5日早いお彼岸 ~ラッキョウ•ラブ~

 毎年のことながら……、ほんのついこの前、お盆で坊さんがやって来たと思ったら、早や今度は、お彼岸。

 わずか数週、2度の坊さん来襲だ。

 むろん事前に「行きますよ~ん」の通達あってのお越しだけども、ヤヤせわしない。本来は20日からお彼岸らしいから、5日早いよ。

 べつだん、だからといって非難も批判もあるワケでない。寺の都合、コチラの都合もござんしょ~。組み込まれた行事の1つとして、タンタンと受け入れる。

 拝んでもらい、仏間にちょいとお線香の香りが漂い、終えるや、いつもの茶碗(坊さん用だ)で茶と菓子(わざわざ華宵庵に買いにいくんです〜)をすすめ、ヨモヤマ話をやって、お布施渡し、適度にお辞儀してハイおしまい。

 

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 仏間に座布団敷いて座り込むのは坊さんが来た時だけだけど、むろん、故人を偲ばないワケはない。

 といって、深々に思いを馳せ飛ばすワケでもない。

「また1年、経っちゃったな」

 やや色褪せしはじめているファーザー殿の写真に視線をそよがせつつ、同時に季節を思い、これも1つの句読点、マル1つが置かれ、秋への移行の感触をば、チビっと味わうのだった。

 こういう味わいも、わるくない。もちろん、庭先に出りゃ~、まだ暑っつっつだけど、雲の形が秋のそれ。

 

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             パッションフルーツの葉影の向こうに眩い空。

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 淡いムラサキの粒が連なってるのが面白いけど、名を忘れちゃったよ。

 

 連なって、といえば、過日にケッタイな夢。

 なが~い列車に乗っている。1つの車両が途方もなく長い。

 それも食堂車。連なるはずの別車両の入口がはるか遠くにあって何両編成なのかもわかんない。 

 両脇のテーブル席を眺めつつ、通路を歩く。

 左右の車窓の外に見える景観がやたらリアル。電線が上下してる。

 その食堂車に、もう50年くらい営業を続けてる中華屋さんのような油じみた匂いを感じ、早く通り過ぎるべく足早になるけど、とにかく車両がなが~い。

 いったいカーブじゃどうやって曲がるんだろう? 歩きながら考えていると、何人か知り合いがテーブルに座って、こっちを見てる。

 ジャズフェスの仲間に混ざって、津山にいる従妹(いとこ)がなぜか座り、ビックリ顔で、

「どけぇ~行きょん?」

 津山弁で問うてくる。

 少し先に立ち喰い屋台が幾つか並び、それだけで目測20mっくらいはある。車両窓際にはタオルやおしぼりが干してある。

 で、屋台の提灯には「麺震度一番」と書いてあって、床にバネが見える。

 ラーメン、うどん、そば、スパゲティ、がメニューとわかる。

 長細いその屋台をS新聞社文化部のK女史が取材していて、こちらに寄って来ると、

「お客さんは震度を選べるようになってるそうなんです」

 説明してくれ、

「どう思われます?」

 ひとなつっこく笑う。

 列車の揺れに加え、さらに床を揺さぶった状態で立ち喰うらしい。

 激辛とか甘辛とかでなく、激震か

「やっぱ、世も末ですな~」

 とか、返事した……

 ワケわかんないけど、麺震というのは我れながら快作だ。免震とマチガエた可能性もあるけど、しかし、そんな夢をなぜ見たか?

 きっと、『阿房列車』のせいだろう。

 

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 この本を買った憶えがない。いつから自分のところにあり、何故にあるのか、ズ~っと不明だった。

 けども、数週前だか、夜中のBARでEっちゃんとヨタバナシしているさなか、

「そりゃ、あたしのじゃ」

 Eっちゃん、半オクターヴ高くいい、

「おまえさんが、持ってたかぁ」

 のたまうのだった。

 あらま~、そっか、借りてたんか~~。

 すっぽり記憶がないのを訝しみつつも面白がった。

 そういうコトがあっての、この夢なんじゃなかろうか。

 目覚めると、食堂車から出た憶えがない。

 ずっと通路を歩き続けたような感触ばかりで、目覚めた後で、食堂車の窓辺に干してあった屋台のタオルやおしぼりのなさけない風情が気になって、車掌を呼んで苦言を呈すりゃよかった……、ちょっと口惜しかった。

 

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 そ~いうコトがあって、そんな夢をみたんだろうけど、上写真、数日前にさらに借りた『阿房列車』の次刊などなど。今度はチャンと返そうと、証拠写真を撮った次第。

 

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 そのEっちゃんとKちゃんのカシマシ・シスタ~ズが列車に揺られて玉野に出向いての……、みやげ。

 らっきょう。

 某高名ベーシストのママで玉野在住のTサマから、既にこの玉野築港商店街・山下食品のらっきょうの事は情報を得ており、出向くとして11月頃かしら、などと密かに思うてたのだけど、らっきょうの方からコッチにやって来た。

 あ・り・が・た・い・な・あ~

 想定していた以上に高額なのね……。御礼にと、鳥取は倉吉の梨をばご両名に。ブツブツ交換。

 

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 このらっきょう漬けは、いわゆるラッキョウ酢ではなく、お酢と砂糖での自家調整らしい。

 我が舌はそこの絶妙を判別できない。

 らっきょう漬けワールドの広大な甘酢ゆい海に小舟を浮かせ、やっと漕ぎ出したに過ぎないビギナーだから、「うまい」とか「いい感じ」とかの表現しか、まだ出来ない。

 それが、ま~、もどかしいワケだけど、もどかしさがまたらっきょうの魅惑を押すようなところもあって、今のところ、「ラッキョ、ラッキョ~」と吠えてるダンシもないようであるから、開拓者の愉悦みたいなケッタイな優越もチビっと味わって、さ~、今日もまたポリポリ。

 舌が老人のそれに変化してんじゃね~の? との嘲笑もあるにはあるけど、舌先三寸なそんなご意見なんぞは聞く耳もたない。

 

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親戚のソレと玉野のソレ。親戚のはもう半分食べちゃった……。並べてみると、玉野は粒が大きい。

 

 大野朱香にこんな句があった。

 

箸とどかざり瓶底のらつきように

        句集『一雫』(ひとしずく) ふらんす堂

 

 何のこともない情景だ。瓶の奥までお箸が届かなかっただけのコト。それをそのままただ詠んだだけなのに、何でこんなにこの句は浸透してくるんだろう? 堂々としているんだろう?

