サバ缶 百花繚乱

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 何10年もさほど日の目やら脚光を浴びることなくお過ごしであったサバ缶たちが、いまやメチャな活気ワールド。新缶あいつぎ、乱世繚乱のせめぎあい。

 価格抑制のためか、奇をてらったか、缶オープン部分が紙製になったモノも出て来て、ハチャメチャの賑わい。

 サバ缶風味を提供というコトでビニール袋入りな廉価なモノまで出てきちゃってる。(なのでサバ缶じゃないけど)

 新造は濫造につながり、缶のプルトップ部分が硬すぎて、指で引っ張るだけじゃ開かずで、プライヤーでオープンし申したというテイタラクな新参粗製缶があったりもする。

 

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                      紙製の蓋

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               開けるのに難渋する缶
 

 新発売続々で、サバそのものの漁獲が需要に追いつかずで品不足になってるともいい、必然として原材料の値が上がり、なんだか実に嘆かわしい。

 ついこの前には、こんなのまで、出た。

 

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 ロング缶だ。

 缶ビールじゃあるまいし……。缶詰というカタチは、手のひらサイズが普遍的価値有りとボクは思ってる。

 その大きさをば無視しての、逸脱。

 神戸の巨林ジャパンという会社が販売で、中身は韓国製造。(韓国輸入のサバ缶はこれが唯一と思う)

 ブランド嗜好も国産指向もないけど、ゥムムム。ブームに便乗するには目立つに限るという発想でのロング・サイズかしら?

 ツナ缶みたいなオカズの一部分になりなさいとの……、家族団らん数名の夕食の一品として用いることを想定してのものじゃあろうけど、「売るがための新提案」というだけの代物にみえないコトもない。

 “缶を開けたらそのまま食べる”で50年一筋の原理主義者には、これは困った弱ったなロング缶。

 1人の孤独な缶喰らい、として苦言するなら、

「食べ切れないじゃないか」

 ということになるし、そも、こんなサイズで缶詰めなんて、

「美しくないじゃんか」

 ともブ~たれる。

 特に後者の、「美しくない」のウェィトがでかい。

 このロング缶では、箸を缶内に突っ込まなきゃいけね~。シラサギが長いクチバシで餌を突っつき喰らうようなアンバイになって、この挿入、まことにみっともね~、と思う。

 家族団らんの夕食の一品としてか、缶裏に「さばのキムチチゲ」とかのレシピが書かれてたりもして小さな親切も含まれてるけど、サイズゆえに滑稽で、何やら貧相で貧寒、

月天心 貧しき町を 通りけり』

蕪村が眺めた寂しき情景の中に置いていいような、

「侘びしい夕食じゃなぁ」

な感が拭えない。ならばいっそ、ビニール袋に入ったヤツの方がこの場合、経費はもとより、寒中水泳の我慢の高徳ありっぽくで、いさぎよい。

 

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 なんて~コトを思ってたら、さらにまた出たロング缶……。

 これはニッスイ、国産だ。

 けども、

『コク旨みそ煮』

 は、ま~よいとしても、

「CANから惣菜」

 というような余計ゴトが書かれてるのが、好かん。

 さらに、

「ごはんのおかずに」

 だなんて……、お節介が過ぎるロング缶。

 とにかく売りた~い! の気分が缶周辺20センチ四方に漂ってやしないか。

 

 しかしま~、ブ~ブ~云いつつも、缶詰という存在は大好きでありまして、ヒトの発明品の中では筆頭に置いていいのじゃないかしら? そう思って久しいし、わけてもサバ缶というのは特段にイケてますなっ。水煮のクセある風味、骨までサクサク味わえる歯ごたえの妙味、味噌煮のお汁の旨味……。飽きませんね。

 

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 上写真、福井生まれのS君がついこの前にギフトしてくれた2缶。

 福井県西部の小浜オバマの産、いわゆる北鯖、お江戸の時代にゃイチバン重宝されてたサバどころの缶。

 サイズといい控えなパッケージの色彩といい、こういうのが王道だ。とはいえ今は、需要に供給が追いつかずでノルウェーのサバを原材料としてるようだ。惜しいが、ま~、しかたない。ノルウエーのサバであれ、小浜で味付けた缶というところを感じるべきな逸品だ。

 

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 これまた先夜にKちゃんがくれた逸品。一見は鯖寿司だけど~、実はカマボコの上にホントのサバがのって、絶妙に美味しいというお品。以前にも紹介しましたが、サバ缶ではないけどサバつながりで語るに価いする長崎は天草の特産品。

 

 で、このサバ缶爛熟期にあって、ボクにとっての”良いサバの缶詰”とは何か?

 そこをホントは、掌握しなきゃ~いけないワケなんだ。

 新缶出るたび「おっ!」っと右往左往してたんじゃ~ヨロシクない。ボクらにとってではなく、ボクにとってが肝要だ。

 缶詰に対して、「ボクはあんたが好きだから」の理由付けを申せるだけの、『顧客』としての位置掌握が出来てないとダメだと思ってるんだ。

 たかがサバ缶とあなどっちゃ~いけない。そうでないと、”いいね”ボタンを押しちゃうだけの、欲望社会の波に浮くだけの、『消費者』という名の情けない身の上に落ちちゃうぞ。

 あえてしっかり意識的に偏屈なばかりに、己のが嗜好の指向を思考し、いつナンドキでも、

「あ~だこ~だ」

 と云えなきゃいかんね、サバ缶に。

 コンシューマー(消費者)とカスタマー(顧客)は近似はしてるが、別物だ。

 サバ缶から見たボクは、平均化された群像の中のただの消費者か、サバ缶そのものが恐縮する顧客になりえるかが問われてるんだ……、などと形而上っぽく云ってりゃ、サバ缶の旨味の質具合がミリ単位で測量出来るように思ったりもしているワケで、ま~、そういうコトで云えば、ロング缶は今後2度と買わない立場に立ってサバ缶ラブの旗を振ろうじゃん缶。

 

 

 

ミルキーソフトのキャラメル味

 1ヶ月ほど前のことだけど、フジヤのミルキー・ソフトにキャラメル味というのが新登場で、これが珍しくも近場のスーパーに早々と入荷しており、買ってしまうのだった。

 バターみたいにパンに塗るスプレッド。

 すでに”普通”のミルキー味のものは販売され(これは以前に書いたね)、いまさら目新しいわけでもないけど、ま~それでもバリエーションが増えたのが喜ばしや、速攻で食べなきゃいけないモノでもないけど、手に取ってニタリ、ベロをだして微笑むのだった。

 

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 けども、スーパーの棚をよくよく見るに、パッケージ違いも置かれているのだった。

 何が違うって、ペコちゃんが、「あちゃ」ってな顔でベロだして頭コンという図柄……、だけが違うのだった。

 

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 これはいったい、ど~いうことであろう?

