まれたらお終いじゃないか――――教わるところビッグで参考写真も適材適所に置かれたグッド本。

 1000円でお釣りがくる価格も良くって、お薦めであります。木材の話が何で着物なの? と思われるバヤイもあろうけど、木を伐採した昔のヒトはどういう格好であったかにも興味あって、それで何冊かにあたってみたって〜次第。

きもの文化と日本 日経プレミアシリーズ

きもの文化と日本 日経プレミアシリーズ

 

 

引っ越しました

 ブログを引っ越し。

 従来のブラックな画面になれた方には違和感もありましょうが、ま〜、しかたないと思って、お付き合いください。

 ブックマークのアドレスをご変更ください、ね。

(たぶん自動で変わってると思いますがネンのため)

 「月のひつじ」の従来の記事ももちろん読めます。

「ブログ」というカタチはヘンテコで、アレコレ書いてるけど未だに、自分自身が納得するカタチじゃ〜ないとも思ってますが、ま〜、しかたない。ツイッターとかフェイスブックは好みじゃないからやりません。

 そんな次第で、ボクの開いてる数少ない窓の1つです。

 ときおり、お覗きください、ね。

 

 

ちょっと一服



某日午前。
百間川の橋の上から、眺める。
3羽のシラサギが昼食を狙う。
およそ4分ばかり付き合ったけど、収穫なし。
その間、3羽ジッと動かず。
見飽きて場を去りはしたけど、尺度の違う根気強さを思わずにいられない。


この11日に、ダグラス・レインさんが死去したね。
2001年宇宙の旅』で HAL9000の声を演じた人。
ハルといえば、その静かな声。
静かな声といえば、ハルを思うほどにボクの頭の中では1つの独立したボックスに収まる声だった。
概ねで静かな声というのはさほど印象に刻まれないものだけど、ハル=レインの声は転写作用が大きかった。
声だけが出てきて姿がないから……、と思ってしまいがちながら、姿は常に、ゆるぎない自身に満ちた”健康体”としてのディスカバリー号という宇宙船というカタチで出ている。
HAL9000ディスカバリー号
しかもチャンとした目的意識を持って。
なのでこの”健康体”は、内部に搭乗した3人の科学者と2人の飛行士を、当初は良き善玉菌ではあったけど、悪しきなガン細胞にそれらが転化したと考えだす。
コンピュターが殺人を犯した初事例とかいうけど、HAL9000は自身の健康維持のためのウィルスの駆除を開始した……、と、いまだこうやってアレコレ解釈したくなる。
だから、近頃の自動車業界やらがAIの自動運転めざして躍起になってるけども、はたしてボクはその手の車に乗りたいか? といえば、ノ〜ノ〜と今は答えるっきゃ〜ない。



17日の午後、講演。
推薦入試に文化祭。ピタリ重なって先生方不在。やや空席が目立つコトになってしまったけど、しかたない。
でも、思わぬ方が聴いてくださったり。


ほぼ定刻にて終え、某所でかる〜く乾杯。
打ち上げは来月某日と決まってるから暫定乾杯、でもこの機会はこの時でしかないから、ナ。
イベントは常に裏方に徹してくれる方々あって成立するもの。終えて一同しちゃうのは嬉しいなぁ。
ホッとしますなぁ。
かる〜くなつもりが、チャカポコ3時間。


翌日18日。
某高層マンションの一室にて、ミニなパーティ。
講演がらみじゃなく、プライベート。
やや慣れ親しんだ、見晴らし良きそのマンションから別マンションに我が友が転居というコトで、惜しむような、祝うような、が同居した「猪鍋パーティ」。
幸いかな、何ぁ〜〜んも気兼ねしないですむ仲ゆえ、やっぱ、この団欒、ホッとしますなぁ。
病欠となったKちゃんをば心配しつつ、シシ肉つっつき、熱いジューシーな脂をばビールで流し込む。



