チョンドリーノとイチジク

 よそ様の庭のイチジクは知らないけれど、うちのイチジクは今年やたらに実ってる。昨年の5~6倍はあろうか……

 それらがこの前の台風の強風に大いに煽られた後、なにやら急速に熟し出し、連日、2つやら4つやらを収穫するという有り様。

 でかい実で、けっこう甘い。

 

f:id:yoshibey0219:20190824175014j:plain

 

 いわゆる、「なりどし」というコトになるんだろうけど、台風が影響を与えたような気がしていけない。

 秋の松茸は、夏の終わり頃だかに地震があると、収穫量が増えるらしい。大地の揺れが、松茸生育の土壌のカンフル剤みたいなアンバイなのだろう。

 イチジクの熟成も、強い風が刺激になったんじゃ~なかろうか? 葉も枝もかなりこっぴどく揺さぶられていたもんな。それが刺激になっての実りの増量という感じがしていけない。

 1つの枝に2粒ついていたら、いつもなら片方は実って他方は成育が悪かったのだけど、こたびは両方がニッコリ笑って口開けるという次第。

 強張った肩の筋肉がマッサージで揉みほぐされて血行がケッコ~になるように、揺さぶられつつ雨にうたれたのが結果としての実り豊かにつながった……、そうであるなら、ことイチジクに関していえば、台風によるでっかい恵みと思わなきゃいけない。

 

f:id:yoshibey0219:20190824175107j:plain

                台風の風に揺さぶられるイチジク

f:id:yoshibey0219:20190824175312j:plain                     台風去って2日め ↑
f:id:yoshibey0219:20190824175223j:plain

                   4日めの朝の実り ↑

 

 しかし一方で、独特な甘い匂いにアリが寄ってくるんだ。

 かなり高い部分に実ったところまで這い上がる。

 地面から幹を登り、枝を登りと、アリの身の丈をヒトのそれに換算すると、およそ5~6Kmを移動し、標高およそ1000mくらいな高さにまで上がってるワケで、ニンゲン感覚でいえば、

「そんなんアリ?」

 な、大冒険めいた壮挙に近い。

 むろん、褒めているワケでなく、アリを養うためにイチジクを植えてるワケでないから、迷惑だ、アリがたくない。

 地上に幾らでも食料となるモノが落っこちてるでしょうに……、好んで長距離移動かつ高所にまでやって来る、その熱意に敬意をおぼえはしても、邪険に払い除けてしまうのだった。

    f:id:yoshibey0219:20190824175405j:plain


 なにより迷惑至極は実の中に入って甘味を堪能してるアリどもだ。イチジクの実を割ってはじめて、

「アリっ!」

 こちらが仰天するほどの数、2030匹くらいがワンサカたかって黒山のヒトだァ~リだと、もうイケネ~。その実は破棄するっきゃ~なくなるんで、烈火ヒンシュクもの。

 かといって腹立ちまぎれに実を熱湯にチャポンで、「アリマ~温泉」なんて~ことをヤッちゃうと、蟻地獄を見るだけのジェノサイド、報復連鎖の昨今のアレコレと変わらないワケで、アリとキリギリスが共存しにくいのとご同様、むずかしいですなァ、アリとヒトの関係も。

 

f:id:yoshibey0219:20190824175550j:plain

 

 小学校の低学年頃だかに『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』というのを読んで、なにやらアリに好感したり、シャツの裾がちょこっといつも出ちゃってる主人公に自分を重ねてみたりして、気づくと今もってそのチョンドリーノという単語だけはアタマの中に焼き付いているというケッタイなことになっていたんだけど、久々に本を探し出し、拾い読んでみるに、それは主人公の名ではなく、破けたズボンからシャツがシッポみたいにのぞいている状態をさす単語なのだった。

 

         f:id:yoshibey0219:20190824175455j:plain

             『世界童話文学全集10-南欧童話集』(講談社

 

 主人公ジジーノはそんな破けたズボンがチョンドリーノ状態をもたらすコトを気にし、たえず羞恥をおぼえ、学校生活が疎ましい。嫌でたまんない。

「アリは年がら年じゅう、ぎょうれつばかりして、朝からばんまで、さんぽのほかはなにもしないんだもの」

 アリになる願望を口にし、ちょっとした魔法がかかってアリの卵になっちまう。

 そこからアリ生活を余儀なくされ、大きなミミズの死骸を仲間と引いたり押したりし、アリ生活がどういうものかを学習しはじめる。

 

f:id:yoshibey0219:20190824175715j:plain
 『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』(北イタリアの作家バンバ(1860-1920)の作品。バンパと書かれてたりも。この挿し絵は講談社の童話全集10より。

 

 やがて赤アリとの戦争に巻き込まれ、総司令官となって戦い、ついには皇帝チョンドリーノ1世になるところまでいって横柄傲慢にもなったけど、さらなる戦いに破れて戦争裁判にかけられ、足をひっこ抜かれつつの処刑の場にあらわれたスズメバチにさらに命を狙われるテンヤワンヤ。

 けどもハチの体色の美しさに惚れたりして、なんだか友達になり、さらにアレコレあって、大事な友や育ててくれたおばさん(アリの)の死を経験しつつ、アリとして生きてる自身に誇らしさをおぼえつつも人間であった頃の記憶を頼りに”実家”に近寄ってみようと思ったり……、というようなけっこう長いお話なのだった。

 

f:id:yoshibey0219:20190824175850j:plain

                  講談社版のカラー口絵

 一読、アリはアリでアリの生活がありという大事なポイントを再認識されられる仕掛けになっている。

 ジジーノが人間に戻るワケではない話のとじ方に感慨させられもする。

 老いて読むべきは、このような童話かな? ともチラリ思ったりもする。

 ただ『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』の場合は、その作家名を含め忘れられつつあって、残念なことに今は版が重ねられていないようだ。

 殺された仲間への言及で、

「いまごろ、みんなは、おなかの中で、とけちゃっているでしょう」

 とか、赤アリの部隊に捕らわれたジジーノ君が真ん中の足2本を引っこ抜かれたりとかの描写に、

「子供には刺激が強すぎ」

 の配慮あってのコトなのか、状況を知らないけれど、もしそうであるなら、バカげてらぁ。

 良書を、”大人の勝手な思い込みと配慮”で駆逐しちゃ~いかん。

 上記の通り、ジジー(チョンドリーノ1世)は人間であった頃の家に戻ってみようとするところで物語が閉じられ、『ピノキオ』みたいなハッピーエンドをまのあたりに出来ない構造になっている。

 そこがこの童話の肝心な奥行きあるところだと思え、余計に、今、日本では出版されないコトの背景を考えると哀しいもどかしさをおぼえる。

 チョンドリーノという単語がボクのあたまに刻まれている理由も、良い物語を子供の時に読んだ……、その輝きが衰えぬままにあたまの中にあって、いわば夜道の向こうに1つ灯っている、放射性の夜光塗料を塗布したような道しるべとなっているワケだ。

 

       f:id:yoshibey0219:20190824180005j:plain

  集英社が出していたバージョン。古書店で1000円くらいで入手出来るかな? ボクは持っていない。絵がいささかメルヘンチックか……?