 

1) パンスプレッドなミルキー商品第2弾としての、いわば便乗的追加に対してのペコちゃん的自虐、それゆえ左目をあらぬ方向に向けて頭コンなのか……?

 

2) あるいはただ単に地域限定な別パッケージなのか?

 

3) あるいは、ペコちゃんフアンならきっと両パッケージを買うだろう、の思惑的事業展開なのか?

 

 などなどなど、考えるというホドでもないけど、

「ま、いいかッ」

1)が示唆するところも呑み込んで、密かに軽度なペコちゃんファンである当方は 3)に適合し、両方ともを買ってしまうのだった、フジヤの思惑通りに。

 で、さらに数日後には、旧来のミルキー・ソフトもパッケージ違いが販売されている。

 

 自明ながら、このような販売&購入は室町時代では考えられない。

 パッケージ違いだけでモノが売れるワケもなく、そもパッケージの概念は、茶道具の箱に名を入れることで茶碗の価値が高まるという局所的な”発見”に留まって、まだ一般化に遠い。

 むしろ箱書きがすわるコトで何で茶碗が高くなるのか不思議でしかたないというアンバイの初期の初期。茶碗に名と作者なり推奨者の名(めい)を加えると儲けが飛躍する旨味を知った堺の商人らがニッタリ北叟笑んでる程度で、むろん、そこに利休もいるだろうけど……。

「要冷蔵の商品」があるワケなく、冷蔵庫なんて夢想も出来ず、ペコちゃんもまだいず、これは室町時代をいきたヒトに較べてズイブンにお得というか、進んでるというか、ズイブンに未来な商品経済の爛熟話。お気軽太平楽なハナシなのだった。

 むろん今が平和な社会であろうわけもなく、その点は室町時代とあんまり変わらないと思うし、日々のニュースというカタチで届くアレコレな情報に翻弄されっぱなしなのは室町時代より、おそらくかなりヨロシクないけど、選択幅が大幅に増した庶民生活を感受できるという1点では、やはり現在の方が上なのだった……。

 当然に、それは上なだけで、良くなったという意味じゃないけども。

 

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 これまた最近のことだけど、上写真のハンバーガーがワリアイとお気に入りなのだった。

 とても旨いというホドでなく、

「ま~、悪くはないにゃ」

 程度が根底にありはすれども、それでも従来のスーパーなんぞで売ってる安い既成品に比べるとウンデンの差ありの商品なのだった。

ハンバーガーを喰ってる気分がする」

 という1点で、これは珍しいモノに思える。

 もちろん生野菜なんか入っていない。あくまでも既成品。

 いわゆるバンズでなく、丸っこいだけでパンがいかにもパンなのがちょっと惜しまれるような気がしないではなく、サイズと相まって、あっためて写真に取ろうとすると下のように、カバが口を開けてます~みたいなフニャケ姿になっちまう。

 

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 が、

「2度と喰わんぞ」

 なマズイものでもない仕上がりに星マーク1つ半くらいは進呈し、3週間に1ケくらいならオッケ~な商品なのだった。

 
 最近はどこのスーパーでも手作りパン工房がしつらえられて”焼き場”が可動し、香ばしい匂いと相まってなかなか精彩ありだけど、ビニール袋に入れらた既成品が積まれたパン売り場も捨てがたい。

 トングとトレイでやや上品に扱われるオートクチュールめいた品よりも、いささか雑に扱われて平積みになってるレディ・メイドの方が断然に好きとは云わないけども、スーパーに出向けばパン売り場を一巡する癖は、ある。さほど買いませんけどな……、商品がいっぱい並んでるのを見ると直にオナカに入れずとも、メダマが喜ぶの。

 上記の品はどういう次第か近場のスーパーになく、ヤマザキのディリーストアでしか見かけなかったけど、ごく最近になって類似品がスーパーにも置かれだしてる。

 

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「完熟トマト風味&マヨネーズ」ではなくってぇ、「バーベキューソーズ&チーズクリーム」と、チョイっとお味を変えている。

 けども、舌に嘘や誇大は通用しないのだ。

 これは……、1段安い同社のハンバーガーと同じ味わい。確認のため同時に温めて食べ比べてみたけど我が舌では相違なし。感じるところナシ。

 

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 こういう場合、知恵あるヒトは、スライスチーズを加えたり、ケチャップを少量混ぜ入れたり、レタスを添えてみたりと一工夫を加味してチンすりゃ美味しいよ~ん、となるのだろうけど、サバ缶はオープンしたら温めも不要、そのまま食べる、を規律化させて早や50年越えのシンプル原理主義で生きてる身の上、ヤマザキのパンも岡山キムラヤのパンなどなどいずれもご同様、

「既成品は既成品のままに」

 無加工イートが基礎の基本なのでありましたから、まっ、これでいい~と。

 この原理主義をかつてお友達のM君がカラカラ笑ったけど、な~に、

「これぞ王様の道なり」

 ケラケラ笑い返して既に久しい。

 ま~、もっとも、裸の王様ってな感じもないワケでもないけど~~ン、

「 赤裸でもキングはキング」

 胸に手をあて意固地を擁護す今日この頃。

中村兵衛 ~明治の作家~

 S新聞社のS女史から連絡。

 会わせたい人ありとのことで早速にお膳立て。某日午後、喫茶ダンケにて会合。

 お会いしたのは、同社の社史編纂にたずさわるK氏。おしゃべりし情報交換したのは、明治~大正時代の1人の作家のこと。

 