来岡中のS氏持参の、コマイなる魚を初めて食べる。
氷下魚、と漢字でかくそうな。
北海道産。岡山には出廻らない。
タラの親戚らしいが、骨組み頑丈でちょっと食べ方にコツあり。
熱々が旨く、これは日本酒の肴じゃな……、即座に思ったら、S氏いわく「その通り」とのこと。
ハシでなく手掴みでもって背骨をさけるようにしてかぶりつけば、身離れがよくって、骨は綺麗に分離する。



ひとしきり食べ、大いに談笑後、ケーキ。
ワタクシめが、ラ・セゾン・ド・フランスという店で買ったもの。
いや〜、しかし、これが甘いのなんの。
アルコールと肉でまったりした胃がその甘味に驚いて、やや拒絶ぎみ。
「若い頃ならペロリじゃけど、さすがに年齢……、甘すぎぃ〜」
オノケーちゃまが笑う。
けども全員、完食。


ああ、しかしだね、新幹線とローカルの速度違いを上から目線で眺められるこのマンションとはお別れだ。
甘い口元ほころばせ、少し寂しい感じを呑み込んで、記念写真をば撮ってもらう。
でもま〜、「次は転居パーティだな」と大いに北叟笑む。
いうまでもないけど、次はケーキはよしましょう。
……、などと思いつつ、フッと巻頭で紹介のシラサギの姿がよぎる。
小魚追ってジッと我慢で川面を見つめる姿が、チラリ。

木材史 ~前哨~


以下、11/17講演に向けての下準備の点描――。


某日。
取材訪問時に急病で入院となってしまった浄土寺の前ご住職さんと、電話対談。
途中ひどく咳き込まれたりで、まだ全快には遠いようだけど、貴重なお話をうかがう。
くれぐれもお大事に。



※ 浄土寺の大湯屋跡のそばにある歴代(?)の重源像。


某日 to 某日
木材がらみの記述を求め、何冊か本をヒックリ返したり裏返したり。
11/17の講演ではたぶん触れないけども、ほほ〜っ、と思うこと幾つか。
例えば―― 中世のいっとき、奈良や京都の宮中でのマナイタの扱い。
概ねで杉か檜の板であったようだけど、魚を調理した場合、一回使えば捨てられたこと。
刺し身は江戸時代になってからで、この当時は膾か焼くか干すか程度なものだけど、宮中の庫裏(台所)においては、使用したマナイタは即座に焼却したらしい。
そう……、穢れの思想だ。
割り箸は江戸時代に出来たものだけど、そのはるか以前に、すでに「使い捨て」があったのが、これで判る。
中世は仏教思想が広範囲に浸透した時代、穢れという感覚と情緒がマナイタのような道具にまで「観念」のなせるワザとして沁みてるコトに、ちょっと衝撃させられた。



使用される板が杉か檜というのも、これも仏教、プラス神道的感覚だ。
要は、白くなくっちゃ〜いけない。
純粋なカラーとしてのホワイトではなく、木目の天然の白っぽさがツボ。ブナなどの茶色いものじゃダメなんだね。
そこに「無垢」な気配がなくっちゃ〜いけなかった。
面倒な観念だけど、白=純血、純血=穢れないもの、穢れなきもの=清浄、といった感覚がドド〜ンと横たわっていたことは確かだろう。
この感覚は今に継がれ、例えばトイレの、座る部分を除菌しなきゃ〜落ち着かないみたいな、 過剰な潔癖症感覚を発酵させる元になっている。
日本人はヒノキの家を好み、それを一番とする……、という感覚もそうだ。神社もお寺も皆、檜。
武家も商家もそれに準じての総檜造り。木目の白さこそが一番で、二番はないんだな。
そこがやや緩和したのは幕末になってから。西洋人の木材感覚が注入されてからだ。
外壁をペンキで塗りつぶす発想なんてありゃ〜しないし、そもそもペンキも初めてだったから、長崎の高台にグラバー邸が出来たさいは、地元の皆さん、あっけにとられたろうね。


某日。
某所にて打ち合わせ。
進行手順を話し合ってるさなか、念頭に浮いたのが、甚九郎稲荷のリア・ビュー。
北隣りの広い地所が放送局新社屋の建造というコトで更地になりつつあって、従来は見えなかった姿が今のみ、見えている。