 

 しかし、台風 → イチジク → アリ → 昔読んだ童話 → 読み返してアッ。こういう連鎖って面白いね~。概ねは結合しないであろう諸々が線で結ばれ化学反応を起こして1枚の透明な板になっちゃったみたいなところが、お・も・し・ろ・あ・り。

 

f:id:yoshibey0219:20190824180206j:plain

      アリになったジジーノは相変わらずシッポのところがチョンドリーノ。講談社版より。

ファラオの食卓

 愛すべき親類から、らっきょう漬けが届く。

 畑で栽培し、収穫し、自ら漬け込んで3年が経過したもの。チョイと大量。

 過日に会ったさい、

「らっきょう、ない?」

 期待もせずに問うてみるに、

「あるあるある」

 の三拍子。毎年作るゆえ消費が追いつかないとの事で、それでチョイ大量。

 

f:id:yoshibey0219:20190819172232j:plain


 フタをあけるや、いかにもな、らっきょうの匂い。唐芥子を浮かせた甘酢に浸けて3年。いささか濃厚な匂いに一瞬たじろぐ。

 市販のらっきょう漬けはここまでは匂わない。

 味も濃い。唐芥子が味を後押しする。ピリ辛という次第でなく、らっきょうの特性としての風味を後ろから突っ張ってプッシュしてる感じ。

 市販品なら12粒食べてもまだ食べられる……、というアンバイだけど、この手作り3年は、6粒食べればもうたっぷりな濃ゆい感触。

 しかし、らっきょう魔力というか、魅惑というか、数日食べるうち、その昔にゴダイゴが歌った「モンキー・マジック」を替え歌にしちゃったような、

「ラッキョ・マ~ジック ♪」

 どんどん舌がこの濃密に慣れてくるのは不思議。

 1415歳の少年だった頃の自分が、今のこのらっきょうに淫してるような姿を見たなら、

「うっそ~~!」

 さぞやたまげて自己嫌悪しちゃうのじゃなかろうか……

 変化変貌とは、ま~、そんなもんだ。

 

f:id:yoshibey0219:20190819172358j:plain

                         猫はらっきょう食べるとは思わないけど……

 

 吉村作治の『ファラオの食卓 -古代エジプトの食物語小学館では、ニラ、タマネギ、ニンニクが登場する。

 およそ5000年前の古王国時代(盛んにピラミッドが造られていた頃)からエジプトでは馴染みの野菜たち。栽培されたタマネギとニンニクは、労働者に配給されてもいたようだ。神殿の新造工事で石はこびや日干し煉瓦を積み上げたりした後、何個かづつ支給されたりしたんだろう。

 既に貴金属による貨幣は存在するが、一方で物々交換の「流通」も大きく、数ヶ月の保存が可能なタマネギは、むろん食材として最終的には誰かが食べているわけだけど、その「流通」の1つの柱となる存在、”食べられる通貨”でもあった。

 

        f:id:yoshibey0219:20190819172520j:plain

 タマネギは中央アジアが原産だから、はるか古代、何らかの方法でエジプトにもたらされて定着したと思われる。

 パンにビール、刻んだタマネギやトマトやキュウリに酢やらライムを搾ってかけるサラダというのが定番だ。

 つぶした鶏肉にモロヘイヤとニンニクのみじん切りが入ったチキンスープなんぞは、ちょっとしたご馳走だ。

 

 ちなみに、まったく意外なことにタマネギが日本に入ってきたのは江戸時代で、それも鑑賞用用途でしかなかった。食用となったのはな~んと明治4年(1878)に札幌で栽培され出してからというから、古代エジプトに遅れるコトはなはだしい。メチャンコに歴史が浅いんだね~。だから坂本龍馬はシャモは喰ってもタマネギは知らないまま他界したコトになるね。残念ですなぁ。

 だから、日本では圧倒的に、らっきょうの方が歴史が古い。

 

f:id:yoshibey0219:20190819172647j:plain
石碑。ネフェルティアベト王女の食事(テーブルの上に並んでいるのは菓子パン) ギザ墓地出土。

ヒョウ柄のスパッツ風衣装が大阪のオバサンっぽくパンチがきいてるけど、紀元前2500年頃の王女。

 

 その古代エジプトでは、重要な食料であると同時にタマネギは強力な魔力がある野菜という認識でもあった。

 ラムセス4世のミイラではタマネギは眼のくぼみに詰め込まれ、包帯の間や脇の下の辺りに置かれたりして、この野菜が死者に活力をあたえるものであると信じられていた。

 人々の日常生活においても、たとえば何かの誓いをたてるさいには、タマネギとニラを捧げ、ラムセス3世はナイルの神に対して1万2712篭ものタマネギを捧げたと碑文に残る。

 けれど一方で、神官の一部ではタマネギやニラなどの匂いの強い植物を忌避する傾向が高かった。詳細は省くけどセト神にまつわる伝えともいう。(セトは悪神であり、性欲を司る神でもあるそうな)

 吉村作治は「タマネギには2面性があった」と書いている。統治者のファラオが推奨しようとも神官の一部は密かに断固にタマネギを拒絶していたのだろう。

 同様にニラも神官たちは嫌った。ニラもまた日常的に生産されていながら、宗教上の理由でもって避けるヒトは避けてたようだ。

 

 やがてファラオの時代が過ぎ、エジプトもイスラム化していく。

 ムハンマドの教えでは、祈りの前にニンニクやタマネギを食べるのは禁じられている。

 それがかつての神官たちの頑なさと合致し、匂いの強いこれら食料が遠のけられていく。

f:id:yoshibey0219:20190819172844j:plain


 15世紀のワラキア公国(現在のルーマニアに実在したヴラド3世は、オスマン帝国と対立し、攻め寄せたオスマン(トルコ兵)を串刺しにして晒しちゃったりしたから、串刺し公の異名をつけられ、やがてブラム・ストーカーの『ドラキュラ』のモデルになるけど、ドラキュラがニンニクを嫌うのは、イスラム教のオスマンがニンニクを嫌っていたからに過ぎない。

 ヴラド3世はオスマンと対峙している頃はイスラム教徒、後年にキリスト教徒になる。その辺りの消息が投影されたということだろう。

 

 仏教も匂いの強いタマネギ・ニラ・ラッキョウ・ニンニク・ネギ、この5品を嫌って禁葷食(きんくんしょく)といってたけど、なんだか同じだね~。

 だいたい同じニュアンスな感じ。匂いが強かったり風味が強いものは、すなわち「淫するもの」に結びつけられていたんだね、かつては……

 植物たちにとっては、不幸としかいいようがない。

          f:id:yoshibey0219:20190819172957j:plain


 古代エジプトでのセト神は好物がレタス(エジプトが原産)だったそうで、茎から出る白い液体が精液の素になるといわれ、信じられ、真面目な神官以外の一般ピープル男性は媚薬や勢力増強剤として大いに食べていたというから、これまた何やら、おかしくもある。苦笑せざるをえないけども、ま~、信じちゃえば、そういうコトになるんだねぇ。1トン食べたって、茶柱さえ立たないんですけどねぇレタスじゃぁ。

 これも意外だけど、今はニンニクといえばある種の強壮効果有りということになってるワケですが~ぁ、古代のエジプトじゃそんな効果は誰も期待しない、思ったコトもない。

 ニンニクはノドに効いて声が良くなるとして蜂蜜なんかと一緒に食べていたんだってさ。

    f:id:yoshibey0219:20190819173054j:plain

 したがってかつての古王国時代の宮廷音楽家(女性が多かったそうです)にボーカル担当がいるなら、きっとニンニク臭かっただろう。けども、それは嫌な匂いとはとらえられず、音楽家の匂いとして好感的に嗅がれたかもしれない。糸をひく納豆のあの風味が一部のヒトにはウッエ~~な臭気だけども、一部のヒトには蕩けるほどに美味い匂いと感じられるみたいに。

 らっきょうも、そんな位置づけかしら?