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 ちょいと昔日、2006年のつま恋での吉田拓郎ライブに中島みゆきが突如現れ、2人の共作たる「永遠の嘘をついてくれ」を、ほぼ直立不動、まさに堂々に謡い、彼女がそこいらの歌手をはるかに凌駕する存在だったことを示し見せてあまりに圧巻、そばにいる吉田がスチャラカで軽い存在に見えるほどに圧倒されたことがあったけど、どういう次第か、その堂々にこの句の旬な堂々が重なり、想い返せば……、3万5千人の観客を前にした中島みゆきの揺らぎのない顔が白いらっきょうにダブって重なるような気がしないでもなかった。

 

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 このあたりの消息が、ま~、ボクの今のラッキョウ・ラブなんかしら。

 要は、食品という狭い範疇にらっきょうを置いておきたくなく、他の五官に委ねてしゃべってもイイじゃん、な気分なんだ。

 タピオカ入った甘~い紅茶を歩きながら啜ってワタクシもブームの中にいる~、も、ま~、いいですけど、ブームでも何でもないらっきょうに言及する方が、2センチほど先んじて背が伸びたようで、おもしろみの増量感ありという次第。

ヒゲ親父 ~ジョン・アダムズ~

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 某日、馴染んだ場所での『古市福子朗読の午後』。

 毎回のことながら満席。(2日連続公演だけど両日とも満席なんだからたいしたもんだ)

 会場入りすると既に心優しき我が仲間が席を確保してくれていた上に、集った仲間と同数の団扇まで用意してくれてた。

 気がきいてらぁ〜、いいなぁ。 Thank you Toshi-chan & K-chan.

 その団扇で顔をパタパタあおぎつつに開演。

 古市の甲高い声、低い声、ドスある声、チャメな声、いつもながら高圧な電流が彼女の体内をめぐる。

 こちらは座したままに眼を閉じたり開けてみたり。

 朗読は耳がすべてじゃない。時に眼は同行者の、やはり聞き入っているらしき姿を盗み見たりもして、その情景を含めての体験がすなわち朗読の場。

 

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 手塚治虫が産み出した「ヒゲ親父」のような大人に、子供の頃にあこがれ、あんな親父になりたいなっ……、とはチィ~っとも思ったことはない。

 そういう発想すらなかった。

 『鉄腕アトム』やらその他作品で頻繁に登場するから、ごくごく親しいキャラクターには違いなかったけど、「ヒゲ親父」はどこまでいっても「ヒゲ親父」。

 学校の先生だったり、探偵であったり、綺麗な少女の貧しい父だったりする。時にピストルを持ち出しブッ放したりもし、悪人をチカラいっぱいブン殴って怒りを見せたりする。

 要は、チャンと独立した大人が「ヒゲ親父」なのだった。

 だからこの人物には常にある種の尊敬が示された。例えば、アトムやメガネやシブガキがそうだ。常に叱られる側にメガネ達はいて、時に反撥はしても「ひげ親父」への尊敬は不変、大人の規範を示す存在であり続けてた。

 

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             生徒に議論させ、自身は沈黙して公正を保つヒゲ親父先生

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      上2枚は、鉄腕アトムフランケンシュタイン」のヒトコマ サンコミックス

 

 けども近ごろは、こういう一途な正義漢を代弁する大人キャラクターはあんまりいないんじゃなかろうか?

 そう思うと、「ヒゲ親父」は貴重だ。希少といっていいか……

 ステテコでちゃぶ台の前に座るのがよく似合って、これは昭和の香りとして愉しめるけど、だいたい、年齢を特定できないのもオモシロイ。

 55歳? 60歳? 65歳? 

 よくは判らない。

 ま~、そこも頼もしいのだ。例え68歳だと特定されたって、それにさほど意味はない。ちゃんとした大人として振る舞えているかが問われ、その問いに5560も数字としての年齢は意味をなさないんだった。

 

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 ここ数週は夕食毎にiPad でアマゾン・プライムを開き、『忍者ハットリくん』を眺めてる。

 198187年の作品。1話7分。これが700話(!)近くある。

 食事の合間に5話か6話が通り過ぎる。

 弟のシンゾウ君、ライバルのケムマキ君と忍者ネコの影千代が良くって、とくに犬の属性をもったようなネコの影千代が良くって(犬の獅子丸は不要だな)、けっこ~それなりに楽しんだけど、しかし観続けていると欠点も見える。

 1番にいけないのが、チャンとした大人が出てこないことだ。

 ケンイチ君の両親は毎度出てくるけど、ほぼ子供の延長でしかなく、免許取り立てのママがケンイチ君らを乗せてドライブに出たものの坂道でパニックし、危ない状況のまま子供らを車内に残してサッサとどこかに逃げ出しては目も当てられない。ギャグマンガだからイイじゃんとは思わない。子供を危険状態に放置しちゃいけない。それをギャグと解しての脚本はすでに脚本に値いしない。

 学校のコイケ先生は、生徒に嘲笑され、失敗を繰り返してはハットリ君に影で救われたりもするが、そもハットリ君は学校の生徒ではない。ある話では、先生の人気投票とかで、生徒を買収にかかったりする。

 出前持ちのオジサンはいつも主人公たちと路上でぶつかり、おソバを路面にぶちまけるだけで弁償もされない。

 夜店の金魚すくいのおじさんはハットリ君の忍術で無銭で金魚をねこそぎ奪われる。

 ……てなアンバイで、大人への尊厳なき描写が繰り返され、仕事に関しての敬意のなさも毎度のごとくで、眺めていると不快がプチプチ湧いてくる。

 

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 ハットリ君のやってることはケンイチ君にイタズラしたケムマキ君への仕返しに終始だし、子供による子供のための子供だけの閉じきった世界での、ケンイチ君我が侭の幇助をやってるハットリ君でしかなくって、あまりにつまらないから逆にそのつまらなさを味わうがために毎晩観ちゃうみたいな依存症めいた習慣性をおびてくるから、いっそ~キッカイだ。

 こういう番組をみて育ったのが、たとえば、「戦争で島をとりかえす」みたいなバカ丸出しをいって議員職にしがみついてる若造らかと思うと空恐ろしい。

 無論この見立ては短絡で根拠のない言いがかりだけど、仮に自分が子供の時にこれを毎週見ていたら、どう影響されただろうと危惧しないワケではない……、などと大昔のPTA会役員のような、視点を固定して錆びた価値観引っさげ批判ばっかりな、ヘンに頑強な親父気分になる……、のが困る。

 

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 アマゾン・プライムでHBOのミニ・シリーズ『ジョン・アダムズ』。

 全7話。ほぼ一気に観て、毎回を堪能、感嘆した。

 アダムズは米国を独立国にした立役者の1人だけど、彼を一躍高名にした英国軍人の弁護裁判から、90歳という高齢でなくなるまでの半生が描かれ、眺めていると、

「あっ。ここにヒゲ親父がいる!」

 そう呟かざるをえないシーンの連打だった。

 もとよりジョン・アダムズジョージ・ワシントンに次ぐ第2代大統領)を詳しくは知らなかったけど、討論に徹して政局を動かそうとする我慢と努力の深さには、正直、たまげるようなアンバイだった。