本殿の左右で枝葉を茂らせた2本の樹木。
1本は銀杏だと記憶するが、もう1本は何だったかな?
昭和20年の空襲後の再建時に植えられたもの。
樹高は10数mくらいか、概ね70年で、ここまで育っておごる。
繁華で背丈あるビルが林立の街中に悠々と枝葉を茂らせる。規模小さきとはいえ神社という場所はヒトの手が加えにくい。それが幸いしてる。
講演内容が”木材”ゆえ、余計に眼にとまるまま印象づけられた。
工事の都合上、この先、剪定されて樹高も縮まり多少こざっぱりとはなるようだが、今後もまた繁茂し、やがて出来上がる放送局の壁面に緑の葉陰をおとすだろう。
悠々と繁って欲しいところだ。


※ ギターを手にして打ち合わせか? と思っちゃ〜いけない。
11/17の翌月、12/15に予定の『打ち上げケン忘年会』の予行演習も次いでにヤッてしまったというワケで、だからギターなのだった。
実は12/15にはOH君のライブがあって、ボクはその手伝いに出向く予定でいたんだけど……、諸般の都合でこの日しかヒトが揃わなくなっちゃって、
「許せ、我が友……」
『打ち上げケン忘年会』をば優先というコトになっちまったのだから、ま〜、しゃ〜〜ない。

『明治大正昭和 岡山木材史』
岡山シティミュージアム 4F講義室
2018年11月17日 土曜日 午後2時〜4時(開場は1時半)

お時間にユトリあれば、お越しください。
木材がらみでのチョット知らなかったコトを、会場にてお伝えします。♥

パッションフルーツ移動


晴れた午後。
脚立、剪定ばさみ、スコップなど準備し、パッションフルーツをウチに入れる作業。
去年より10日ばかり早いけど、自分のスケジュール上、しかたない。
毎度のことながら面倒なり。
が、毎度ながら、この作業で”冬の到来”を感じるというか、冬への覚悟がうまれる。



しかしこの夏の熱さと暑さは、植物にも影響が大きかった。
パッションフルーツとて、暑ければイイわけもなく、耐え難い温度がある。
極暑のさなかは昨年の半分ほどしか葉が茂らず、茂り出したのは9月も終わりの頃。
実もほとんどならなかった。



ともあれ剪定と伐採。
ほとんど枝葉を切り落とし、幹部分をば室内に入れ、これで越冬の準備は出来た。



転じて庭を眺めるに、ナスは盛りの時期にさほど収穫出来ず、秋になって密かに新芽が出ての「秋ナス」がドド〜ンと収穫できちゃったという妙なことも起きた。
暑すぎたんだ。
秋ナスは秋ナスで……、異様な生育を示してた。



この部分写真だと、なんだか海の生き物みたいじゃあるけれど、いいのかよ〜、と思えるホドにでっかいし、妙に曲ってら。



今頃になってやっとイチジクが実ってる。
というか、実ってはいたけど、熟れるタイミングがメチャに遅い。
これもまた暑熱のせいか?
カタチもいささかケッタイなのも出来て、これなど……、お尻のようだ。



この数年で急速に浸透するポリゴナム。
和名ヒメツルソバ
岩場に置く園芸品種として明治の時代に入って来たらしいけど、近年、野生化だ。
この数年で、我がミニガーデンを含めて近隣至る所で見られる。
路地の横手やガーデンのあるオウチの庭などなどなど、あちゃこちゃ、大繁茂といっていい。
これもまた夏の圧倒的な暑さがもたらしたものだろう。



かつてのセイタカアワダチソウみたいな侵略っぷり。
セイタカ……も実は明治末期頃に園芸用として日本に入ったものらしい。
明治はありとあらゆるものを無制限無節操でテンコモリに引き寄せちゃった、メチャな時代だ。