 

            f:id:yoshibey0219:20190819173200j:plain


 ちなみに、みなもと太郎描くところの、ややらっきょう顔の小早川秀秋の絵が大好きだったりします。右上のハナたれね。ナス顔というヒトもあるようだけどキャラクターとしての秀秋はらっきょうがふさわしいよう思えます。小粒で、いくら皮をむいても実はないぞよ、というところも。

 しかし、そういう存在に成り下がったとはいえ北政所(ネネ)には生涯忘れられないかわいい甥だったのでしょうよ。そうでなくば、高台寺・圓徳院の床の間に秀吉の画像と共に幼少時の秀秋像をかけて、晩年、いつも眺めていたりはしなかったでしょうし。

 

          f:id:yoshibey0219:20190819173418j:plain

              絹本着色小早川秀秋像 高台寺所蔵 重要文化財

 

 彼女が秀秋の幼年時代の面影を投影させた絵を描かせたために、後年、秀秋の画像としてはこれしかないから、ボンヤリ顔イメージが定着してしまったとも思えるし、この辺りの痛し痒しの沁みっぷりにも興を抱く。ま~、らっきょうに直接に関係ないけど。

 数多にとっては関ヶ原の裏切り者であり、30を前にしてのアルコール依存による狂死のような哀れな青年であっても、ネネのみは違う感想を持っていたであろうことに、ちょっとボクはらっきょうを重ねたいのだ。

 

 

お盆の蚊

 12日。朝の3時過ぎ、外に出て夜空を眺める。

 ペルセウルス座流星雨。

 ふとよそ見をした瞬間に、天井近くに取り付けて忘れていた画鋲が1つ抜け落ちたみたいな、

「んっ?」

 動いたような気配が何度かあったけど、クッキリ見えたのは僅かに3つ。

 うち1つはそこそこの尾をひいて、北寄りの空から南西に流れた。

 流星は大気に触れて熱っせられて見えるワケだから、距離としてはおよそ100~150Kmほど上空の出来事、瞬時の移動は、飛行機が移動していく様子を眺めるのとはケタが違う。

 その高速っぷりにただ感嘆するしかなく、願い事をたくすような時間はないけど、ま~、そこがおもしろくもある。

 外にいたのは15分ほどだったが、4ヶ所、蚊にくわれる。

 

f:id:yoshibey0219:20190814201452j:plain


 お盆界隈の小庭。

 朝にしか咲かない花。写真のこれは10時半頃にはもう店じまいでしぼみかける。

 こういうのは植物園向きではない。来園者が来る頃には閉じちゃうから白昼はつまらない。けどま~、うちの小庭は誰かに見せようとしてるワケでないから構や~しない。夕刻になったら、また水をやり、朝にひっそり咲くたすけとしよう。

 

f:id:yoshibey0219:20190814201347j:plain


 だいたいにおいて庭作業というのは朝か夕にヤルもんだ。

 これが蚊の活動時間に重なるからヤッカイだ。特に夕刻が。

 虫よけを手足にスプレーしても、蚊めらは実に巧妙狡猾、半袖シャツと腕の端境あたりで仕事する。しかもまったく手際がいい。

 複数個所をたいがいやられ、

「痒ィィィ」

 いらつかせてくれる。

 ボリボリ掻くと汗に沁み、それでいっそう、

「ぁぁ、もう~ッ」 

 苛立たせてくれる。

         f:id:yoshibey0219:20190814232256j:plain
 だいぶんと前、開高健は暑熱のアマゾン川の粘っこい空気感に満ちた『オーパ!』でもってそういった虫との格闘を克明に描き込み、笑わされるやら同情するやらだったけど、鮮烈でもあった。

 一斉蜂起のように寄ってたかり執拗にからんで、強烈な痒みを置き土産にするけれど、一定時間が来るとサッと引き揚げる、その店じまいの潔さに開高ともどもに感嘆させられたもんだった。

 似通う事を椎名誠も『十五少年漂流記への旅』で書いていた。

         f:id:yoshibey0219:20190814232353j:plain

 椎名は蚊の”名所”として、ブラジルとシベリアとアラスカをあげて、しかしそれ以上に強烈なのがいるカナダのベーカレイクから40キロほど離れた川沿いのツンドラ地帯を持ち出していた。

 そのあたりではスーパーマーケットで「蚊よけ服」というスペーススーツみたいな大げさなのを普通に売っていて、当初はジョークかと思ったけど、キャンプをはった場所にて、椎名いわく「5万匹」のそれが「陰険に黙ったまま煙のように濃厚にヒトに群がって」、「蚊よけ服」のたとえば顔面部分のファスナーをちょっと下ろした瞬間にはもう数十の蚊が服の中に浸透し、刺しに刺しまくって顔面が腫れ上がった様相を書いていて、いささか空恐ろしくさせられた。

 

 うちの小さな庭で味わうのは、開高や椎名が体験した1/1000程度の痛苦じゃあろうけど、たとえ一刺しであろうと、蚊は蚊だ、痛苦は痛苦で掻痒はそ~よ~、痒いったらナイんだった。

 

f:id:yoshibey0219:20190814232437j:plain


 トム・ハンクスのほぼ独り芝居だった『キャスト・アウェイ』は無人島での生活っぷりを堪能させてくれ、木材をこすり合わせるだけでは火はおこせないコトをリアルに見せてくれたけど、ただの1匹の虫も出さず描かれずで羽根音もなく、チョット拍子抜けさせられた。

 メーキング映像でロバート・ゼメキス監督が語るに、意識的に虫の存在を消去し、それによって主人公の孤独を際立たせたというコトらしいけど、どうなんだろうな? むしろ虫に悩まされるのを描いた方がよかったよう思えてしかたない。

 たぶん製作時には、虫の存在の有無をどうするか、ケンケンガクガク意見がぶつかったに違いない。

 蚊はヤッカイだけど、あれこれ虫が生息しているのは、ファーブルを持ち出すまでもなく、自然の必然、生命サイクルの重要な役者なのだから、そこを消去したのは間違った選択だったよう思う。どう自然の中で生き延びるかをテーマにした以上、これは役者配分を間違えたといっていい。

 墜落して流れ着いたトム・ハンクス無人島にとってはエイリアン、空から落ちてきた侵略者であって、むしろ、その外来のニンゲンを駆除すべく自然がどう振る舞おうとするかを描き足せば、より面白くなったような気がしないではないが、記録映画じゃなく娯楽映画なんだから、煎じ詰めてもしゃ~ない。かえってまずくなる可能性が高いや。

 

f:id:yoshibey0219:20190814232513j:plain

 お盆。

 毎度のことながら坊さんが来て座り、ちょいと拝んで茶をすすり、次の檀家にゴ~。

 毎度のことながら坊さんはピンポ~ン♪とベルを鳴らすものの、玄関先でこちらを待ったりしない。迎えに出る前にもう草履を脱いであがりこみ、応接間から仏間へと移動中。

 流星めいた高速にいつも苦笑させられる。

 これはきっと、こちらが供出のお布施の小額っぷりによる、いわゆる、「Time is Money」の原理かもとも思われるけど、坊さんに聞くワケにもいかないし、聞くほどのものでもあるまい。慣れ親しんだ慣習といってしまえば、いい。