 その政治的振る舞いの裏には雄弁の才を誇示したがるプライドがあり、葛藤があり、嘲笑、誹謗、中傷にさらされもする。

 友情が裂け、猜疑があふれ、怒りが滲むこともある。

 政治的存在であると同時に、夫であり父でもある。

 揺れて、ぶれて、翻弄されつつも、しかししがみつくようにして毅然と振る舞おうとするアダムズ。日々、歯痛に苦しむアダムズ。それすら揶揄されるアダムズ。

 建国後、フランスからの高圧に国内世論も議会もが戦争ムード一色に染まるも、その承認を拒否し続ける大統領としての彼は、側近が周辺の空気に負けて彼と意見を異にしだすと解任し、冷ややかな言葉を浴びせもする。

 

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 柔らかく炊いたポテトらしきのランチ・シーン。何気ないシーンだけどもこのアダムズ役ポール・ジアマッティの歯痛をこらえての食事描写は絶品。ほとんど口を閉ざして手前の人物と会話……。セデスもロキソニンもなく、我慢の上のガマンの腹話術的な会話が痛々しくも可笑しい。

 

 6話7話では、次男の勘当、その死、長女の乳がん、その死、そしてやがて、最愛の妻を失う彼の慟哭が描かれる。

 米国の映画では女性も男性も劇中で泣くというシーンはとても少ないのが特徴で、とくに女性を情緒的存在として描いてしまう邦画とはずいぶんに乖離しているけど、この6話7話にかぎっては、涙が画中にあふれて、これも少なからず驚いた。

 極力に史実に基づいているらしくで、だからまだ麻酔もない時代なワケで、手術前の長女の恐怖(麻酔なしで、曲がった鋸のような道具で乳房を切除する)、別室で控えている父ジョンの苦悶に……、手に汗させられるようなアンバイでもあったし、歯科医療が進んでいない時代を反映させ、出演者の歯が女性も男性もひどく汚くメークされ、そこにも「あっ」と云わされたが、ともあれ一歩まちがえると退屈なTVシリーズとなる可能性も高かったであろう題材を、徹底してリアルに、かつアダムズという男を通じて描いたことで、退屈のタの字もなく、いっそ言い知れない緊張を伴って鑑賞できた。 

 

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 建国50周年記念の絵(独立宣言の署名)が出来たさい、引退して久しい彼は議事堂に招待される。が、

「こんなシーンはない。歴史を捏造するな」

 アダムズは、母国英国と戦争になるかもしれない恐怖と責任の重みにかられつつ署名したであろう50年前の自身と各州の議員を想起し(一同に会して署名したワケではない)、威風堂々ではない実の姿に改めておののきつつ、絵と現実の落差に感情を炸裂させる。罵倒に近い言葉で画家に怒りをぶちまける。

 画家は画家として50年前の仔細を知らないが精いっぱいの努力作を産んでいるワケだけども、署名当事者のアダムズには、絵は文字通りの絵空事でしかない。

 なので象徴的で印象深かった。建国50年で既に50年前のスガタカタチが再現できないことのもどかしさが伝わるし、さらに時代を経てのこのTVシリーズの製作者たちトム・ハンクスも加わってる)も同じく抱えたであろう「過去再現」の難しさを、このシーンでチラリと内心を吐露してるようでもあって。

 けど、また一方で、はるか後世になった今、この絵がパーフェクトな史実ではないにしろ、かつての独立の日7月4日の、”インデペンデンス・思い出し装置として存分に機能しているというコトもチラホラ。

 

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米国議会堂に今も壁面にかかっている本物。男子は皆カツラの時代。中央で腰に手をあてがってるのがアダムズ。

  ともあれ、なにより、主役の「ヒゲ親父」っぷり、久しく聴かない父性というものを濃く感じさせられ、頷かされる点が多々あって喜ばしかった。

 その父性に添って妻の愛と母性があり、情愛があり、友愛があり、消せない喜びと哀しみがある。気づくと骨太い大きなドラマを見たと感じいり、あらためて疼かされた。

 こういう反応はめったに起きないけど、今、2度めを観てる。

  舞台となる18世紀末のアメリカ、オランダ、フランスの景観描写が圧倒的に素晴らしくもあり、これはカメラの日(?) Tak Fujimoto氏の大きな功績だろう。時に絵画的でもあって、主題から離れてただ風景を眺めているだけでも、何だか眼がよろこぶのだった。

 

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 第4話で熱気球が出てくる。

 画中では何も説明がないけど、史実では、1783年の11月、ブローニュの森近くの城シャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から2人の貴族が乗った熱気球が人類史上初のフライトを行っている。

 映画に登場の城といい気球の形と配色といい、まずそれだろう。

 ジョン・アダムズがその場にいたのが、事実なのかどうかボクは知らない。

 同年は大使としてパリに住まって、オランダとイギリスに数ヶ月単位で出かけるという状況だったようだから、大勢の群衆の中で、この番組が描写した通り、上昇する青色地にカラフルなペイントが施された気球をホントに見ていたのかも知れない。

 それほど長いシーンではないけど、綱を外され自力で上がっていく気球と米国が勝ちえる独立という自由が象徴的にうまく演出されていて、好きな場面だ。

 

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                    見上げるアダムズ

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                    まったく見事な絵づくり……

  えっと、ちなみにこの頃はルイ16世の時代、マリー・アントワネットは健在。革命で王政が転覆するのは、この熱気急飛行の6年後ということになる。その時は、ジョン・アダムズジョージ・ワシントンを補佐する副大統領。処刑と米国は直に関係はないけども同じ時代の歯車の中の出来事というコトも……、再認識させられた。 

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 気球が飛ぶ2年前、1781年にフランソワ・ユベール・ドルアイが描いたアントワネットの肖像画

 

 

 

 

プリズナーNO.6 ~MINI 60年~

 MINIが誕生して今年で60年。

 英国やこの国でも、いくつか比較的大掛かりな記念イベントが開催されているようで、慶賀というほかない。

 私的感想を申せば、BMW-MINIに変わった時点で「楽しい車」としてのMINIのヒストリーは終焉し、今そこいらを駆けてるMINIは名を踏襲したものの現代仕様な「普通の車」とみえて、ほぼ関心ナシなのだけど、ともあれ登場して60年という歳月が刻まれたのは感慨深い。

 この9月8日には県北は蒜山高原でもMINIを中心にした英国車大集合のイベントが予定され、先日には蒜山在住の某MINI乗り君にも誘われたけど、90年代には足繁く鈴鹿サーキットやら英田のレース場やらに出向き、出店したりもし、大いにハッスルしたものの、さすがに年齢がかさむとねぇ、ま~、いまさらという感じも濃くってご辞退申し上げた次第。f:id:yoshibey0219:20190903055120j:plain