 中村兵衛、という。

 国会図書館にはこの人の本が29冊もある。

 明治末の作家としては異例に多い。なにしろ書き幅が広い。

 

  • 『魔の池 : 秘密小説』 1907(明治40
  • 『探奇小説:志士の恋』1908(明治41)
  • 『蛇屋敷 : 怪異小説 
  • 『左甚五郎 : 名人奇談 
  • 『侠客浦賀の山三』1909(明治42
  • 『血染の手巾 
  • 『児島長年 : 勤王志士』
  • 『お俊伝兵衛;実録講談』1910(明治43
  • 『女侠水月尼』
  • 『怪傑振袖太郎』
  • 『敵国の妻 : 事実小説 
  • 『狸心中 : 事実小説』 1912(明治45/大正元年
  • 『妻の罪 : 家庭小説 
  • 『史蹟甚九郎稲荷』1914(大正3
  • 『父なき子.
  • 『二人の影』1917(大正6
  • 『人格と趣味 : 修養道話 1924(大正13
  • 『成功は修養より : 修養道話』 

 

 すべてを記載しないけど、ざっとこんな具合。

 講談もの、探偵小説、怪奇小説、メロドラマ、伝記もの、ノゥハウ本……、なんでもござれな勢い。

 で、問題なのは上記リストの大正3年刊の『史蹟甚九郎稲荷』という本だ。

 これは大阪の樋口隆文館から3部作で発売された、ちょっとファンタジーがらみな時代劇なのだけど、タイトルが示す通り、岡山は上之町に明治時代に出来た甚九郎稲荷の由緒話なんだ。

 講談という枠組みでいえば、この本は声を出して読み上げるのがベストだ。

 

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 明治38年の暮れに亜公園の天満宮と合祀したことでヤヤ大きくなったとはいえ、全国的には無名な小さな神社の物語が、しかし、なんで、大阪の出版社から出たのか?

 なぜに、史跡とアタマにもってきて、それを公然たる歴史のように記したか?

 

 数年前、その謎を半分ほど解いた状態で岡山シティ・ミュージアムにて講演し、この小説と甚九郎稲荷の関係をおしゃべりしたけど、半知半解な解けない謎は謎のままに残って、それが気がかりというか、現在進めてる亜公園に関してのテキスト化にも甚大な影響があって、この部分がゆえにお筆が進まず弱ってたところなのだった。

 なんといっても……、中村兵衛という作家の素性がさっぱり判らないんだ。

『明治大正・文学美術人名辞典』という本が大正15年頃に出ていて、お花の先生までも含み入れてその生年没年など、ドエライ網羅力ある文字通りな辞典なんだけど、なんとその本に中村兵衛の名がないのだ。

「なんでじゃ?!

 訝しむものの、手がかりがなく、途方にくれていたのだった。

 

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 さて、一方のK氏は社史の編纂をやってるから当然に明治の時代にも降りていく。

 S新聞社(何もSと書かずともいいけど)は、明治12年に起業。当時は「山陽新報」といって、けっこう主張が明白な新聞だったから、国やら県に睨まれて、発行停止とか編集者が数週間の禁固刑をくらうとか、なかなかラジカルで元気な新聞社だった。

 で、K氏は当時の数多な関係者の名から、中村兵衛の名を見出して、

「おやっ?」

 となったワケだ。

 S女史が以前にボクのことを書いた記事を思い出し、それでS女史経由で会合となった次第で、これはブラボ~、めっちゃ有り難い。

 

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        『史跡甚九郎稲荷』。見事な挿絵は折り畳まれて入ってる。

  

 わずか150年ほど前の人物が、それも30冊前後の本を出している、それなりに名が通っていたであろう作家の生年没年が判らないという、この一事には、なにやら人の生涯の虚しさみたいなものも感じないワケでもないにしろ、ともあれ、会合できてホント良かったんで、ここで紹介する次第。

 

 結論を先に云うと、やはり……、判らない部分が幾重とあるのだ。

 K氏の知る範囲、ボクの知る範囲、両方を付け合わせ、かき混ぜてみても、輪郭のない未知が横たわっているのだった。

 でも、けれど、新たな知見を多数得ることが出来て、これはビック、立ち上が~れビッグエックス~な驚きもまた味わえるのだった。

 

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      挿絵の一部。なんとエンボス加工されておりキツネの毛並みが手にとれる。

 

 K氏に教わるところによれば、中村兵衛は一時期、この岡山の新聞社に勤め、小説を担当している。

 それも「山陽新報」ではなく、同時期の岡山にあったライバル紙「中国民報」という新聞社でだ。こちらもラジカルな新聞で明治33年には主筆田岡嶺雲が官吏侮辱罪で投獄されたりもしてる。

(昭和11年に両社は合併。しばらく「合同新聞社」の名で続け、戦後の昭和23年に山陽新聞社に改名)

 小説『史蹟甚九郎稲荷』は講談ものというカタチで「中国民報」に連載された後で大阪の出版社から刊行。3部作というか、3冊に分けて販売された。

 この時点で中村兵衛は在岡山ではないようだが、ボクはかねてより細謹舎(市内表町にあった出版社ケン書店)を創った北村長太郎が、この小説執筆の仕掛人ではないか? 亜公園が閉園した後、地域(上之町・天神山界隈)の集客力アップを担う場所として甚九郎稲荷を大いに活用という、地域興しとその創生のキーを握る人物とみており、それでもって甚九郎稲荷を語ってみようと企てていたから、この新事実の提示は、

「おっ!」

 あらたな1章を編む好材料となった次第なのだった。いわば、お料理のための良い具材が入ってきたみたいな感じ。

 なので今、ちょっと興奮させられている次第。こういう昂ぶりは、いいね。

–––––––––ということで、作家・中村兵衛と甚九郎稲荷の関連話はまた別機会にお伝え申し上げ候ぅなれど、ちょいと前進した喜びをば今回は、おすそわけ。

 