ポリゴナムは地を這うだけで背丈がなく、いささか愛らしくもあり、どのオウチでも、
「まぁ、いいか」
と放置しているようで、なのでいっそうあちゃこちゃに見る。
園芸屋さんにとっちゃ、売るべき品種なんだけど、自然繁茂の威力に販売はゼロに近いだろね。



暑さで伸縮に変化があったものの、しかし、4つ足や2足の生命体より植物や樹木の方が生命力は強そうだ。
たかが半日のノラ作業でもう翌日は筋肉痛の2足歩行のボクより、だんこ強い。
およそ3億年前の地球も、「恐竜の時代」になる前では、いわば「植物の時代」がなが〜く続いてたことからもそれは判る。
温暖化で気温高く湿潤でもあったから地球は熱帯な沼地だらけで、樹木は茂りに茂ってた。
ただ、それゆえに歩いたり走ったり出来る進化方向に進まなかった。
根をおろして不動、そこで大きくなる、子孫は種でもって飛ばす、というカタチに落ち着いちゃった。
その生体サイクルで枯れ枝や葉が堆積し、腐らせる菌がいないんで地熱と積み重ねの圧力でもってギュ〜っと圧縮されて、今の石炭となったワケだ。
やがて地表を歩行出来る生き物らが跋扈しだし、草食な恐竜たちがグングン育まれ巨大化して、地球はいわば「時間制限なし食べ放題」の御食事処となったワケで、もし植物や木が歩けるものだったら、恐竜達の我が世の春は来なかったかも知れない。
葉っぱ、食べられてたまるかとスタコラサッサ。
ま〜、しかし、我がミニガーデンの草木どもが夜中に歩いたり出てったりするのは困るから……、地に根を下ろすという進化の袋小路に潜ってくれたのは幸いと思わないとイカン。



などと妄想ぎみに書いてたら、集金がきた。
このシーズンになると、町内会のヒトがくる。
「赤い羽根募金」
正直なところ、町内会が集金するというのはおかしい。
基より「赤い羽根」は米国が指導、戦後の戦災者救済の一助としてGHQの元ではじまる。
それが手を変え、何やかんやの救済という風に間口を広げて今にいたる。
義援金をおくるコトに異議はない。けども、町内会が”集金”するのは、これは不当だ。

共同募金は寄付者の自発的な協力を基礎とする

そう社会福祉法は定める。
町内の顔見知りが集金に来る以上、やすやすとは断れない空気もあって、余計に腹立たしい。


ちなみに、あの危なっかしいオスプレーって1機の購入価格、86億円(!)。
さらに以後の維持費が購入した17機分、今後20年で4600億円を米国にお支払いだそうな。
で、2015年度の「赤い羽根」の募金学は全部で、184億円。
いっそ、これ、逆にした方がイイのじゃないか?
オスプレー欲しけりゃ募金を募れって〜具合に。
危なっかしいシロモノを維持する4600億円もの巨費を社会福祉に廻せば、ずいぶん涼やかになろうに。

明治の煉瓦


某日。
11/17講演のため、湯迫の浄土寺を訪ねる。
1週間前にアポをとってのちゃんとした取材。
前住職さんにお話を聞くということで学芸員Mと共にお約束時間に出向いてみるに、緊急入院され、連絡せずでまことに恐縮とのこと。
「あらま〜」
いやいや、くれぐれもお大事に……、というワケで結果として前住職さんの奥さんから僅かばかりの情報を得るという次第になって、退院されたらまた出向くというコトになっちゃった。
ま〜、しかたない。
壮健がなにより。御回復を切に願う。
聞こうとしたのははるか大昔の重源のこと。
彼は東大寺再建を一身に担ったさい、鎌倉時代の年齢常識をはるかに越えた61歳なのだったから、たいしたもんだ。
前住職さんの入院とを比較する気はないけど、壮健の一語が明滅しっぱなしの一日だった。


浄土寺鎌倉時代からの古刹。ここにかつて東大寺再建のリーダーたる重源が2年ほど住まい、湯治場が置かれた。
岡山の湯治場。奈良の東大寺。その再建の最高責任者・重源坊 ―― この関係と、いったい湯治場は、「善意の施し」としてのものであったか ―― その考察を次の講演でちょっと話す予定。