              MINIを設計したアレック・イシゴニス。

彼は、F!などのレーシングカーと同じコンセプトを導入。一体化されたモノコックボディの前後に独立したサブフレームを取り付け、そこに全部の機構部分を置くというカタチでMINIを作った。というかレーシングカーがこれを真似ていったというのが正しいか……、その構造ゆえに剛性が高いのだ。おまけに小廻りが圧倒的だから、MINIを一躍有名にした急なカーブがいっぱいのモンテカルロ・ラリー3連覇はいわば必然の勝利だったのかもしれない。

 

 MINIで忘れられないのはMOKEだな。

 MINI MOKE(ミニ・モーク)。

 登場は1964年。設計はMINIと同じくアレック・イシゴニス。

 英国陸軍での多用途車両を想定し、エンジン廻りやシャーシはMINIそのままで外装を大幅にチェンジした。

 米軍のジープのような役割を期待されたワケだが、軍で試用するに、

「おもしろ過ぎる……」

 とのことで不採用。MINIベースだから車高も低く、まして4輪駆動でもないから、軍隊としては使えないという判断だったろう。

 ちなみに、MOKEはロバという意味ね。

 

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 英国海軍は空母の艦上車両としてかなり真剣に検討したらしきだけど、戦闘機を引っ張るようなパワーは望めないんで断念した。

 結局、コンパクトなサイズとカタチゆえアチャラコチャラのゴルフ場のカートとか、リゾート的専用空間で活かせる車ということになっていく。特にオーストラリアでは砂上を駆けるビーチバギーとして人気の車となった。

 


プリズナーNO.6の舞台たる”村”で使われたのが、このミニ・モーク。

 ホワイトカラーのボデイ(TVシリーズの撮影開始と同じ1967年に販売されたMINI MOKE MarkⅡ)にクリーム・ストライプな幌屋根。劇中では村のタクシーとして役があたえられ、選挙では選挙カーとしても使われ、その小ぶりなスタイルゆえ印象が深かった。

 劇中では、リアカーとして寝台を引く救急車仕様も登場した。

 

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             TVシリーズプリズナーNO.6』の劇中シーン

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           撮影ロケ地(後述)で販売されていたキャビネ・サイズの生写真 

 

 ミニ・モークはかわいらしいというかチャーミングというか、どこかユーモラスでもあるし、キビキビと駆け廻るもんだから頼もしくもあった。

 しかし、それが何らかの理由で拉致監禁されている村の住人達の、唯一の”足”なのである。

(正しくは、ミニ・モークと同じカラーリングの自転車と1人乗り電動カートもあり)

 その硬軟なギャップある設定が憎いほどに活きていたのがこの番組だ。

 ホントは重い題材なのに、奇妙にポップな匂いをたてる番組(全17話)としての『プリズナーNO.6』の背景を大きく支えてた。

 もちろん最大のポイントはポートメイリオンという実在のリゾートホテル(かなり広大です)をそっくりそのまま使い、そこに点在する家屋に”性格”を与えた上で多数のエキストラを動員し、その上で、家屋外観からは想定しえない大掛かりでモダンな室内セットを組んでいたのがこの番組のツボだったろうけど、村を疾走する車両はミニ・モークだけ、ボンネットに村のロゴ(自転車のマーク)をあしらった白いミニ・モークだけというのが高得点なのだった。

 

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 で、村から脱出を試みようとする者たちは皆、あの謎の大きな風船玉に追っかけられ、呑み込まれ、捕まって、一見は自由に振る舞えても、それはあくまで ”あたえられた”、ものでしかないという、”拘束された自由”、いわば為政者NO.2の手のひらの中の自由であるコトを味わい知らされるのだった。

 でもって、そのNO.2もまたNO.2でしかなく、ではNO.1は誰か? 何か? という中心核に向けて全17話は進行するのだった。

 

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 この番組を思うたび、あたまの中にミニ・モークの排気音が響く。我がミニと同じ音なのでまったく馴染んじゃってる音でもあるのだけど、それはどうでもよくって、ともあれモークという単語が聴こえたら必ず『プリズナーNO.6』が念頭に浮いて早や何10年という次第。

Be See You.

劇中毎回必ず出てくるアイサツ言葉と共に、いっこうに色あせしない不思議存在が、この番組なのだった。

 村の中の自由は常に、

「じゃ、また……」

 ってな村内限定での再会をお約束するっきゃ~ない一語に要約されるというアンバイに、誰もが置かれているであろう実生活の自由の在処についての、これは寓話なのだというコトも判ってくるのだったが、今もってこの番組ほど自在に番組そのものを構成させたTVドラマはあんまりないというコトにも驚きの念が消えないんだった。

 

 第14話『悪夢のような』では、なんとタイトルすら出て来ず、いきなり西部劇がはじまり、主役が序盤では出てこないままドラマが進行し、最後の最後で

「あっ!」

 なんだから、も~~、やられちゃったよ。

 DVDやらでなく、当時、NHKで放送され、接したさいは、

チャンネルまちがえた?!

 ずいぶん慌てたもんだ。

 

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 なるほど今の眼で観れば、スクリーンサイズは4:3だし、描写も時代を感じさせて経年劣化な部分もある。コンピュータのカタチ、人工知能のとらえ方など顕らかにもはや古びてしまった所もある。

 けれどサビはサビでしかなく、拭ってしまえばいまだ斬新の光輝をきらめかせる。ミニ・モークの登場を含め、まばゆい宝石であり続けてくれている。

 番組の立案企画者であり主役だったパトリック・マクグーハンが晩年に執筆していたというリメーク脚本を元に、リドリー・スコットが新たな劇場版の映画を計画しているというハナシがあるけど、さ~さ~、それはどんな具合なものになるんだろう? 少なくとも60年代テーストのミニ・モークなんぞはそれには加わっていないだろうと予測するんだけど、ね。

 

  Be See You. の日本語字幕では、使われるシーンによって、「じゃ~」、「さようなら」、「では明日っ」といった具合で翻訳時にニュアンスがあまり配慮されなかったようで、これはかなり残念だ。

 ヒトの顔にホクロがあって、それが往々にしてその人物の特定になるように、『プリズナーNO.6』でのそのホクロたるが、「Be See You.」じゃなかろうかと思ってる。

 だから「じゃ、また……」とかの1つに統一すべきだったろう思うわけだし、マクグーハンは意図的にこれを使って”不自由”を顕わしていたと確信してるんだ。

 