 

f:id:yoshibey0219:20190814232554j:plain


 墓参り前にホームセンターに寄って、小粒な玉砂利を購入。

 それを墓の周辺にまく。

 雨に流されたり、風化で小さな砕片になったりと、こういう小さい石の類いは気付くと数が減っている。10年くらいの単位で眺めれば20~30パーセントほどは減ってるような感触。

 小石が減るとそこに雑草が根をおろし、小さな枝葉を顔出しさせる。

 葉が出てくるさい、小石は微かながら移動もさせられる。

 だから微速度カメラみたいなので墓場を数ヶ月監視すれば、墓石周辺の土がモゾモゾ動くといった映像が撮れるんじゃなかろうか。

 

f:id:yoshibey0219:20190814232654j:plain

 

 お隣りのお墓は除草剤が巻かれて草のクの字もないが、こちらは除草剤まかない主義。

 小石をまいても草は下から出てくるんだけど、ま~、そこがいいのさ。除草剤は「草葉の陰」さえ根絶やしだからね、ありがたくないのさ。

 と、それにしてもやたらに蒸し暑かったお墓。台風接近によるフェーン現象だろなぁ。午後より雨。

 

f:id:yoshibey0219:20190815101512j:plain

 

 今日15日は敗戦記念日。ただいま台風は四国の端っこを通過中か? 今はそこそこの風と雨、電線がうなってる。午後からしばらくは荒れるかな。

 終日、部屋に垂れ籠めるっきゃ~ない。

 うちから100mほどのところをに鉄路があるけど、山陽新幹線も在来線も運行休止。きっと庭の蚊も本日は営業休止だろうさ。飛行しづらい風だろうし、なによりヒトが庭に立ってくれないし。

 

f:id:yoshibey0219:20190815115949j:plain
 15日午前10時10分に撮影。東からの風にイチヂクの葉が難儀中。フウセンカズラはあんがい良く耐えてる。

 

 

 

 

 

酒飯論絵巻

 狩野元信が描いたと伝わる『酒飯論絵巻』をMacのモニター上に開くと、いつも決まって小さな解放感みたいな気分が心地よく泡立つのを感じ、シゲシゲ眺めては感嘆、その痛烈や諧謔を愉しみつつ、空想、妄想、アレコレな思いにかられるのだった。

 酒飯論は、ごく普通に、シュハンロンと読む。

 

       f:id:yoshibey0219:20190809063547j:plain

 

 文化庁が所蔵(2002年に入手)しデジタル公開しているのは2つあって、1つは狩野元信、もう1つは土佐光元が描いたという。だから室町時代後期のもの。

 応仁の乱やらで京都が丸焼けになった後、その復興期のさなかに描かれたということになる。以後、江戸時代になるまで複写本や異本が多々に出ていて、このオリジナルがかなりの人気作(ここで紹介する狩野元信のもの)であったことがしれる。

 愛媛の西予市にある愛媛県歴史文化博物館にも、江戸後期の写本があって、うどんツアーをかねて見に出向いてもイイなぁと思いつつも、実現しない。

 

『酒飯論絵巻』はのびのびした感触が何より良いし、中世の食の光景をリアルに写し出している絵というのもポイントがでっかい。

 11年も続いた戦乱の、その後のつかの間の平穏の中、平和な感触を強く望む気分が、食の光景として描かれたように思えないこともない。

 絵画研究の世界では、法華宗一向宗天台宗の宗教的対立が滑稽に暗示されるというようなコトらしのだけど、学術的諸々はさておき、16世紀の食物を窺い知れて興味ぶかい。眺めていて、絵の中の品を食ってみたい……、と思ってしまった希有な絵巻がこれ。

 

f:id:yoshibey0219:20190809063652j:plain

            この僧は明らかに菜の香りを愉しんでますな。

 

 絵巻は、酒好き(上戸)と飯好き(下戸)とその両方を好む(中戸)の3者が競い、結果として中戸が1番に良いと結論されてメデタシメデタシという内容。そこに至る個々の描写が細かくって、見飽きない。あれこれ示唆されて、おもしろい。

 上の絵でお膳にのってるのはいずれもご飯の類い。

 

f:id:yoshibey0219:20190809063818j:plain

  宴もたけなわ……。今も昔も何故に男は酔うとハダカ踊りするのだろう? バカだねホント(*^^*)。

  酒の肴はほぼ塩だけという所がこの絵のキモだね。

f:id:yoshibey0219:20190809063916j:plain
 奥方は困惑というか、これ明らかに迷惑顔。一方のこの家の主は酩酊ぎみで大いにお楽しみってトコかな。

f:id:yoshibey0219:20190809063952j:plain

             寝てるヤツもいる。手前に塩の小皿。ごま塩だな。

f:id:yoshibey0219:20190809064047j:plain
これはおそらく、この武家の客人として迎えられた僧。酔っちまって、「これっくらいの~・お弁当ばっこに~~♪」羽目を外して謡い踊ってしまったと思えて、おかしい。

f:id:yoshibey0219:20190809064132j:plain
こちらの僧は付き合いとして酒盛りの場にいるけど、呑めない、あるいは呑まない人に思える。手元に杯がなく、盛り上げられた焼き菓子みたいなモノに着目。でもって、仲間の僧(たぶん彼より身分が下の)の失態に、あちゃ~~、って感じかなと眺めていて思うのだけど、どうよ? 顔面に朱がさしているのは酔いではなく、羞恥の色合いとボクは思うのだけどね。

 

 総じてこの巻物を観察するに、まず感じ入ったのは、武家には2つの厨房があるというコトだった。

 鳥や魚を扱う血なまぐさくもある厨房と、精進料理の調理場の2つが明確に分離しているということに最初にハッとさせられた。

 

f:id:yoshibey0219:20190809064320j:plain

f:id:yoshibey0219:20190809064432j:plain

 

 今と違い、相応の身分ある家なら屋敷は広いだろうから厨房あるいは調理の場は2つ2種あったと思っても、いいか。(上の絵は土間ではなく明らかに中庭だ)

 寺の場合は魚や獣肉はないし、食事作りは日々の日課、役割分担をかねた務めであったろうが、武家や公家の厨房では、お給金が出ている。当然に、そこに従事する人は専門職。

 鳥獣も扱う調理職と、精進一筋の調理職の、この2つは明確に分離していることにハッとしてグッときた。魚をさばく人はそれに徹し、米を扱う人はそれに徹し、兼ねたりはしないということなのだろう。なので、けっこう大勢の人が厨房(庭先も含め)にいる。

f:id:yoshibey0219:20190809064525j:plain

縁側で鴨のハラワタを抜く人。「気持ちわり〜」な表情がいい。子に乳をふくませているのは下働きのこの男のワイフか? となれば共働きだ……。

f:id:yoshibey0219:20190809064723j:plain

  こちらカモをさばく人。どこかカメラ目線なのがこの人の自信のほどをしめしているよう。

f:id:yoshibey0219:20190809064859j:plain

             刻まれたカモを煮てるのか? さて?