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  会合後、表町でKちゃん・Eっちゃん、かしましシスタ~ズとバッタリ鉢合わせ。

 移動し、禁酒会館でお茶。ぁ〜しまったなぁ、K氏はかつてS紙上で同館のことを書いた人だった……、誘えば良かったなぁとアトで後悔したのをここで公開。

 Kちゃんから面白いカタチのオチャケのおつまみドッサリ頂戴でニッコリのボクちゃんは感謝かんげき柿の種。そ〜、これはオカキやらのセット。この先しばし、我が部屋からは夜毎、カリカリポリポリ、歯ごたえ良さげな音が続くだろう。

 

千利休 切腹と晩年の真実

 知友の城井くんが東洋経済オンラインで大きく紹介されているので、後援気分でここでもチラッと紹介。

 東洋経済の記事はコチラ

 何年か前、幕張でボクも乗っけてもらい、沿道の方々のビックリな視線が大変におもしろかったですニャ。バス停留所のヒトたちがいっせいに指差して、「あっ」てな顔されてたのが……。

 で、別な、動画として下を。^_-


1958 Chrysler Imperial - ULTRA 7 POINTER

 この動画は2013年11月に撮影されたものだけど、撮影後にエンジン不調で修理に出したと……、本人苦笑。ホビー誌での露出は過去に何度となくあったけど、東洋経済のような一般紙での紹介は初めてかもとのことで、反響の大きさに、今度は本人がビックリのよう。

 

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 自慢じゃないが、ボクはテレビを持ってない。

 けどま~、何らかのカタチで、それもずっと後になって番組に接したりはする。

 で、そうやって観るドラマなんぞで知らぬ女優に接し、たま~に、

「おんやっ?」

 惹かれて注視するような遭遇感を味わう。

 遭遇というより見出すみたいな感触だけど、それを印象としていつまでも残せるというヘキがあって、これは自慢してもイイ。

孤独のグルメ』の第1シーズン第9話で、小さな劇団が出てきて、そこの新人女優が監督に叱られて劇場から駆け出し、それをゴローちゃんがチョイと癒やすというのがあったけど、その新人女優に扮した若い女優が妙にボクには引っかかった。

 メチャンコかわいい、というだけでなく、どこかメランコリーな翳りが内包された女優だなぁ、印象深く画面を眺めてた。

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 で、この前、amazon primeで、『トリック新作スペシャ3』を観ていたさい、何やら凄ご~く引っかかる若い女優がいて、またぞろ、

「おんや~?」

 この若い女優……、イイじゃないかシーじゃないかデーれぇエエぞ……、着目しつつ観終えて直ぐにウィキペディアで調べてみると、

「ありゃっ!」

孤独のグルメ』の第1シーズン第9話の、あの子だったワケなのだ。

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 いい勘、いいハナ、してんじゃんボクは……、と自賛したい次第ながら、『孤独のグルメ』の第1シーズン第9話の子と、『トリック新作スペシャ3』の子が同一人物と気づかなかったのは、この前書いたクリステン・ウィグと同じ現象。

 要は、女優の優劣を見るメダマが良いぞと自惚れつつも、個体識別は出来ていない、のだった。

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 朝倉あき、というらしい。

 既に何本ものテレビドラマに出てるようだから、いまさら何言っての? かも知れないが、ほぼゼッタイにこの女優さんは、グイグイ伸びてくような気がするなぁ。

 今後、あき様と呼ぼう。

 

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 さて、クリステン・ウィグが出てた映画『LIFE!』を褒めちぎって無人島に持っていけるただ1本のDVDかもと、ヨイショしたついでだ……、褒めちぎって良さげな本1冊を考えてみた。

 ま~、どうしてもこういう設問では最近に読書したのが俄然に上層にあがってしまうのじゃあるけれど、無人島に持ってくわけではないにしろ、かなりガッツ~~ンと来たのは、下写真の本ですな。

 

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千利休 切腹と晩年の真実 (朝日新書)


 著者は文教大学教育学部の教授で古代史と茶の湯の歴史を専門にされる。

 この教授が2013年に出版の『利休切腹』(洋泉社)を書き改めて、こたび朝日新書として出したのが『千利休 切腹と晩年の真実』。2/28に発行のバリバリ新刊だ。

 オビのキャッチ~な文言を眺めるに、一見、いわゆるトンデモ本の部類か……、そう思われてもしかたないセンセーショナルな感触もあるのだけど、チャイますチャイます。

 これはちゃんとした学術的な本。

 思わぬ盲点を突いていて、その盲点を挙げ連ねるだけでなくキチリと資料にあたり、かつ資料が1級のものか2級のものか丹念に精査され、本当の史実を見極めようとする姿勢に満ちているので、読んでメンタマからウロコ剥離が連続するという具合な本なのだった。

 当の著者とて、ながらく茶の湯の歴史を研究し、利休が切腹していないというコトに気づいたのはつい最近、2013年頃だったというし、発表にあたっては、

「勇気がいることでした」

 とも吐露されている。

 トンデモ本同様、トンデモ学者の烙印を押される可能性があるし、洋泉社から出版した後どうなったかといえば、ほぼ黙殺されたようでもある。

 わび茶を創案し、大きな文化事象を構築し、その悲劇的死をもって、よりいっそうに「茶聖」としての”権威”となった千利休を、没後400年も経って、

「実は九州に逃げ出してた……」

 とくれば、多くの茶の関連者には迷惑なハナシと思われるには違いない。

 

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    数多な茶の湯関連の本。いずれも利休は自腹切って死すが前提で書かれてる……。

  しかし本書では、利休の探求と茶の湯研究は別けて考えるのが妥当ということが示唆される。

 

 利休切腹を証す第1級の資料は存在しない。噂として記述された手紙はあるが、切腹を示す豊臣家の文章などはまったくない。

 公式に登場するのは江戸時代になってから。表千家紀伊徳川家に提出した「千利休由諸書」に初めて登場する。

 現代までの、資料といわれるアレコレの記述は、この由諸書に端を発し、これから拡散している。

 で、以後は、なぜに利休は切腹を命じられたかという、原因追求の方向でもって利休は語りつがれ、結果、小説なり映画なりでずいぶんと秀逸な作品まで生まれることになるのだけど、実はこの400年間、ほぼ誰も、利休切腹を疑ったことがなかったという”事実”もまた、あるのだった。