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『Model Cars』(30号 1996 ネコ・パブリッシング刊) 筆者執筆の特集記事。模型としてのミニ・モークと『プリズナーNO.6』を大きく取り上げたおそらく初めての記事だったろう思う。それから10数年経って、岡山の某BARで真夜中、この記事を読んで本を今も持っているという人と遭遇してビックラこいたコトがある。ま~、先方もまさか岡山に執筆者がいようとは思ってもいずで……、イスから転げ落ちてたけど。

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                 TVC-15のキット(1/24)のプリズナー仕様の完成品。製作は請地利一氏。上記の記事に使用。

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      主人公NO.6の家の着色済み模型。ホテル・ポートメイリオンで販売されていたもの。

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            NO.2の家の模型。これも同所で販売されていたもの。

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                 実際のポートメイリオンの家。

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  『Model Cars』に載せるために少量製作した1/43スケールのプリズナー仕様のミニチュア・カー。

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プロジェクタースクリーン

 平日月曜のライブというのは、むろんあり得ないワケではないけども、やや少ない。

 そのやや少ない日程での「嶋津健一ピアノコンサート」。

 ゲスト歌手に我れらが、なかだたかこ。

 チラシも我れらが、Yukoちゃん。

 客席のアッチコッチにジャズフェスやら別の某会やらの我がお仲間。

 なかなか良い感じなライブ。

 嶋津のピアノは一音一音が堅実で澄み、オリジナルの一曲一曲が小窓から眺める四季の景観のよう。

 16年間一緒に暮らしたネコを想っての「はな」という曲は、眼を閉じて聴いてると彼とはなちゃんの楽しかったであろう午後のいっときのようなものが感じられもし、それが今度は逆に、小窓の中に、ピアニストとネコがいて戯れている様子が窺えるよう。

 この曲の出だしはやや重く聴こえ、それはおそらく愛猫の死を間近にした嶋津の未整理な気分を音符に乗せ換えたものなのだろう。それが次第に軽やか軽快になっていくのは、ネコのはなちゃんと過ごした日々の充実への追想であろう。

 嶋津は演奏前に、はなちゃんへの思いは「ただ一言、感謝です」と言ったけど、その情愛の深みは聴いていてよ~~く判ったし伝わった。

 いいライブは時間があっという間に過ぎる。

 帰宅すると荷物を発送した旨のメールが届いてた。

 

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 火曜に荷物が届く。プロジェクター用スクリーン。

 水曜。終日の雨天。九州方面は大雨とのことで佐賀県在住の若い友にモシモシ。自分のところは大丈夫であります、とのこと。ホッ。

 週末にやろうと思ってたけど、せっかくの雨だから前倒し、荷物を開封。スクリーンの取り換え作業。

 日常の大半を過ごして居座っている環境はさほど広くないから、スクリーンは書棚の上でロール状に巻かれ、映像を観るさいは棚を覆い隠すようにして展開させる。

 その白いキャンバスを手で巻いて上部で固定するのは1分ほどのコトでしかないけど、2mほどの横幅のものを左右均一に巻き上げるにはチョイとした慣れと辛抱が要る。たいがい綺麗均一に巻けない……。

 

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 背丈が高いから毎度に脚立も要る。ま~、脚立は大げさなんで丸イスの上にのっかってスクリーンの上げ下げをする。

 まったくもって難儀するという次第には遠いけども、これが日々、映画を観るたびの一仕事となると……、面倒になる。堆積して苦々しい味になる。

 だから、映像を眺め終えてもスクリーンを展開したままにすることも多くなる。

 しかしそうすると書棚にアクセス出来ない……

 

 という次第で、ワンタッチ自動で巻き上がってくれるスプリング・タイプに換えた。

 スクリーン・サイズもちょっとだけ小さくし、72インチ。

 丸イスの上にのらなくていい。ガレージの金属シャッターの開閉時に似たガラガラガラ~ッな音が可笑しいけども、勢いよくほぼ瞬時で左右均一に巻き上がってくれる。

 なによりこれで、本の取り出しが容易になった。楽勝かつ効果甚大。

 

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                      新旧のスクリーン

 

 きっと人生とは、日常の小さいな不都合をプチプチ潰しては改修する、その繰り返しを言うのだと大袈裟に納得しぃ~しぃ~、スプリング機能の動作確認をと何度か上げ下げさせし、スクリーンとしての簾(すだれ)のことをチラリ思った。

 その昔、天皇は閲見の者に向けては必ず御簾(みす)を隔てて対面した。

 茅や竹を編んだものだったり薄い布であったりと材質あれこれ。多くは黄色がかった着色がなされていたらしいが、これは皇室の菊色の連想か?

 上げ下げには御簾(ぎょれん)という専門の係の人がいて、ロールカーテンのようにチェーンがあるワケはなく、まして当然、電動やらスプリングはない。

 面倒なご対面というしかないけど、御簾というスクリーンが「向こうとコチラ」の結界として意識され、身分の違いを具象化するにはなかなか良い装置ではあったろう。

 灯りがある側はスダレ越しにその姿が見え、ない側は見えない。たいがい、平伏している側が明るくされ、天皇側からはその姿が見えるも、ひれ伏した側からはスダレが見えるきりで座した天皇は見えない。

 スクリーンというのは、それを意識すると、なるほど不思議な装置じゃ~ある。

 

 数年前、中国銀行本店前広場での『ちゅうぎんまえジャズナイト』にプロジェクター投影を導入することになり、どのようなスクリーンがもっとも低予算かつ効率よく綺麗に映し出せるかを検討のために、Kurozumi君の事務所にメイン・メンバーが集まって、いろいろテストしたことがある。

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 市販のスクリーンやら農業用の透明な大型ビニールシートやらやらに前年度のビデオ映像を流して試し、イチバンに安くて綺麗に映ったトレーシング・ペーパーでの上映を決定したのだったけど、半透明だから、スクリーンの反対側にも映ってるワケで、当然にそれは像の左右が反転している。

 さほど大きな意味はないけど、妙におもしろい光景だったから印象深かった。

 画像を投影すれば半透明なモノが半透明ではない映像として現出し、投影する側からは反転映像と共にそれを眺めてる人物たちも見えるという、その「2重のヴィジュアル」がおもしろかった……

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    2017年9月30日。中国銀行本店前広場でのトレーシングペーパー・スクリーン(右)

    ライブステージは中央の奥・立ち見黒山の人だかり。今年も9月28日(土曜)にやります。

 かつてジュール・ヴェルヌは『カルパチアの城』で、映像の醍醐味をまさにマジック的機械仕掛けとして提示し3D映像の登場を予見していたけど、実体がないのに実体のように見えるという不思議の面白さに彼は既に気づいていたのだろう。

 いや正しくは、面白さと同時に、その装置(スクリーンという単語はまだないにしろ)が結果としてもたらすデッカイ哀しみを予兆していたのだろう。

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 そのヴェルヌをいま現在の世の中に連れて来ちゃったら、彼はCGあたりまえの映像の氾濫に、驚くというよりも、たぶんあきれて閉口し、憮然とした顔になるような気がしていけない。