 

 絵を眺めているだけでは、ドクダンとヘンケンが増してくるし、やや理解が薄い。

 ハタッと困ったのは、この部分。(下写真)

 米粒を拾っているのは判るにしても、何で? な疑問でわだかまる。

 

f:id:yoshibey0219:20190809065019j:plain

 

 こういう場合は、参考書というか解説してくれる本が要る。

 ありがたいことにチャンとある。3冊もある。

 うち1冊は、日仏共同でこの絵巻を研究した専門書だ。

 嘆かわしいコトに文明開化の鐘が鳴った幕末から明治初期にかけて、こんなのもう要らないと、日本の美術品のアレコレが海外に売り飛ばされた。

 『酒飯論』もその各種バージョンが流出。

 今は、NYパブリック・ライブラリー、チェスタービーティ・ライブラリー、大英博物館、フランス国立図書館、やはりパリにある東洋美術専門のギメ美術館などが所蔵する。

 で、近年になってフランスでは『酒飯論絵巻』の研究を進めてた。

 実に意外なことに日本では、およそ20数ヶ所の美術館やお寺が何らかのバージョンを所蔵しているというのに、これを美術史の研究対象とするセンセイが少なかった。(何でだろ?)

 なので外からの圧力(?)に巻かれ日仏共同研究というカタチで、本となったわけだ。

 これがあればボクのような部外の素人でも随分にお勉強が進むとは判るけど、ただ圧倒的に高額。大学の助成費で買うワケでない一般ピープルには1万6000円弱というのは……、いかにも高い。

 幸い、上記の本の抜粋的編集ながらツボを押さえてくれたやや廉価な良書があるので、よってこちらをば参考にさせていただいてる次第。

 

       f:id:yoshibey0219:20190809065403j:plain



 米粒を選び取るハナシに戻る。

 何とも手間ヒマかかる作業だけど、室町末期のゴハンというのは、蒸したオコワが主体で、今とは様相が少し異なる。

 ここで粒を選別しているのは大唐米という種類の米だそうな。赤みがかった色合いのものや白いのや何種かある。

f:id:yoshibey0219:20190809065044j:plain

 収穫量が多くて脱穀もしやすいが、傷みやすくて粘り気も少なく、味はかなり淡泊、ただし温かいうちは香気があって大変によい(和漢三才図会)とのこと。

 これは江戸時代になると赤米と云われて下等品扱いになる。栽培収穫しても赤いのや白いのが混ざって、時代の気風に見合わなくなってしまった。

 昭和時代には神社の神事で使うだけで、ほぼ壊滅状態だったけど平成の頃から各地で「古代ロマン」的流れでもって赤いのが復活栽培されているらしい。

 けれど室町期後半、戦乱に次ぐ戦乱で疲弊した京都界隈では、もっとも入手しやすいのが大唐米であって、家来を抱えた武家でもこれをよく食べていたというコトのようである。

 そこでこの絵では、一度蒸した後、ひろげ、うまく脱桴(ダップ)しなかった粒を捨てているというのを描いているらしいのだ。あるいは、白に混じった赤いのを取り除いているか……。

 何とも手間がかかるお米だけど、しかたない。特殊事例として絵になっているワケでなく、当時はこういう光景がどこでも見られた……、ということなんだ。

 

f:id:yoshibey0219:20190812080756j:plain

 2種類の米でニギリなりモチらしきを作っている人。右端に積み上げられているのはその混合かしら?


「おこわ」は「強飯」と書き、これは甑(コシキ)で蒸す。

 甑というのは手作りで簡単に造れる鍋で、現在の土鍋のような上薬をかけて1200度の高温で焼いたような強度あるものではない土器だけれど、鉄釜の入手が難しい時代ゆえ1番に重宝されていたようだ。

 今は、「ごはん」の調理といえばただの1種類、米と水を鍋に入れて熱するというだけのモノだけど、室町時代の「ごはん」は、これが何種もある。お米の種類もかなりある。

 主だった”ごはん類”をあげると下記のようなアンバイ。

 

「強飯」

「炊飯(かしきかて)」

「黒米飯」

「油飯(あぶらいひ)」

「糒(ほしいい)」

「餉(かれいい」

「糄(やきごめ-ひめひ?)」

「𤇆妝(おごしごめ)」

「頓食(とんじき)」

「姫飯(ひめいひ)」

「水飯」

「湯漬」

「饘(かたかゆ)」

「汁粥」

「漿(こずみ)」

「味噌水(みそうず)」

「望粥(もちがゆ)」

「薯蕷粥(いもがゆ)」

 

 現在の我々の「ごはん」は室町時代の「姫飯」に近い調理法だけど、「姫飯」は沸騰させてしばらく炊いた後で粘り気のある白湯を取り除いて、再び蒸し上げる「湯取り」を必要とした。

 で、この湯取りのさいの白湯は、これは「漿(こみず)」と呼んで、これはこれで食卓の汁物の1つであったらしいから……、ややこしい。では、同じ漢字ながら読みの違う「漿(こずみ)」とはどんな調理なのか? どのようなお米だったか? まだまだ不明な部分がある。米の種類が豊富で、このあたり、今とはかなり違う。

 だから、膳に高く盛られた「ごはん」と共に、別な「ごはん」もお椀に盛られている。

f:id:yoshibey0219:20190809065832j:plain

      武家に招かれ食事をいただく2人の僧とこの武家の跡取り息子。お酒なしの食事。

 

 ごはんばっかり……、という印象が際立ってくるけど、それぞれ別の米や麦、別な調理法ということで味覚には幅がある。ごはんの周辺に刻んだ菜を添えたり、豆をのせたりもする。僧が香りを嗅いでいるのは、だからごはんに菜をまぶすか、乗せているんだね。

 いわゆるごはんとおかず、主と副の関係も曖昧なんだ。さらに餅が加わる。餅も各種の米が使われ、これまた調理は多岐にわたる。

 

f:id:yoshibey0219:20190809065909j:plain


 一方で、茶が必需なものとして出て来ているのも注目だ。

 割った竹で構成された縁側にて、臼で茶葉を粉末にしている人の姿がある。「挽茶」を作っているわけだ。挽いた茶粉を掃き寄せるためか、あるいはゴミを取り除くためか、その両方でか、鳥の羽根が手前に置かれていて、このあたりの写実具合もまた素晴らしい。挽き具合を均等にすべく、この人物(僧か?)が作業に傾注している息吹すら感じられる。

 この巻物を描いた狩野元信は永禄2年(1559)に没しているが、記録に残る千利休の最初の茶会は天文13年(1544)だから、ちょいと時代が重なってもいる。

 

f:id:yoshibey0219:20190809070012j:plain

            こちらお上品な食事光景。お酒はほとほどという感じ。

f:id:yoshibey0219:20190809070055j:plain

                お酌の係りも何だか手持ちぶさた。

f:id:yoshibey0219:20190809074420j:plain

          かなり今に近いお膳。お汁の中に菜っ葉があるのが判るね。

     f:id:yoshibey0219:20190809074612j:plain

ご飯のおかわり係の家来。食事中の3人に向けてたえず目線を動かし、立てひざで即動けるよう待機中。

ウィンブルトンのコート横で待機のボールボーイの原形みたいなもんだな……。

 ともあれ室町期を経て、やがて戦国の時代へと変遷するに連れ、お膳のカタチも整えられていったような感じかな。この『酒飯論』が結論した中戸のかたち、ほどほどの飯と肴に酒の混声合唱へと向かったという次第か……

 ただ、戦国時代突入頃に”ちょっと昔の室町時代”を描いているワケだから、酒呑みではない下戸の食風景を誇張し強調し、あえてアレコレのお椀にごはんを描き込んでいるのでは? という説もあって、いまだ、明快に立証されているわけでもないようで、謎は謎として浮遊し続けている。

 ま~、それが余計にこの巻物の醍醐味のような感もチラホラで、おもしろさ継続中。謎というのは魅力を増加させる効能あり……。

 