 ま~、ここがポイントだ。

 そこに着目し、各種の資料を読み解いて、これは文字通り、徹底的に読んで”溶いて”ほぐすという実に学者らしい態度と熱意でもって硬い岩盤に穴を開けてった、その作業の進みがボクには非常に好感だった。

 

 本書は4章だてになっている。

1) わび茶

2) 持庵の成立 

3) 利休切腹

4) 生きていた利休

 

 1)では、わび茶の成立を追ってそのイメージが後世にどう伝わり固まっていったかが説かれ、元禄時代末期に書かれたらしき『南方録』が利休の弟子が記した書として1人歩きをはじめ、わび茶の理想形の中の利休像と史実上の利休像とが乖離していく様相が捉えられる。

 

 2)では、国宝である利休の茶室・待庵(たいあん)を検証。はたしてこれが本当に利休製作によるものか疑義を提示し、そこから行論のラインを伸ばして、むしろ「わび茶」の真髄を体得していた可能性は秀吉にあるのではないか……、と提起する。秀吉が自分の政権を誇示するために設けた黄金茶室や北野天満宮の大茶会などの「イベント茶の湯」と、自身が1番に好みとした大坂城内の「山里丸の茶の湯」の違いを明快に解いていく。で、その「山里丸」における利休と秀吉の1対1の茶が、2人にとってどれほどに豊穣なイットキであったかを考える。

 

 3)で、各種文献を超絶緻密に精査し、それらを付き合わせるコトで、利休が何らかの処罰を受けたものの、利休の木造が代替えとして縛られて晒しモノになった事が証され、本人がお腹を切って自死していないことを立証。ちなみに利休が切腹したと謂われる2月28日は大坂も京都も悪天で大粒の雹が降っており、処刑場では京都界隈で悪さをしていたらしき悪僧が処刑されている……。処刑場に罪状を記した告知板(紙)が唯一の報道だった時代、この悪僧と利休像の晒しがゴッチャになって喧伝されたかもと筆者は考察する。 

 

4)でもって、その後の利休の消息を解いていく。朝鮮攻めで九州に出向している秀吉が大坂の大政所(おおまんどころ・秀吉の母)宛に書いた手紙の中で、死んでるはずの利休に茶をたててもらったらしきことが書かれている事実などなどを検証する。

 

 いやはや頭が下がるような見事な論証論考。著者ご本人は、

「私の説は間違っているかもしれません。利休は本当に切腹しているかもしれません」

 とあとがきに記し、けれども逆に、利休切腹を確定的に証拠立てる資料がまったくないという事実にも言及する。また、研究者が古文書に接してそれを現代語に翻訳するさいの研究者自身の主観が、本来の意味を曲解することがあるのを幾つもの例をあげて警鐘もする。

 歴史とはこわいものです。

 権威ある所が発表したものは「歴史」になっていくのです。

  著者はそう記してる。

 

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戦国茶の湯倶楽部: 利休からたどる茶の湯の人々      中村修也の別の本。この本もすこぶる良書。

 

 既成事実化した今の”史実”を覆すこの大胆な考察提起は、しかし、しばらくは黙殺され続けるのではなかろうか?

 著者中村修也に次ぐ研究者や書き手が登場し、さらにまた賛同見解での書き手が登場し、小説なりコミックスなり映画でもって生きてたことを前提にした創作も加わったりと、利休切腹が江戸時代になっての創作でした……、と誰もが”信じ込める状態”になるのは、時間がかかるでしょう。

 おそらく相当に抵抗圧力も強いはず。それほどにインパクトがある本なのだ。

 何より、「歴史」というものの脆弱さをよく示している。

 元禄という江戸時代最大のバブル期に、なぜにわび茶という質素な形への回帰を指向した書『南方録』が、しかも利休の弟子の手で書かれたものが発見されたというカタチで出たか……、なぜにそれが今も偽書と判っていて茶の湯関係の本でよく引用されるのか、本書が示唆してくれるポイント多数なり。

 むろん、読んでいると幾つか謎も湧いてくる。利休ほどのいわば名士が仮に九州へ逐電し、生きていることが公然の秘密のようであったとしても、その没年などの記録が出てこないのは……、何故だろうかとか。

 

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『南方録』とその関連本。偽書とはいえ利休の真髄を抽出しきって文化的事象の茶の湯をアートの領域にまで押し上げたのが『南方録』の大きな価値。”利休好み”を経典化させてある種な道を造った、いわば茶の世界においての中興の祖本、といってもいいかしら。この本に関しては2年ほど前にちょっと書き記してる

 

 で、以上を踏まえて思うけど、たぶん、この先もホントの利休像と物語の中の利休像は並列で駆けてくのだろうなぁ。

 実在したナザレのイエスと、その後の12使徒による布教でもって創り出されたキリスト像が違ってはいても、いまもってイエス・キリストが信じられているのと同様、それほどに利休というのはアイコンとして独特の放射光を放ってるわけで、この本が投じた一石はデカイ波紋となるというか、かなりエポックな ”事件”とも感じてる次第あって、長々に記すと……。

LIFE! ~クリステン・ウィグ~

 大きなお世話じゃあるけれど、ラミ・マレックは、これから苦労するのじゃないかしら。

 演じた役に役者そのものが呑まれてしまう危険な感じをおぼえないでもない。『ボヘミアン・ラプソディ』で最高の称賛と誉れを得たものの、そこにはコダマみたいにフレディ・マーキュリー礼賛の声もまた大きく湧いているのであってオリジナルの映画キャラクターとしてのラミ = キャラクターではないから……、次回作でその圧倒的フレディ・イメージをどう払拭出来るかどうかが肝。

 もちろんガンバッて欲しいし、こういう予想は外れて欲しいけども、ブーム後は相当に険しい道のりになる気がしないではない。ま~、それほどにラミのフレディがすごかったワケで。

