よそ様の庭のイチジクは知らないけれど、うちのイチジクは今年やたらに実ってる。昨年の5~6倍はあろうか……。
それらがこの前の台風の強風に大いに煽られた後、なにやら急速に熟し出し、連日、2つやら4つやらを収穫するという有り様。
でかい実で、けっこう甘い。
いわゆる、「なりどし」というコトになるんだろうけど、台風が影響を与えたような気がしていけない。
秋の松茸は、夏の終わり頃だかに地震があると、収穫量が増えるらしい。大地の揺れが、松茸生育の土壌のカンフル剤みたいなアンバイなのだろう。
イチジクの熟成も、強い風が刺激になったんじゃ~なかろうか? 葉も枝もかなりこっぴどく揺さぶられていたもんな。それが刺激になっての実りの増量という感じがしていけない。
1つの枝に2粒ついていたら、いつもなら片方は実って他方は成育が悪かったのだけど、こたびは両方がニッコリ笑って口開けるという次第。
強張った肩の筋肉がマッサージで揉みほぐされて血行がケッコ~になるように、揺さぶられつつ雨にうたれたのが結果としての実り豊かにつながった……、そうであるなら、ことイチジクに関していえば、台風によるでっかい恵みと思わなきゃいけない。
台風の風に揺さぶられるイチジク
台風去って2日め ↑
4日めの朝の実り ↑
しかし一方で、独特な甘い匂いにアリが寄ってくるんだ。
かなり高い部分に実ったところまで這い上がる。
地面から幹を登り、枝を登りと、アリの身の丈をヒトのそれに換算すると、およそ5~6Kmを移動し、標高およそ1000mくらいな高さにまで上がってるワケで、ニンゲン感覚でいえば、
「そんなんアリ?」
な、大冒険めいた壮挙に近い。
むろん、褒めているワケでなく、アリを養うためにイチジクを植えてるワケでないから、迷惑だ、アリがたくない。
地上に幾らでも食料となるモノが落っこちてるでしょうに……、好んで長距離移動かつ高所にまでやって来る、その熱意に敬意をおぼえはしても、邪険に払い除けてしまうのだった。
なにより迷惑至極は実の中に入って甘味を堪能してるアリどもだ。イチジクの実を割ってはじめて、
「アリっ!」
こちらが仰天するほどの数、20~30匹くらいがワンサカたかって黒山のヒトだァ~リだと、もうイケネ~。その実は破棄するっきゃ~なくなるんで、烈火ヒンシュクもの。
かといって腹立ちまぎれに実を熱湯にチャポンで、「アリマ~温泉」なんて~ことをヤッちゃうと、蟻地獄を見るだけのジェノサイド、報復連鎖の昨今のアレコレと変わらないワケで、アリとキリギリスが共存しにくいのとご同様、むずかしいですなァ、アリとヒトの関係も。
小学校の低学年頃だかに『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』というのを読んで、なにやらアリに好感したり、シャツの裾がちょこっといつも出ちゃってる主人公に自分を重ねてみたりして、気づくと今もってそのチョンドリーノという単語だけはアタマの中に焼き付いているというケッタイなことになっていたんだけど、久々に本を探し出し、拾い読んでみるに、それは主人公の名ではなく、破けたズボンからシャツがシッポみたいにのぞいている状態をさす単語なのだった。
主人公ジジーノはそんな破けたズボンがチョンドリーノ状態をもたらすコトを気にし、たえず羞恥をおぼえ、学校生活が疎ましい。嫌でたまんない。
「アリは年がら年じゅう、ぎょうれつばかりして、朝からばんまで、さんぽのほかはなにもしないんだもの」
アリになる願望を口にし、ちょっとした魔法がかかってアリの卵になっちまう。
そこからアリ生活を余儀なくされ、大きなミミズの死骸を仲間と引いたり押したりし、アリ生活がどういうものかを学習しはじめる。
『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』(北イタリアの作家バンバ(1860-1920)の作品。バンパと書かれてたりも。この挿し絵は講談社の童話全集10より。
やがて赤アリとの戦争に巻き込まれ、総司令官となって戦い、ついには皇帝チョンドリーノ1世になるところまでいって横柄傲慢にもなったけど、さらなる戦いに破れて戦争裁判にかけられ、足をひっこ抜かれつつの処刑の場にあらわれたスズメバチにさらに命を狙われるテンヤワンヤ。
けどもハチの体色の美しさに惚れたりして、なんだか友達になり、さらにアレコレあって、大事な友や育ててくれたおばさん(アリの)の死を経験しつつ、アリとして生きてる自身に誇らしさをおぼえつつも人間であった頃の記憶を頼りに”実家”に近寄ってみようと思ったり……、というようなけっこう長いお話なのだった。
講談社版のカラー口絵
一読、アリはアリでアリの生活がありという大事なポイントを再認識されられる仕掛けになっている。
ジジーノが人間に戻るワケではない話のとじ方に感慨させられもする。
老いて読むべきは、このような童話かな? ともチラリ思ったりもする。
ただ『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』の場合は、その作家名を含め忘れられつつあって、残念なことに今は版が重ねられていないようだ。
殺された仲間への言及で、
「いまごろ、みんなは、おなかの中で、とけちゃっているでしょう」
とか、赤アリの部隊に捕らわれたジジーノ君が真ん中の足2本を引っこ抜かれたりとかの描写に、
「子供には刺激が強すぎ」
の配慮あってのコトなのか、状況を知らないけれど、もしそうであるなら、バカげてらぁ。
良書を、”大人の勝手な思い込みと配慮”で駆逐しちゃ~いかん。
上記の通り、ジジーノ(チョンドリーノ1世)は人間であった頃の家に戻ってみようとするところで物語が閉じられ、『ピノキオ』みたいなハッピーエンドをまのあたりに出来ない構造になっている。
そこがこの童話の肝心な奥行きあるところだと思え、余計に、今、日本では出版されないコトの背景を考えると哀しいもどかしさをおぼえる。
チョンドリーノという単語がボクのあたまに刻まれている理由も、良い物語を子供の時に読んだ……、その輝きが衰えぬままにあたまの中にあって、いわば夜道の向こうに1つ灯っている、放射性の夜光塗料を塗布したような道しるべとなっているワケだ。
集英社が出していたバージョン。古書店で1000円くらいで入手出来るかな? ボクは持っていない。絵がいささかメルヘンチックか……?
しかし、台風 → イチジク → アリ → 昔読んだ童話 → 読み返してアッ。こういう連鎖って面白いね~。概ねは結合しないであろう諸々が線で結ばれ化学反応を起こして1枚の透明な板になっちゃったみたいなところが、お・も・し・ろ・あ・り。