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 それは彼のごく初期の作『20世紀のパリ』で描いた暗い未来、科学技術が人間本来の姿を失わせる元凶にもなるというペシミスティックな気分をただ裏打ちしてしまうだけかもしれない。

『カルパチアの城』で彼が、映像の中にしか存在しない女をヒロインにすることで、それに触れられない男のもどかしい悲しみを暗示させたように、スクリーンという投影装置は、どこかはかなく、近くて遠いものを意識させてくれる。

 

 ま~ま~、てなコト書いて秘めやかな暗鬱に浸ってるワケじゃない。装置一新で逆にささやかに昂揚している次第。ヴェルヌ原作の『悪魔の発明』をまた観ましょうかの。で、観終えたらワンタッチでスクリーンが巻かれてくのを、早く眺めたかったり……。

 ということは、いっそピョンピョン跳ねるスプリング効果……、『霊幻道士』がいいか。

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             何度観ても感嘆の、カレル・ゼイマンの『悪魔の発明

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                バカだね、買ってきちゃった、よ。

 

チョンドリーノとイチジク

 よそ様の庭のイチジクは知らないけれど、うちのイチジクは今年やたらに実ってる。昨年の5~6倍はあろうか……

 それらがこの前の台風の強風に大いに煽られた後、なにやら急速に熟し出し、連日、2つやら4つやらを収穫するという有り様。

 でかい実で、けっこう甘い。

 

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 いわゆる、「なりどし」というコトになるんだろうけど、台風が影響を与えたような気がしていけない。

 秋の松茸は、夏の終わり頃だかに地震があると、収穫量が増えるらしい。大地の揺れが、松茸生育の土壌のカンフル剤みたいなアンバイなのだろう。

 イチジクの熟成も、強い風が刺激になったんじゃ~なかろうか? 葉も枝もかなりこっぴどく揺さぶられていたもんな。それが刺激になっての実りの増量という感じがしていけない。

 1つの枝に2粒ついていたら、いつもなら片方は実って他方は成育が悪かったのだけど、こたびは両方がニッコリ笑って口開けるという次第。

 強張った肩の筋肉がマッサージで揉みほぐされて血行がケッコ~になるように、揺さぶられつつ雨にうたれたのが結果としての実り豊かにつながった……、そうであるなら、ことイチジクに関していえば、台風によるでっかい恵みと思わなきゃいけない。

 

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                台風の風に揺さぶられるイチジク

f:id:yoshibey0219:20190824175312j:plain                     台風去って2日め ↑
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                   4日めの朝の実り ↑

 

 しかし一方で、独特な甘い匂いにアリが寄ってくるんだ。

 かなり高い部分に実ったところまで這い上がる。

 地面から幹を登り、枝を登りと、アリの身の丈をヒトのそれに換算すると、およそ5~6Kmを移動し、標高およそ1000mくらいな高さにまで上がってるワケで、ニンゲン感覚でいえば、

「そんなんアリ?」

 な、大冒険めいた壮挙に近い。

 むろん、褒めているワケでなく、アリを養うためにイチジクを植えてるワケでないから、迷惑だ、アリがたくない。

 地上に幾らでも食料となるモノが落っこちてるでしょうに……、好んで長距離移動かつ高所にまでやって来る、その熱意に敬意をおぼえはしても、邪険に払い除けてしまうのだった。

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 なにより迷惑至極は実の中に入って甘味を堪能してるアリどもだ。イチジクの実を割ってはじめて、

「アリっ!」

 こちらが仰天するほどの数、2030匹くらいがワンサカたかって黒山のヒトだァ~リだと、もうイケネ~。その実は破棄するっきゃ~なくなるんで、烈火ヒンシュクもの。

 かといって腹立ちまぎれに実を熱湯にチャポンで、「アリマ~温泉」なんて~ことをヤッちゃうと、蟻地獄を見るだけのジェノサイド、報復連鎖の昨今のアレコレと変わらないワケで、アリとキリギリスが共存しにくいのとご同様、むずかしいですなァ、アリとヒトの関係も。

 

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 小学校の低学年頃だかに『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』というのを読んで、なにやらアリに好感したり、シャツの裾がちょこっといつも出ちゃってる主人公に自分を重ねてみたりして、気づくと今もってそのチョンドリーノという単語だけはアタマの中に焼き付いているというケッタイなことになっていたんだけど、久々に本を探し出し、拾い読んでみるに、それは主人公の名ではなく、破けたズボンからシャツがシッポみたいにのぞいている状態をさす単語なのだった。

 

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             『世界童話文学全集10-南欧童話集』(講談社

 

 主人公ジジーノはそんな破けたズボンがチョンドリーノ状態をもたらすコトを気にし、たえず羞恥をおぼえ、学校生活が疎ましい。嫌でたまんない。

「アリは年がら年じゅう、ぎょうれつばかりして、朝からばんまで、さんぽのほかはなにもしないんだもの」

 アリになる願望を口にし、ちょっとした魔法がかかってアリの卵になっちまう。

 そこからアリ生活を余儀なくされ、大きなミミズの死骸を仲間と引いたり押したりし、アリ生活がどういうものかを学習しはじめる。

 

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 『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』(北イタリアの作家バンバ(1860-1920)の作品。バンパと書かれてたりも。この挿し絵は講談社の童話全集10より。

 

 やがて赤アリとの戦争に巻き込まれ、総司令官となって戦い、ついには皇帝チョンドリーノ1世になるところまでいって横柄傲慢にもなったけど、さらなる戦いに破れて戦争裁判にかけられ、足をひっこ抜かれつつの処刑の場にあらわれたスズメバチにさらに命を狙われるテンヤワンヤ。

 けどもハチの体色の美しさに惚れたりして、なんだか友達になり、さらにアレコレあって、大事な友や育ててくれたおばさん(アリの)の死を経験しつつ、アリとして生きてる自身に誇らしさをおぼえつつも人間であった頃の記憶を頼りに”実家”に近寄ってみようと思ったり……、というようなけっこう長いお話なのだった。

 

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                  講談社版のカラー口絵

 一読、アリはアリでアリの生活がありという大事なポイントを再認識されられる仕掛けになっている。

 ジジーノが人間に戻るワケではない話のとじ方に感慨させられもする。

 老いて読むべきは、このような童話かな? ともチラリ思ったりもする。

 ただ『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』の場合は、その作家名を含め忘れられつつあって、残念なことに今は版が重ねられていないようだ。