かつて湯治場であった場所。今も冷泉がわく。


某日。
旧後楽館高校の地所、すなわち亜公園であった場所に新造されるRSK山陽放送の社屋工事の現場から、甚九郎稲荷の境内へと、明治期の警察署の遺構(煉瓦の家屋土台部)が移される。
保護されるべき文化財として忘れられていた煉瓦のアーチ構造……。
遺構をすべて残すことは出来ない。
そこでアーチ部分の1つのみを保存するという方向でもって、作業が行われた。
 



模型再現の明治の警察署。アーチ部分が今に残る。


この先、これをどう保存し、どう展示していくか、幾つか考えなきゃいけないことがあるけれど、工事と共に消え去るという最悪だけは回避できた。
山陽放送さん、甚九郎稲荷を管理する岡山神社さん、解体工事を担うY産業さん、地域の方々、等々のご尽力あっての移動。
アーチ構造のまま持ち上げられるかと心配したけど、Y産業さんの巧みな技でもって無事に移動完了。





※ 上2枚撮影:久山信太郎氏


とはいえ、煉瓦構造を支える土台となっていた御影石とは分離しなきゃいけなかった。アーチが壊れる可能性が高かった。
それで取り外し後、これは取り合わえず、横に置くカタチで甚九郎稲荷に設置。
だからあくまで仮設置。2分割にして置かれた。
とはいえとはいえ……、重機がなきゃ持ち上げられない作業でもあるから、しばしはこの状態というコトになろう。



岡山警察署は、亜公園が閉園し、地所を岡山県が買い取って、同所にあった天満宮甚九郎稲荷と合祀させ移動させた後に明治39年に出来上がったもので、これは昭和20年の空襲で焼けるまで機能していた。
その家屋の土台部の煉瓦遺構なんだ。
天満宮甚九郎稲荷に移動し、ず〜っと年数が経っての平成の、2018年10月31日に、今度はまた警察署の痕跡が甚九郎稲荷に移動するというのは、なにやら御縁ある円環という感じがしなくもない。



※ 手前の石は関係なし。左が礎石の御影石2本、奥が煉瓦アーチ。


工事で出た幾つかの煉瓦砕片を頂戴している。
これは11/17の岡山シティミュージアムでの講演(2時からです〜)で、ちょっとだけ披露しよう。
明治時代の煉瓦製造の困難さを示す重要な、証拠なんだ。
というのが、煉瓦というのは窯で焼き固める焼き物なんだけど、西洋から入ってきた新技術としての煉瓦作りに明治の日本は苦労しているんだ。
明治時代の煉瓦構造物に我々がノスタルジーをおぼえる1つの原因は、その焼きムラにあるんだ。
既成品になりきらず、バラつきがあって、結果それで1ケ1ケに表情ができちゃってるからなんだ。
で、天神町の岡山警察署の煉瓦遺構だけど、砕片を手にしてみるに、煉瓦の中程まで火が入っていなくって、いわばナマヤケなんだよ。



鮮烈なほどの赤土色。
明治39年から平成の昨日まで119年間、この状態だったんだ。
でも砕片となって外気に直に触れたからね、この先、乾燥し、色の鮮烈さは失われるだろう。
なので一部の砕片はサランラップで覆い、11/17の講演まで鮮度を保持すべく努力してみることに————。

明治お肉史 part.2

近藤勇新選組の屯所で盛大に牛肉を喰っていたというのは、1つの定説というか、歴史の1コマと語られて、久しい。
彼が登場する映画を観ても、たとえば司馬遼太郎原作で昭和38年封切りの『新選組血風録 近藤勇』では近藤勇そのものの肉食シーンはないけど、お仲間どもが鍋を囲っているし、準主役の木村功が横浜で入手した肉(豚肉)を屋敷の門番に見せて門番を閉口させるというシーンもある。