らっきょうに未来はあるか

 仏教の精進料理では、らっきょうは禁じられた菜の1つ。「禁葷食(きんくんしょく)」と云われる。

 らっきょう、ねぎ、ニンニク、たまねぎ、ニラ。この5種を「五葷ごくん)」と称し、その匂いゆえ、すなわち生臭いものとして、僧も徒も食べちゃいけないコトになっていた。

 らっきょうの原産国は中国(ヒマラヤに近い地域らしい)だから、日本には仏教と一緒(同時期という意味じゃない)に入ってきた事になる。

 なので、聖徳太子は食べなかったろうし、仏教観が浸透した平安~鎌倉期の公家も、きっと食べちゃ~いないだろう。平家を追い落とし大仏殿再興の式典に出席した源頼朝らもおそらく口にはしていないだろう。

 とはいえ、渡来して根付いたワケなんだから、仏教に影響されない方々は入手の機会があればきっと口にしたろう。とはいえ煮たり焼いたりだけでは旨味に乏しい。

 誰が初めて酢漬けにしたかは判らない。甘酢で漬けたのがメチャに旨いと発見した人は途方もなく、エライ。

 酢は、『古事記』や『日本書記』にも出て来てほぼ実在したと思われている応神天皇の時代に、これまた中国から渡来し、直後から酢の物といったジャンルが現れ、膾(なます)を代表に各種バリエーションが生まれたと考えられる。

 

f:id:yoshibey0219:20190725045325j:plain


 今も精進料理はあるけど、あくまでスペシャルなフードに位置して日常的でなく、かつての一途な”宗教的縛り”がないのは、有り難い。

 らっきょう食の背景を考えてみるに……、江戸時代になって急激にお寺さんが堕落し、寺が持っている権力(通行手形の発行とか檀家制度による横柄とか地元ヤクザと結託しての賭場開設とか)に乗っかって、いわゆる戒律破りのナマグサ坊主がはびこって、女遊びはするわ獣肉は喰らうわ精力剤としてニンニクやらっきょうを食べちゃった、その怠惰が仏教の禁じ手をゆるめてしまったのが遠縁にあるようにも、思える。

(江戸時代末期の水戸藩ではじまったお寺さん取り壊しの「排仏毀釈」は上記のような悪しき事情への鉄拳みたいなもんだ)

 ま~、もはやどうでもいいことだけど、日本人が甘酢や塩漬けでらっきょうを盛大に食べるようになったのは、だから明治になってからの事のような感触があるし、工業としての生産は昭和時代だろうけど、根拠ある追跡はかなり難しい。

 らっきょうの最大の産地は日本海に面した鳥取だ。渡来を示す良い象徴として、鳥取はこれでチョット得をしている。

 でも実際は、江戸時代に幕府が運営していた小石川薬園から参勤交代だかで持ち帰ったのが、砂丘のような痩せた土地でも良く育っちゃって、気づくと日本1番の生産量というのが真相のようだ。(2位は福井県

 

f:id:yoshibey0219:20190804095224j:plain
 鳥取市が制定している花は「らっきょうの花」。おや? 梨じゃないの? と思ったら、梨の花は鳥取県が制定の県花だったワ。写真はウィキペディアより。

 

 らっきょうに好感して早やヒトツキ。夕食毎にポリポリパリパリ齧ってる。

 やめられない・とまらない、では困るので抑制し、

「今日は12粒まで」

 とか、自分に言い聞かせてポリパリやっている。

 近所のスーパーを眺めるに、5~6種あり。もっともメーカーは2つばかりでそこがアレコレを出し、それをスーパーが仕入れているという次第だから製造者バリエーションはやや乏しい。

 だけども、ま~、それなりに繁華に売れているんだろう……、とは思ってた。

 けども実態はどうかといえば、消費量は年々に減っているらしいのだ。

 らしいのではなく、確実にジワジワ減少しているのだ。

 

f:id:yoshibey0219:20190804095320j:plain
           野菜情報サイト「野菜ナビ」の画面コピー

 

 グラフ図の通り、ゆるやかなれども確実に下ってるワケだ。

 これを具体に数値で示すと、こうなる。

 2000年 作付面積1002ヘクタール 収穫量15070トン 出荷量11711トン

 2016年 作付面積  756ヘクタール 収穫量10607トン 出荷量  8836トン

農林水産省統計)

 このわずか16年で2/3に減ってるんだから、大変だ……。

 このまま減少するとさらに16年後には1/3にまで低下しちゃって、食材としてのらっきょうは絶滅危惧されるアンバイとなる。

 それほどに、らっきょう需要は減っているワケで、製造者バリエーションが乏しいのもここに起因する。

 需要が減れば生産者も減る。早いはなし、らっきょうは好まれない食品になりつつあるんだね。

 グラフを見るに、2004年がピークだ。

 何でかしら?と思ったら、その頃は第何期めかのカレー・ブームだ。レトルトなカレーのアレコレが急速に台頭した時期に重なる。

 らっきょうはその添え物として、カレー人気に併せて売れたという次第のようだ。

 でも数年で下降する。カレーは相変わらずレトルトを中心に売れてるみたいだけども、らっきょうだけがダウンしちゃってる。

 カレーはといえば、「トマトとなすとズッキーニのカレー」みたいなヘルシーな嗜好が出てきて、バリエーションも広がって興隆一途で今にいたる。

 試しにと、ズッキーニの国内生産の推移を見ると、ごらんの通り。

 

f:id:yoshibey0219:20190804095636j:plain


 右肩上がりの売れっ子ぶりなのだった。

 むろんズッキーニめは具材で、添え物のらっきょうとは別だけども、しかしもはや、「トマトとなすとズッキーニのカレー」にはらっきょうは必要とされていないというコトだ。トマトが入って、これは甘酸っぱい食感でもあるから、調和しないんだね……。カレーの多様性っぷりに、らっきょうはついていけなかったワケだよ。

 

 ともあれ、らっきょうフアンになった身としては、この減少傾向を寂しく思わないではない。不安視しないわけではない。

 が、断固阻止するって~アンバイじゃぁない。

 いっそ、少数派になっていく身の上を面白がりもする。

 ただ、いささかシャクなのは、こういう伝統的(?)味わいの食品を、国内需要だけではなく、国として海外にアピールしてきたかどうか……、って~ところがメチャに脆弱なような気がしていけないのだ。

 

        f:id:yoshibey0219:20190804194402j:plain


 たとえば政府は「クール・ジャパン」を標榜し、むろんこれはかつてのブレア政権時代の英国で官民一体で大成功した政策「クール・ブリタニアン」の模倣だけど、海外需要を開拓していこうという趣旨でもって官民ファンド「クールジャパン機構」なる株式組織(2013年発足)を造ってる。

 政府が8割を出資でアレコレにお金を注ぎ、その中には吉本興業のエンターティメント事業に22億円というのも入る。

 けど、結果として2019年3月期決算では売上げ僅かに8億円

 対して損益が81億円

 発足以来6年弱で累積のトータル赤字が179億円

 普通の企業ならもうとっくに止めてるか倒産しているかの、ゼッタイにありえない惨憺たる状況だ。

 いうまでもなく、政府出資ということは我々の税金でヤッてますというコトなんだけど、で、その赤字を埋めるために今なにをしてるかといえば、米国企業(料理の動画配信なんぞをやってる会社だそうです)に出資して利益を出そうっていうのだから、本末転倒、ワケわかんね~国策事業になりさがってる。

 NTTと吉本が組んでの教育事業だかにこの先100億もの巨費を出すというお笑いめいたハナシも伝わってるけど……、ホントにクールでナイスなジャパンを世界に売り出す気なら、せめて、

 冷やしたらっきょう海外に売ってクールぜぇ!