(云うまでもないが、クイーンの4人に扮した役者4人全員がすこぶる素晴らしくもあった、よね)

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 ところで……、どんな映画に出演しようとも、ゼッタイに彼女、と判る女優がいるね。

 例えば、M・モンローとかグレース・ケリーとかシガニー・ウィーバーとかジョディ・フォスターとかジュリア・ロバーツとかとかとか。

 けど一方、どんな映画に出ても、ゼッタイに彼女、とは判らない女優がいる。

 ゼッタイとは大袈裟ですがぁ、少なくともボクには判らなかったヒトがいる。

 クリステン・ウィグ、がそのヒト。

 近頃常々に気になる女優さんのナンバーワン。

 

宇宙人ポール』 強権な父親の呪縛下にあるヒロイン

LIFE!』 バツイチ子供ありのヒロイン

ゴーストバスターズ』 4人の科学者のうちの1人

『オデッセイ』 NASAの広報部長

ダウンサイズ13cmになったマット・デイモンのワイフ

 

 いずれも主役や準主役クラスの大事なポジション。ところが、も~まったくといって良いほど目立たず、上記の内4本(『ダウンサイズ』は出演をしってたんで)、観終えてちょっと調べて初めて、

「あらっ」

 彼女でしたか……、なのだった。

 

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 『宇宙人ポール』では悪役としてシガニー・ウィーバーが出てるけど、この映画ではあきらかにシガニーが場をさらい、ヒロインのクリステン・ウィグはケッタイな眼帯姿で登場するも、かすんでる。

 

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 同じく『ゴーストバスターズ』でも、オバケ退治の4人組女性の中で目立たない存在という次第ではないけれども、他の3人にはあるものが彼女にはない……、とも見えるし、平たくいえば、他の3人の狂気めいた溌剌がない溌剌っぷりともいえる。

 この映画のラストではゲスト出演のシガニーが俄然に場をさらう。けれどまた逆に、シガニー・ウィーバーが俄然に際立つのは対比としてのクリステン・ウィグが置かれているから……、とも愚察する。

 

 意識的かあるいはそうでないのか、そこが難しいけど、このヒトには自己消去めいた反射運動が働いてるような気がしないではない。

 木の葉に似たコノハチョウとか小枝そっくりに変色もするナナフシのように、あたかも背景に溶け込む擬態みたいに……、彼女は見えてこない。

 あっぱれハツラツに演じれば演じるほどに彼女の存在はフィルムの中で透明化してって、目立たない。

 けど、目立たないことで逆にその存在は際立つともいえる。いないようでチャ~ンといるという不思議なポジションで揺蕩(たゆた)ってる。

 

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           『オデッセイ』のエンドロールでのクリステン

 

 いわば、どこにでもいそうな、空気の馴染みに埋没しそうな、駅前ですれ違ったさい一瞬に目がいくけど直ぐに忘れちゃう程度なイメージ像としての女性を、彼女は演じる。

 あの姿勢の悪いジュリア・ロバーツ(『オーシャンズ11』で階段を降りるシーンとかで確認してちょ)が放っている奇妙なばかりのアクあるオーラの、そのかけらもない。

 ベタにいえば輝かない。炯々とは光らない。性としての女性を直線的に意識させない。

 けども、後になって彼女と判ると、ジワジワっと、

「いや~、あの役は彼女じゃなきゃ駄目だったよなぁ~!」

 合点がいく。

「ぁ、やっぱ、そうだよなぁ」

 妙に、女性たるを逆に意識する……

 この不揃いなバランスが彼女の魅力の照射点とは判っているけど、さ~、そこをコトバとしてうまく結べない。

 だから困った存在だ。

 元々がコメディアンだから、自身を押し出す手法も自虐含みな笑いに持っていく術も心得ていらっしゃるのだろうけども、おおらか、というより大味といってよいアメリカンなそのギャグ連打の彼女よりも、映画の中の目立たない彼女に、ボクの興はむく。

 


レベッカ・ラルゥという女性に扮したクリステンの『誘惑の達人』と題されたサタデーナイト・ライブでのコント(2011年放映)

Rebecca Larue (Kristen Wiig) is supposed to talk about being single during the holidays, but ends up making Seth Meyers uncomfortable with her awkward brand of flirting. [Season 37, 2011]

 

 彼女が演じた中でシーンとして際立っていたのは、『LIFE!』でのヒロイン役だろう。

 わけても、アラスカのカラオケバーで主人公を鼓舞する幻想シーンで彼女が「スペースオデッセィ」を謳い出すところ。

 デヴィッド・ボウイのそれと同じく、彼女は12弦ギターを手にし、あの高名な出だしを歌い出す。

 そこに本物のボウイの歌声がかぶってくる。

Ground control to major Tom
Ground control to major Tom

Take your protein pills and put your helmet on

   管制室からトム少佐へ

   プロテイン飲んでヘルメットを装着せよ   背景でカウントダウン……

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  これを聴いた主人公は遂に発奮し、ただ1枚のネガフィルムを探す旅に出向いてく。

 名シーンといって過言でない。ここでの彼女は主人公にとって女神そのもの。

 が、そうであっても、このミューズにはアクがない。根源的に強烈な何かを発していない。

 たぶん、このアクのなさが、彼女を彼女たらしめているに違いないのだけど、さ~、うまくコトバとして、あらわせない。どこにでもいる、いわば普通に存在する女性だ……

 だから逆に、映画を見終わった後に妙な印象として彼女はボクの中に刻印され、いつまでも消えずに居座り続ける。

 だから、不可解な存在。

 なので、目立たないがゆえに、イチバンに気になる女優さんということになる。

 

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 シガニー・ウィーバージュリア・ロバーツには、自己消去がないけど、クリステン・ウィグただ1人、彼女は自分を消そうとしているとも見える。シガニーやジュリアが持ち合わせていない何か、引き算で勝負に出てるようなところが、彼女にはある。

 

 女優をスター、コトバそのものに星のタイプで分類してみると、太陽のような中心となる恒星、惑星、衛星、彗星、変光星赤色巨星中性子星……、けっこうなタイプで大勢の女性の顔と名が浮く。