比較的最近、中井貴一が主演した浅田次郎原作『壬生義士伝』(みぶぎしでん)では、近藤本人が大いに喰らっているというシーンもあった。
幕末の頃のトリビア集的な本には、「近藤勇は牛肉を好み、12人前を食べた」という記述が平然とあったりもする。これなどは近藤勇という人物の豪快っぷりや尋常でないっぷりを甚だしく広言するが、しかしだよ……、おかしいじゃないか。
そも、肉食がまったく浸透していない時代にあって「12人前」という、その1人前の肉量の根拠はどこから?
基本となる量すら定まってもいないのに、どうして12人前という数字が出て来るのかしら?
こういうのを”混同の勇み足”という。エエかげんなハナシと云わざるをえない。



※ 『新選組血風録 近藤勇』のシーン。木村功が豚鍋を作り、そこに市川右太衛門扮する近藤勇がやって来て、「養父療養中につき獣の穢れは遠慮願いたい」と苦言する。



※ 『壬生義士伝』より。椅子(!)に座っての食事シーン。


椅子はともあれ、近藤役の塩見三省沖田総司役の堺雅人が良い演技だった。中央は土方役の野村祐人。一方で主役の中井貴一は……、このヒトはどんな役をやっても結局は”善良でマジメな中井貴一”以外の何者でもなくチョット物足りない。
このシーンでは塩見扮した近藤が手づかみで肉を鍋に入れる。近藤勇という人物にボクは好感しないけど塩見の演技はどのシーンも好感。終始笑顔でエクボが愛らしかった実像の近藤に、四角い顔立ちとも相まって、イチバン近い、これは名演だったんじゃなかろうか。


根堀り葉掘り精査したワケじゃないけど、近藤勇の牛食が「事実化」したのは、子母沢寛が昭和3年に出版した『新選組始末期』から、続いて「新選組遺聞」、「新選組物語」と続くいわゆる”新選組三部作”から、らしい。
子母沢寛は大正半ば頃から頻繁に京都に出て取材を重ね、
「生き残りの老人の話は疑わしいものもあったが、私は『歴史』というのではなく現実的な話そのもののおもしろさを聞き漏らすまいとした」
と後書きに記すとおり、必ずしも史実の徹底追求が目的ではなかった。
とはいえ、知った範疇でもって作品化し、創作を加えていないから後年になって、これが第一級の新選組研究の文献になったというのは、むろん良く判る。
カポーティが『冷血』を生み出すはるか前に、子母沢はルポタージュのみで”小説”を編むという新鮮な手法を開拓していたワケだ。



司馬遼太郎浅田次郎も、でもって、それを原作とした映画も、いずれもがルーツを下っていくと、この子母沢の作品での近藤像がベースになっている。


けどもだ……、今あらためて久しぶりに書棚からホコリを被った子母沢の3部作を引っ張りだし、ウシだのギュウの一言一句を探して”原典”にあたってみようとしたんだけど、あら不思議や、どこにも3冊の中に相当する記述が、ない。
なるほど、新選組屯所前に、猪肉を売る女が出没し、隊士がそれを買っては煮て喰ってたという記述はあるけど、ギュウは出て来ない。
さて?
あれ〜?
ホントウは どこで育ったやら コンドウギュウ 
ひょっとして、これは司馬遼太郎がスタート?



※ 司馬遼太郎の1962年作品『新選組血風録』。映画『新選組血風録 近藤勇』のこれが原作で、食肉のシーンも描かれる。


※ その映画の牛鍋シーン。幕末〜明治における牛食は「酒の肴」であって「夕飯のおかず」じゃ〜ない。


”食物の歴史本”などと照合していくと、今、いささか近藤勇の牛食は過剰に描かれていると、いわざるを得ない。
幕末、西洋人がかなりいる横浜ですら牛肉入手は至難だったから、京都では増して困難であったはず。
そうであって、近藤勇が牛肉を好んで食べたというのであるなら、闇的なルートで牛を解体したであろうし、鮮度もかなり落ちたものという予測もできる。
映画『壬生義士伝』での近藤は沖田総司らと鍋をつついているが、画面中の肉は鮮度が良すぎる。
もし、そこに史実らしきを反映させるのなら、肉は赤が退色し、いささかグレーがかった色合いがいいだろう。
このシーンでは焼き豆腐と一緒に煮込んでるらしいが、これはハナハダいただけない。