 国内需要も再起動させるぜぇ! 

 この旨さ世界に大発信だぜぇ! 

 くらいな強い意思と意気込みと国産モノに対しての愛(この場合、らっきょうですが)をもって、挑んで欲しいのですがね~。

 添え物じゃなくて単体でメチャに美味しく、まだまだレシピの幅も広げられるという可能性も、きっと”売り”になると思うよっ、らっきょうは。

 不可解な教育事業だかに100億投じるより、10億でもいいから出資して、「日本の味・らっきょう漬け」に賭けたってイイんでないの? 予想としてドイツあたりの酢漬け文化圏では気にいってもらえると思うが……。でもって、ドイツ人が喰うなら我ら本家とて喰わにゃ〜、みたいなコトになればおもしろい。

 ま~、それで売れなきゃ~しかたない。らっきょうはマイノリティな滋味と覚悟し、

「この旨さをわからんって、つまらんの~、ハッハッハぁ」

 被虐的気分も混ぜあわせ、心地よく笑ってられるって~もんだ。

 

f:id:yoshibey0219:20190804100306j:plain

 砂丘らっきょう甘酢漬けの高級品 アグリマーケット(JA全農とっとり)のHPより。 

 けっこう高額(200g入り4袋。送料込みで4000円弱)。けど、少量でも良いモノをの意気込みや良し。食べてみたいなぁ、スーパーじゃ売ってないこの高いのを。

 

茅輪祭(わくぐり)

f:id:yoshibey0219:20190730052035j:plain

 

 ちょっと慌ただしい7月末。

 雨天の連続で沈黙を強いられていたセミ達が、ここ数日の早朝からの陽光にいっせいに勢いづき、大声で鳴く。

 かなりの喧騒。求愛の日程が圧縮されて大いに焦っての慌ただしさという風情。

 

f:id:yoshibey0219:20190730052114j:plain

 夕刻の甚九郎稲荷で複数の方々に挨拶。

 明治にはじめられ令和で初、恒例の夏祭り。

 本殿の背後頭上にRSK山陽放送さん新社屋の工事クレーン。当然、この光景は来年には見られない。ビルが建ってしまうと、拝殿の頭上に青い空という構図は失せてしまう。ま~、しかたない。

f:id:yoshibey0219:20190730052154j:plain

 ユルユルと陽が暮れ、拝殿にての巫女舞を見学。

 終演後に毎度の福引き。ボクの1つ前でクジを引いた女の子はティファールのケトル、その前に引いた奥さんが扇風機だったから、大いにでっかく期待したけど、がっかり、台所のスポンジセット。

f:id:yoshibey0219:20190730052216j:plain


 翌日。国際交流センターにて、某会議。

 末席にて経緯を眺める。11月予定の講演の概要もほぼ確定。

 会合後、奉還町のなじみな店へ移動し懇談。

 酢漬けて骨まで柔らかなママカリが美味い。いつも通りにチャカポコ盛り上がって痛飲。

 

f:id:yoshibey0219:20190730052247j:plain

 

 翌日。

 岡山神社

 茅輪祭。with 同神社境内でこの日だけのビアガーデン。

 チノワの神事は、岡山神社に限らず、あちゃこちゃの神社で見られるけど、参加して輪をくぐってる自分というカタチが……、ちょっと可笑しくもあっておもしろい。

f:id:yoshibey0219:20190730052337j:plain

f:id:yoshibey0219:20190730052400j:plain


 終わった後に記念にと、こっそり茅(カヤ)を引っこ抜いてお持ち帰りするカップルを見かけたが、元旦からこの祭までの間にたまった半年分の災厄を茅に遷しての厄落としなワケだから……、わざわざ災いをもって帰るコトになっちまうんだけどなぁ。い・い・の・か・な~。たがみよしひさの『妖怪戦記』みたいなメ~に遭わなきゃよろしいが 😅

 と、それにしても大勢の参列。左廻り右廻りと3回くぐり終えるまで30分越えちゃった。

 その待機時間の蒸し暑さがビールののど越しを渇望させてくれる。

 前夜に痛飲したばかりというに、ビアガーデンにて、

「マッ、いいか~、もう1杯っ」

 多少は腰痛を気遣いつつ、土手下ビールを流し込む。

f:id:yoshibey0219:20190730052504j:plain

 幾つかの店が出店していて、けっこう賑やか。同行者がオーダーした小籠包は、チョイ解凍不足でテッペン部分が冷たかったけど、これもまた味わい、タハハと笑う。

f:id:yoshibey0219:20190730052528j:plain


 週が変わって、ひさびさ、K歯科受診。

 抜歯しなきゃいけなくなって、しばし通院となる予定。ぁ~、やだなぁ。

 もう30年このかた、事あるたびに面倒を診てくれているK医師にはでっかい信頼を置いて久しいけど、通院は苦手。わずか1時間の受診でもうすべてオッケ~で通いなし、というような未来が来てくれたら有り難いのだけど……。

 腰痛で整形外科、次いで歯科通い。ぅぅ〜〜ん。

 想像をめぐらせ理想的未来を展望すると、その未来ではもう医者というのがいなくって、明治の時代の人力車の車夫が淘汰されてったように職業としても成立せず、人体は自己免疫のパワーでもって病気に罹らなくって、腰痛もなければ歯も痛まないというようなアンバイにゃ~、ならんわなぁ。

 人間というカタチがある以上は医者という存在もまた、未来永劫に「つきまとう」って~ワケかしらん。

         f:id:yoshibey0219:20190730052613j:plain

 相当に医療技術が進歩しているらしき『スタートレック』とてUSSエンタープライズ号にはドクター・マッコイが乗船していたし、『スターウォーズ』とて反乱軍の艦船に医療ロボットがいて、切断されたルークの腕を巧妙に修復したもんな~~。

 ぁ、しかし、『海底二万里』のノゥチラス号にはドクター、常駐していなかったね。確かこの船には医務室に相当する部屋もなかったような。

 ふむふむ。

 って、別に意味はないけど、ともあれ本日、抜歯され、これに変わる義歯がこれから作られるという次第で、ギシギシ歯がみしてる本日ただいま7月の末。

f:id:yoshibey0219:20190731014304j:plain

    下品っぽいオモチャのカスタネット。カチカチカチ♬♬

らっきょう好感

           f:id:yoshibey0219:20190725053408j:plain

『BladeRunner』の印象を決定づけたロイ・バッティ。彼を演じたルトガー・ハウアーが亡くなった。(75歳・オランダにて逝去)映画の中の死を迎える直前の最後のセリフは、

「思い出はすべて消える」

 といった意味合いのものだったけど……、哀悼しつつも、同映画にまつわる思い出の数々が切なさをおびて、めぐる。

 故ニ〜ゼキ君と香港の某模型メーカーと東京で会合し、ロイ・バッティのフィギュア開発を進めたのも、もう遠い昔と思えば、切なさに愛おしさもからむ。

 香港経由での版権取得ができず、結局、android 001 という名で商品となったのが残念だったけど、ロイ・バッティの象徴としての鳩をパッケージに入れることは出来た。

 映画の中の鳩は、ロイの手を離れ、雨中に飛び立っていったね……。

 

f:id:yoshibey0219:20190725060940j:plain

     ____________________________   

 