 殺された仲間への言及で、

「いまごろ、みんなは、おなかの中で、とけちゃっているでしょう」

 とか、赤アリの部隊に捕らわれたジジーノ君が真ん中の足2本を引っこ抜かれたりとかの描写に、

「子供には刺激が強すぎ」

 の配慮あってのコトなのか、状況を知らないけれど、もしそうであるなら、バカげてらぁ。

 良書を、”大人の勝手な思い込みと配慮”で駆逐しちゃ~いかん。

 上記の通り、ジジー(チョンドリーノ1世)は人間であった頃の家に戻ってみようとするところで物語が閉じられ、『ピノキオ』みたいなハッピーエンドをまのあたりに出来ない構造になっている。

 そこがこの童話の肝心な奥行きあるところだと思え、余計に、今、日本では出版されないコトの背景を考えると哀しいもどかしさをおぼえる。

 チョンドリーノという単語がボクのあたまに刻まれている理由も、良い物語を子供の時に読んだ……、その輝きが衰えぬままにあたまの中にあって、いわば夜道の向こうに1つ灯っている、放射性の夜光塗料を塗布したような道しるべとなっているワケだ。

 

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  集英社が出していたバージョン。古書店で1000円くらいで入手出来るかな? ボクは持っていない。絵がいささかメルヘンチックか……?

 

 しかし、台風 → イチジク → アリ → 昔読んだ童話 → 読み返してアッ。こういう連鎖って面白いね~。概ねは結合しないであろう諸々が線で結ばれ化学反応を起こして1枚の透明な板になっちゃったみたいなところが、お・も・し・ろ・あ・り。

 

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      アリになったジジーノは相変わらずシッポのところがチョンドリーノ。講談社版より。

ファラオの食卓

 愛すべき親類から、らっきょう漬けが届く。

 畑で栽培し、収穫し、自ら漬け込んで3年が経過したもの。チョイと大量。

 過日に会ったさい、

「らっきょう、ない?」

 期待もせずに問うてみるに、

「あるあるある」

 の三拍子。毎年作るゆえ消費が追いつかないとの事で、それでチョイ大量。

 

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 フタをあけるや、いかにもな、らっきょうの匂い。唐芥子を浮かせた甘酢に浸けて3年。いささか濃厚な匂いに一瞬たじろぐ。

 市販のらっきょう漬けはここまでは匂わない。

 味も濃い。唐芥子が味を後押しする。ピリ辛という次第でなく、らっきょうの特性としての風味を後ろから突っ張ってプッシュしてる感じ。

 市販品なら12粒食べてもまだ食べられる……、というアンバイだけど、この手作り3年は、6粒食べればもうたっぷりな濃ゆい感触。

 しかし、らっきょう魔力というか、魅惑というか、数日食べるうち、その昔にゴダイゴが歌った「モンキー・マジック」を替え歌にしちゃったような、

「ラッキョ・マ~ジック ♪」

 どんどん舌がこの濃密に慣れてくるのは不思議。

 1415歳の少年だった頃の自分が、今のこのらっきょうに淫してるような姿を見たなら、

「うっそ~~!」

 さぞやたまげて自己嫌悪しちゃうのじゃなかろうか……

 変化変貌とは、ま~、そんなもんだ。

 

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                         猫はらっきょう食べるとは思わないけど……

 

 吉村作治の『ファラオの食卓 -古代エジプトの食物語小学館では、ニラ、タマネギ、ニンニクが登場する。

 およそ5000年前の古王国時代(盛んにピラミッドが造られていた頃)からエジプトでは馴染みの野菜たち。栽培されたタマネギとニンニクは、労働者に配給されてもいたようだ。神殿の新造工事で石はこびや日干し煉瓦を積み上げたりした後、何個かづつ支給されたりしたんだろう。

 既に貴金属による貨幣は存在するが、一方で物々交換の「流通」も大きく、数ヶ月の保存が可能なタマネギは、むろん食材として最終的には誰かが食べているわけだけど、その「流通」の1つの柱となる存在、”食べられる通貨”でもあった。

 

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 タマネギは中央アジアが原産だから、はるか古代、何らかの方法でエジプトにもたらされて定着したと思われる。

 パンにビール、刻んだタマネギやトマトやキュウリに酢やらライムを搾ってかけるサラダというのが定番だ。

 つぶした鶏肉にモロヘイヤとニンニクのみじん切りが入ったチキンスープなんぞは、ちょっとしたご馳走だ。

 

 ちなみに、まったく意外なことにタマネギが日本に入ってきたのは江戸時代で、それも鑑賞用用途でしかなかった。食用となったのはな~んと明治4年(1878)に札幌で栽培され出してからというから、古代エジプトに遅れるコトはなはだしい。メチャンコに歴史が浅いんだね~。だから坂本龍馬はシャモは喰ってもタマネギは知らないまま他界したコトになるね。残念ですなぁ。

 だから、日本では圧倒的に、らっきょうの方が歴史が古い。

 

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石碑。ネフェルティアベト王女の食事(テーブルの上に並んでいるのは菓子パン) ギザ墓地出土。

ヒョウ柄のスパッツ風衣装が大阪のオバサンっぽくパンチがきいてるけど、紀元前2500年頃の王女。

 

 その古代エジプトでは、重要な食料であると同時にタマネギは強力な魔力がある野菜という認識でもあった。

 ラムセス4世のミイラではタマネギは眼のくぼみに詰め込まれ、包帯の間や脇の下の辺りに置かれたりして、この野菜が死者に活力をあたえるものであると信じられていた。

 人々の日常生活においても、たとえば何かの誓いをたてるさいには、タマネギとニラを捧げ、ラムセス3世はナイルの神に対して1万2712篭ものタマネギを捧げたと碑文に残る。

 けれど一方で、神官の一部ではタマネギやニラなどの匂いの強い植物を忌避する傾向が高かった。詳細は省くけどセト神にまつわる伝えともいう。(セトは悪神であり、性欲を司る神でもあるそうな)

 吉村作治は「タマネギには2面性があった」と書いている。統治者のファラオが推奨しようとも神官の一部は密かに断固にタマネギを拒絶していたのだろう。

 同様にニラも神官たちは嫌った。ニラもまた日常的に生産されていながら、宗教上の理由でもって避けるヒトは避けてたようだ。

 

 やがてファラオの時代が過ぎ、エジプトもイスラム化していく。

 ムハンマドの教えでは、祈りの前にニンニクやタマネギを食べるのは禁じられている。

 それがかつての神官たちの頑なさと合致し、匂いの強いこれら食料が遠のけられていく。

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 15世紀のワラキア公国(現在のルーマニアに実在したヴラド3世は、オスマン帝国と対立し、攻め寄せたオスマン(トルコ兵)を串刺しにして晒しちゃったりしたから、串刺し公の異名をつけられ、やがてブラム・ストーカーの『ドラキュラ』のモデルになるけど、ドラキュラがニンニクを嫌うのは、イスラム教のオスマンがニンニクを嫌っていたからに過ぎない。