 けども自ら光らないけど、ブラックホールという存在もまたあるワケで、いっそこれはスターをのんでしまう存在。

 クリステン・ウィグはそのような存在かも……、と密かに思わないでもない。

LIFE!』はもう何度観たことやらだけど、近年ボクが選ぶところでのベスト3の1本。無人島に1本だけ映画を持ってけ、と云われたら現状ではまずこの映画……、俄然にナンバー1と化す。

 というホドに好感してるのがクリステン・ウィグがヒロインの『LIFE!』。

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LIFE!/ライフ [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

 

 監督で主人公役のベン・スティラー、伝説的カメラマン役のショーン・ペン、老いたシャーリー・マクレーン他出てくる役者が皆な素晴らしい上に全シーン全カットが美しくキマッてる映画って、あんまりない。

 タイトルバックのあしらいが超絶にシャレているのもビッグ・ポイント。

 イチバンに感じ入ったのは12弦ギターのシーンじゃあるけど、アフガニスタン北部の雪中にて雪豹の生態写真をショーン・ペンが撮らなかったシーンもいい。撮らなかった理由を呟くショーン・ペンの顔もいい。清さの深度に発奮させられるし、そこがこの映画のキーになってる。清廉ということではクリステン・ウィグの役もそうだろう。

 などと書いてるうちにまた観たくなるけど、美味しいモノはできるだけガマンしたノチがよろしい。

 

はやぶさ2とピーター・トーク

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 先日22日。朝6時半頃にMacを起動させ、「はやぶさ2」の着陸実況配信を眺める。

 思った以上にチカラの入った番組で、実況ゆえの醍醐味を感じた。

 同居のマイ・マザ~へのモーニング・サービス時間と重なっていて、オシメ交換やら朝食をお出しした頃合いで着陸が成功したようで、そのちょうどのタイミングを見ることが出来なかったけど、ま~、かまやしない。

 20代後半から30代にかけての若い方々の炯々を見て取れたし、イオン・エンジンの技術者らしきで番組の解説役の1人となってた月崎竜童という、ま~、まるで芸名みたいなヒトの丁寧かつ親切な案内ボキャブラリーにも感心させられた。

 このヒトは判りにくい専門用語を柔らかく溶いて、上手くほぐし、

「個人情報につながるコトでもあるから、どこまでおしゃべりして良いか判りませんが……

 咄嗟の判断でもって、管制室内の男性と女性の比率なども解説してくれた。

 こういう軽妙洒脱いたれり尽くせりな、柔らかい人物がいる組織はイイ。

 このヒト自身きっと今後、いっそう伸びてくに違いない。

 

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     右から2人めが月崎氏。司会の女性も矢継ぎ早やい質問攻勢で醍醐味あり♡

             

 何人もの欧米人も管制室にはいて、日本イチバンのアクがない様子も伺いしれ、それもよろしかった。

 月や火星に居座わるような着陸でなく、あくまでもタッチ・アンド・ゴーな数秒の着陸の第1回めの成功だけど、ともあれ、よろこばしい。

 テレビ局的でない、オープンで溌剌とした実況だったのが何よりよろしかった。

 

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                   月崎竜童氏のアップ

 

 けど日本経済新聞が同日の社説で、

「科学的興味は尽きないが」

 と前置きしつつも、

「資源探査に生かせ」

 だなんてセッカチにも早々とガチンコな経済最優先を云ってるのにはゲンナリだった。

 石炭や石油はどうやって産まれたか、今はその系譜の大元たる地球生成の、その図帳を作るための実証考察をやってるワケで、この社説を眺める限りは、喰うことしか考えない恐竜の貪婪しか見えずなのだった。

 

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 同日の夕刻に、ピーター・トークの訃報。

 つい最近、実は連日のようにモンキーズを聴いてたもんだから、

「えっ!」

 けったいなタイミングじゃ~あった。

 4人のメンバーの中でイチバンに興味のないヒトではあったけど、それでもメンバーの1人。

 ディビー・ジョーンズに次いでこのヒトも去ったか……、遠い中学生時代に接した感覚と今の感覚がもつれ、

「光陰矢の如し」

 っぽい人生速度を思わないでもなかった。

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 今あらためて、あえてヘッドフォーンで聴くに、デビュー曲『恋の終列車』でリード・ボーカルしてるミッキー・ドレンツの歌声には緊張が感じられる。

 初々しいといえば単純だけど、その緊張ぎみな声ゆえに当時の米国の同世代が共感し、この曲も入ったデビュー・アルバムがいきなり500万枚という次第につながったのかも知れない。

 歌詞の内容とその震えを抑えたような声が連動し、徴兵制ゆえにベトナム戦争に駆り出されるやもしれない当時のヤング層ご一同に連鎖の反応を起こさせたのかも知れない。

 


 

 

 出だしで、ドラムのミッキーは、

クラークスヴィル行き最終列車に乗るから、駅で待ち合わせよう」

 と歌いだす。

 Take the last train to Clarksville,

    and I’ll be meet at the station.

 

 クラークスヴィルテネシー州にある人口12万の都市。

 その中心街から16kmの所にキャンベル砦という極めて広大な地所があって、ここには米国陸軍の第101空挺師団の基地がある。

 2万人の兵を擁する大掛かりな駐屯地で、第2次大戦から今に至るまで多くの陸兵を養成し送り出す場所でもある。

 米国の当時の若者なら、とくに徴兵制度でベトナム戦争に送り出されるのを不安がってるヤングメン一同には、『徴兵 - 戦争 - 死ぬかも』な誰もが感じるであろう不安の代名詞となる場所の名がクラークスヴィルなのだった。

 

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            101st Airborne Division  Base

 

「恋の終列車」はそのクラークスヴィル行きの直前、つきあってる彼女と駅で束の間だけど会おうという内容。

 歌詞に徴兵もベトナムもないけど、クラークスヴィルの1語でもってこの歌が意味している深刻度合いは当時の米国ヤンガーズにはピンと来るという次第……。

 ピーター・トークはこの曲ではベースとコーラスを担当、どこか軽々しい彼の頼りなさげな風情、ガニ股ぎみな不格好さもまた、アイドル的存在ではなく、すぐそばにいるお仲間的同世代の子の元気な素振りという感じで当時のヤング一同、

 Oh, no, no, no  Oh, no, no, no

 And I don’t Know if I’m ever coming home.