 この夏の長雨。『BladeRunner』の酸性雨ではないにしろ、日々浸透され、夏という感じが薄い。

 けども庭の植物どもは大成長。アッという間に雑草が土を覆う。

 

f:id:yoshibey0219:20190725035330j:plain

 小庭では玉砂利の通路にまでポリゴナムが延び茂る。

f:id:yoshibey0219:20190725035423j:plain

 アスパラも大きくおごって、ちょっとオバケっぽい。

f:id:yoshibey0219:20190725035441j:plain

 

 さてと___。

 長雨が影響したワケはなかろうけど、食べ物の好みが変化し、従来はさほど食べなかったものを率先購入の今日この頃なのだった。

 フランス料理のアレとかイタリア料理のソレとかならカッコ良いけど……、カッコ良さとは無縁な「らっきょう」を買って悦にいってるんだから、どうかしてる……

 なので、上記1行を書いてマルを置いた途端、

「書くのヤメよ~かぁ」

 と、思わないでもなかった。けども、嗜好変化を否定するワケにもいかない。

 

 だいたい、「らっきょう」というのは子供の頃から好きでなかった。

 サルに「らっきょう」を与えると、皮をむきにむいて、に何も入っていないと判って顔を赤らめて怒り出す……、という実話だか創作だか判らん話があるようなシロモノで、自ら買ったことなど、ただの1度もなかった。

 カレーに添えられたのを黙って食べる程度な、まさにソエモノの一品以外の何物でもなかったワケだ。

 ところが突然、その添え物が白磁の宝石みたいに輝きだす思いにかられ、スーパーの漬物コーナーでもって、一袋を買い求めてしまったのが変容のスタートだ。

 どって~コトのない袋入のヤツ、ね。

          f:id:yoshibey0219:20190725050419j:plain

 その1粒を口にするや、

「うまいじゃないか!」

 第1声として、そう呟かざるをえなかった。

 歯ごたえのシャッキり感が良い。酸味と甘味の風味良し。淡く鼻に抜ける特有の匂いも良し。

 この3連良しヨシで勢いづき、気づくと、一袋ぜんぶ食べちゃったのだから始末が悪い……、というか、

「始末しちまったぜっ」

 なのだ。

 そっすると~、また欲しくなる。

f:id:yoshibey0219:20190725045325j:plain

 次にスーパーで求めたのは、鳥取産を鳥取で漬けた、いわば本場モン。(もちろんビニール袋に入ってるよ。自宅にて容器入れ替えね)

 20粒入ってない程度なボリュームのくせに、先に買った中国産らっきょうを日本で漬けた~ァ、とは大違い。

 酸味と甘味の、見合ってハッキヨイのバランスが格段に良くて美味しいのだった。

 先に食べた中国産日本漬けのモノより、シャープさがあり、視力検査的に物申せば、中国産日本漬けのそれが0.80.9あたりなら、鳥取鳥取漬けは1.21.4くらいにクッキリ感が明瞭なのだったからタマンナイ。いわば視界クリア、味覚が全方位的に明るいのだ。

 

 さほど好きでもなく、どちらかといえば無視に近かった「らっきょう」が、突然に価値あるものと化して食卓の上位に赤丸急上昇してきたのが不思議でしかたない。

 さらに深追いして云うなら、ラッキョウという名が好みでもなく、なんだか落語家の名のようでもあるし、楽して狂う、みたいなケッタイな連想もしちゃって、辣韮という漢字なんか読めもしなかったワケだ。

 ともあれ、トシをとると食の嗜好も変わる、というのは判るハナシではあるにせよ、いきおい、それが「らっきょう」というのはカッコ悪い。

 しかし、事実は「らっきょう」に今まさにチャンピオン・ベルトを渡してるんだから、しゃ~ない。

 いっそこの場合、トシは関係なく、我が舌の味覚中枢が拡大したか、あるいは衰退だか減退したか、そのどっちかかも知れないと疑ってもみるけど、理由はわからない。

 だからあえて、カギカッコ付きで「らっきょう」と記して、

「これ1つの特異点ね」

 自分の中で区別化を図ってもいるんだけど、パリポリバリ、噛みごたえ愉しめ、味を愉しめ、うまいコトに変わりなし。

 ここ2ヶ月近く、サバ缶を食べていないから、何かそれに変わる刺激を求めてというハズもない。

 近ごろのサバ缶ブームで、新規参入の商社らしきが中国産、フィリピン産、韓国産、などで店頭攻勢をかけて来て、けれどいずれもチープ、ボクは合格点をあげられず、いっそ、

「要らない、こんな不味いのは」

 ブームの擾乱に眉をしかめて、それでつい国産モノにも遠ざかってしまってる。永くサバ缶に取り組んできた日本のメーカーズにも迷惑なハナシじゃあろうけど、それと「らっきょう」は、ま~、たぶん関係ないだろう。長雨も関係はない。

f:id:yoshibey0219:20190725045527j:plain


「らっきょう」はビールに合う。

 これを日常食とする国は日本以外にないと思われるけど、ビール大国のドイツでもスーパーで売ってるようだ。

 乳酸発酵による酸っぱいキャベツをビールで流し込む国民ならば、甘酸っぱい味付けの「らっきょう」が売られて、おかしくはない……。ひどくポピュラーではないにしろ、そこいらのスーパーにあるということは、そこそこ売れており、ビールのお伴になっているという次第じゃなかろうか。

 ただ厳密にいえば材料はラッキョウじゃない。パール・オニオンとかいう小粒なタマネギのようだ。でも、在ドイツの複数のヤパーナーがネット上でこれを「らっきょう」と公言してるようでもあるから、味覚似の仲間であることは間違いないだろう。

 オニオンではなくってラッキョウそのもののベトナム産瓶詰めもドイツのスーパーにはあるようだから、やはり酸っぱい系列なこの小粒はそれなりに好まれているのだろう。

f:id:yoshibey0219:20190725045616j:plain

          f:id:yoshibey0219:20190725045935j:plain

 カクテルの世界では1粒をそのままグラスに沈めた酒があるようだけど、飲んだことはないし、さほど興味もない。むしろ、そうやってドイツで売っているなら、それってソーセージとかウインナーとかフランクとかと相性がいいというコトじゃなかろうか?

 舌を焼くような熱々ジューシーなウインナーと冷やしまくった「らっきょう」。

 うん。ゼッタイに似合うと思う。

 もはや「らっきょう」はカレーのそばでジッとうずくまっていなくてイイ。大手をふってウインナー6本の横にドド~ンと20粒ほど、大きな顔で居座っていてヨシ。

 であるなら、「らっきょう」業界は自信をもってドイツの食品界に売り込みを図ってもイイのでないかしら。

 ご飯と「らっきょう」がメチャに相性が良いとは思えない。軽度に焼いたパンにバターを塗り、熱々なウィンナー2本に「らっきょう」を刻み込んで挟んじゃう、というようなのは考えられるけど、ご飯にのっけての1対1な関係となると、なんだか絶妙に間(ま)が埋まらず、やはり、ご飯とおかずの中間点でのワンポイントとしてのクッションが妥当かとも思うと、なかなか置き所が難しくって、お・も・し・ろ・い。

 むしろ、単独単品で存在誇示が1番に似合うのが「らっきょう」と云ってよいような気がするが、見極めにはもう70粒ほど、ポリパリ噛んでのみ込んでみなきゃ~自信がない。♬