なるほど、スキヤキは関西がスタートだけど、時代がそぐわない。
肉と一緒に具材を入れるスキヤキの興隆は明治半ばになって始まり、関東大震災後の大正末にやっと関東方面にも伝搬したというのが、”食物の歴史”的な本では通説として紹介される。
スキヤキ専門の店は神戸元町「月下亭」が明治2年(1869)にはじめたというが、その「月下亭」はいざしらず、新選組が羽振りが良かった頃の当時の流通事情を思えば、当然に鮮度の悪い肉だから、味噌で煮込んで匂い消しにし、具材はネギのみだったろう。
豆腐やらの具はかなり後年、ひょっとすると大正期になってだ。
映画は幾らでもウソを紛れ込ませられる素敵なメディアだけど、しかし主題に即してのウソでない史実の上に立脚すべきという、いわば背景描写のアプローチの重厚を思えば、鍋の中の煮えた豆腐らしきは『壬生義士伝』という映画の減点材料だ……。


福沢諭吉が想い出を綴った『福翁自伝』によれば、安政4年(1857)頃、大阪に牛肉を食べさせる得体の知れない店が2軒あったという。
そこの客はゴロツキと大阪船場適塾蘭学を学ぶ貧乏生徒のみで、一般ピープルは近寄りもしなかった旨を記している。
これが正しいのなら、近藤勇は牛肉は食べなかった……、とは断じられない。
京都界隈とて、その手の怪しい肉を扱う人物がいたとて不思議はない。
一説では、新選組の連中は、牛ではないけど、屯所でもって養豚していたともいう。
喰うために豚を飼育していたという。
「一般的じゃ〜ないけれど例外は常にある」
のたとえ通りで、やはり、何らかのカタチでもって牛肉を入手したのじゃないかとは、思われる。



しかし、どうもホンマの所を探ろうとすると、曖昧さが後味として残る。
明治から今に至るまで、まだ僅か150年なのだけど——  近藤勇が牛肉を食ったか食わなかったか、どんな味付けだったか、どんな風に食べたか――  このあたり、いま1つ、シャキッとしない。
歴史というものは、あんがいと大雑把で、部分に眼を近寄せると、たちまちに輪郭がボケるんだね。
そのフォーカスの曖昧具合が不思議。



過日。ピカピカ晴天の日曜、某氏宅屋上でのサンマ・パーティ。
某BARの20周年記念と某カップル成立の祝いを含め、にぎやかに。
そこで横浜から参加のS氏に、「太田なわのれん」(前回記事参照)の話しをば聞く。
明治時代の廉価な牛食提供と違い、そこからの連綿たるヒストリーが今や老舗中の老舗に同店を押し上げて、一人前のオーダーで1万円は軽く超えるようで、S氏をして、
「親族の祝い事あって一度行った。食べた。うまかった。しかし高額、当然にそうそう出向けない」
とのことながら、”明治から続いてる”というその継続こそが華。
一度行った、というそれだけでもはや充分……、羨ましい(苦笑)。


ながくなった次いでゆえ書き足しておくけど、明治の牛肉流行の背景には、神社優遇の政府の意向とが重なってる。
ながく親しまれた神仏習合が廃され、寺社が分けられ、そこに多数のオッチョコチョイが跋扈して、廃仏毀釈という弾圧的憂き目にお寺さんは直面し、戒律重視で肉食大反対の声をあげるどころか、自分のお寺を守るに精一杯というワヤな状況に晒されたもんだから、運動としての反対が出来ないまま、いわば時代に流された。
神道の方はもとより肉食を禁じていない。諏訪大社御頭祭(おんとうさい)の神饌は鹿肉だし、類する神社も多数ある。
そういう絶妙な違いと、そのパワーバランスの崩れが背景にあっての、明治の牛鍋大ブームだったと、いえなくもない。