「嫌だ嫌だ嫌だ……、僕、戻れるかどうか判らないんだっ」

 背景にひかえた不安を懸命に隠蔽して青春を謳歌してるような姿カタチの見せかけに、ヒリヒリと共感したのかも知れない。

 ティーンエイジな浮かれ気分の時間は短く、18になると徴兵される、その不安の焦燥こそが「恋の終列車」の核となっていたろう。

 

 CNNなどの米国ニュースではピーターの訃報が割と大きく取り上げられていて、

「おやっ?」

 と思わさせられた。

 60年代をヤング全開で育ったヒトらが今は50半ば~60歳代、紙面構成の決定を担う方々だろう。

 モンキーズというのはTVが創ったバンドとしてスタートしたけど、今現在の米国の60歳くらいのヒトにとって以外と大きな位置を占めているのだろう。

 ただの郷愁としてではなく、通過した政治的兵役の辛酸と文化的ポップな甘みある色彩が混合し、頬っぺに浮き上がった経年によるシミみたいに、独特の位置に置かれているのだろう。

 同世代ながら日本に産まれ育って『モンキーズ・ショー』をおバカで楽しくカッコイイ~~っと観ていたワタクシと、米国でこれを眺めてた同い年の人物とは、たぶんにモンキーズの位置が違ってるんだ。

 辺野古の埋め立て問題が真に問題と感じて苦悶してる当地のヒトと、他県でもって傍観し他人事のニュースとして眺めてるのとの違いみたいに、といえばコジツケな大袈裟にしろ……

 

 

影に仰天 ~火星年代記~

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 過日。The Recycleのライブ。

 このバンドの溌剌を見るのは年に1度っきり。ニドサンドゥウィッチィじゃなくって年イチド~ッキリがドッキリ鮮度も保たれるって~もんだ。いいね。

 スナザイル君のMCとボーカル。タケザイル君の確実なベース。動と静の佇まいがいいね。

 ギターのナカザイル君とドラムのコニザイル君もいい。ガツ~ンと濃厚な豚汁の旨味めくギターのコクと、炭酸多めのスカッシュめくなキレあるドラムがヨーロピアンの重厚な城塞を思わせてハードにハートをまさぐってくれるんだホントだよ。

 メンバーによるコーラスが加わればさらに良しと思わないでもないけど、音楽がもたらすデッカイ喜びを味わえるバンドのナマを味わえる1度っきりの気分や、良しヨシ。

 70年代80年代90年代と通り過ぎた、いつかでどこかでの楽曲が今風味になってリサイクルされて還って来る感触も、大いに良しヨシ。

 

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 過日、いっぱい呑んで良い加減で家路にむかう夜道。フイに人が急接近でかなりドッキリ、ゾッとした。

 けど、誰もいね~。

 何のことはない。光の悪戯。街路灯の光加減でスポット的にすぽっと自分の影が出来ただけ。

 何だオドカスなよ~ん。

 確認のため一枚写真パチリ。

 自分に怯えちゃいけませんなぁ、カッコ悪い。

 

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 2004年の1月に火星に着陸して以来、自分の影に怯えたりもせず、がんばって単独行動していた探査車オポチュニティが動かなくなったそうで……、なんと15年の孤軍奮闘だったのだから立派でしたなぁ。

 想定された可動寿命は90日だったワケで、性能の圧倒的良さが際立った。火星大気の風が太陽光パネルや機器に積もる砂埃をはらってくれてたのも幸いだったようだけど、15年はすごい。

 

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 で、思うのだけど、自分が、オポチュニティみたいに単独1人っきりで火星にいるとしたら、どうだろ?

 マット・ディモンの『オデッセイ』(バカな邦題)はその1人ぼっちを描いて秀逸だったけど、いざや自分があの境遇にあったら、あぁ、もちろんジャガイモ栽培なんぞはしなくても良いリゾート気分な隠遁滞在者として考えるに……、夜は、カーテンを降ろすだろか?

 『オデッセイ』にそんなシーンはなかったし、そもそも誰もいないのだし、地球に較べて太陽光も弱いし、カーテン不要の環境なんだけどね。マット・デイモンも夜を恐れるような演技はしていない。

 けど、なんだかほぼゼッタイ的にボクはカーテンを欲しがるねっ。

 そうでないと、も~まるで落ち着かない。

 

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 出来ますればこの場合、ヴィクトリア調な重厚なのがイイ。

 アングルが描いた公爵夫人の衣装なんかの豪奢な生地がイイ。レースとサテン。とくにこの蒼色。火星の闇夜を遮断するには最適っぽい。

 ビロード系の赤も考えたけど、な~んかムラムラしてきそうな予感もあるし、1人ぼっちでムラムラもね~。やはり蒼っぽい沈静だか鎮静を促すようなカラーが良いね、火星では。

 で、レースを多少に取り入れたいのは、これは地球への郷愁……。

(上:『ドブロイ公爵夫人ブログリィ妃』肖像 アングル作)

 

 とはいえ白昼の火星は、景観としてはたぶん4日めにはもう飽きちゃうだろうし、太古の火星人の都が発見出来そうでもないし、さてそうするとやはり、夜の闇が浸透して空想の鎌首がもたげられ、

「ぁ~、それでも何かいるような気が」

 ゾクゾクッと薄ら寒い感触を背筋にはしらせて、あえてそれを愉しむがための装置は要るな……。

 外にナンか変なのがいるぜっ、てな妄想がためにも、ほら~Horror、やはりカーテン要りますなっ。

 そこで読むブラッドベリの『火星年代記』は地球で読み感じてたのと異相し、1つの滅亡史として、よっぽどに怖いものとなって刺さってくるやも。

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫 NV 114)