 ヴラド3世はオスマンと対峙している頃はイスラム教徒、後年にキリスト教徒になる。その辺りの消息が投影されたということだろう。

 

 仏教も匂いの強いタマネギ・ニラ・ラッキョウ・ニンニク・ネギ、この5品を嫌って禁葷食(きんくんしょく)といってたけど、なんだか同じだね~。

 だいたい同じニュアンスな感じ。匂いが強かったり風味が強いものは、すなわち「淫するもの」に結びつけられていたんだね、かつては……

 植物たちにとっては、不幸としかいいようがない。

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 古代エジプトでのセト神は好物がレタス(エジプトが原産)だったそうで、茎から出る白い液体が精液の素になるといわれ、信じられ、真面目な神官以外の一般ピープル男性は媚薬や勢力増強剤として大いに食べていたというから、これまた何やら、おかしくもある。苦笑せざるをえないけども、ま~、信じちゃえば、そういうコトになるんだねぇ。1トン食べたって、茶柱さえ立たないんですけどねぇレタスじゃぁ。

 これも意外だけど、今はニンニクといえばある種の強壮効果有りということになってるワケですが~ぁ、古代のエジプトじゃそんな効果は誰も期待しない、思ったコトもない。

 ニンニクはノドに効いて声が良くなるとして蜂蜜なんかと一緒に食べていたんだってさ。

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 したがってかつての古王国時代の宮廷音楽家(女性が多かったそうです)にボーカル担当がいるなら、きっとニンニク臭かっただろう。けども、それは嫌な匂いとはとらえられず、音楽家の匂いとして好感的に嗅がれたかもしれない。糸をひく納豆のあの風味が一部のヒトにはウッエ~~な臭気だけども、一部のヒトには蕩けるほどに美味い匂いと感じられるみたいに。

 らっきょうも、そんな位置づけかしら?

 

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 ちなみに、みなもと太郎描くところの、ややらっきょう顔の小早川秀秋の絵が大好きだったりします。右上のハナたれね。ナス顔というヒトもあるようだけどキャラクターとしての秀秋はらっきょうがふさわしいよう思えます。小粒で、いくら皮をむいても実はないぞよ、というところも。

 しかし、そういう存在に成り下がったとはいえ北政所(ネネ)には生涯忘れられないかわいい甥だったのでしょうよ。そうでなくば、高台寺・圓徳院の床の間に秀吉の画像と共に幼少時の秀秋像をかけて、晩年、いつも眺めていたりはしなかったでしょうし。

 

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              絹本着色小早川秀秋像 高台寺所蔵 重要文化財

 

 彼女が秀秋の幼年時代の面影を投影させた絵を描かせたために、後年、秀秋の画像としてはこれしかないから、ボンヤリ顔イメージが定着してしまったとも思えるし、この辺りの痛し痒しの沁みっぷりにも興を抱く。ま~、らっきょうに直接に関係ないけど。

 数多にとっては関ヶ原の裏切り者であり、30を前にしてのアルコール依存による狂死のような哀れな青年であっても、ネネのみは違う感想を持っていたであろうことに、ちょっとボクはらっきょうを重ねたいのだ。

 

 

お盆の蚊

 12日。朝の3時過ぎ、外に出て夜空を眺める。

 ペルセウルス座流星雨。

 ふとよそ見をした瞬間に、天井近くに取り付けて忘れていた画鋲が1つ抜け落ちたみたいな、

「んっ?」

 動いたような気配が何度かあったけど、クッキリ見えたのは僅かに3つ。

 うち1つはそこそこの尾をひいて、北寄りの空から南西に流れた。

 流星は大気に触れて熱っせられて見えるワケだから、距離としてはおよそ100~150Kmほど上空の出来事、瞬時の移動は、飛行機が移動していく様子を眺めるのとはケタが違う。

 その高速っぷりにただ感嘆するしかなく、願い事をたくすような時間はないけど、ま~、そこがおもしろくもある。

 外にいたのは15分ほどだったが、4ヶ所、蚊にくわれる。

 

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 お盆界隈の小庭。

 朝にしか咲かない花。写真のこれは10時半頃にはもう店じまいでしぼみかける。

 こういうのは植物園向きではない。来園者が来る頃には閉じちゃうから白昼はつまらない。けどま~、うちの小庭は誰かに見せようとしてるワケでないから構や~しない。夕刻になったら、また水をやり、朝にひっそり咲くたすけとしよう。

 

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 だいたいにおいて庭作業というのは朝か夕にヤルもんだ。

 これが蚊の活動時間に重なるからヤッカイだ。特に夕刻が。

 虫よけを手足にスプレーしても、蚊めらは実に巧妙狡猾、半袖シャツと腕の端境あたりで仕事する。しかもまったく手際がいい。

 複数個所をたいがいやられ、

「痒ィィィ」

 いらつかせてくれる。

 ボリボリ掻くと汗に沁み、それでいっそう、

「ぁぁ、もう~ッ」 

 苛立たせてくれる。

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 だいぶんと前、開高健は暑熱のアマゾン川の粘っこい空気感に満ちた『オーパ!』でもってそういった虫との格闘を克明に描き込み、笑わされるやら同情するやらだったけど、鮮烈でもあった。

 一斉蜂起のように寄ってたかり執拗にからんで、強烈な痒みを置き土産にするけれど、一定時間が来るとサッと引き揚げる、その店じまいの潔さに開高ともどもに感嘆させられたもんだった。

 似通う事を椎名誠も『十五少年漂流記への旅』で書いていた。

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 椎名は蚊の”名所”として、ブラジルとシベリアとアラスカをあげて、しかしそれ以上に強烈なのがいるカナダのベーカレイクから40キロほど離れた川沿いのツンドラ地帯を持ち出していた。

 そのあたりではスーパーマーケットで「蚊よけ服」というスペーススーツみたいな大げさなのを普通に売っていて、当初はジョークかと思ったけど、キャンプをはった場所にて、椎名いわく「5万匹」のそれが「陰険に黙ったまま煙のように濃厚にヒトに群がって」、「蚊よけ服」のたとえば顔面部分のファスナーをちょっと下ろした瞬間にはもう数十の蚊が服の中に浸透し、刺しに刺しまくって顔面が腫れ上がった様相を書いていて、いささか空恐ろしくさせられた。

 

 うちの小さな庭で味わうのは、開高や椎名が体験した1/1000程度の痛苦じゃあろうけど、たとえ一刺しであろうと、蚊は蚊だ、痛苦は痛苦で掻痒はそ~よ~、痒いったらナイんだった。

 

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 トム・ハンクスのほぼ独り芝居だった『キャスト・アウェイ』は無人島での生活っぷりを堪能させてくれ、木材をこすり合わせるだけでは火はおこせないコトをリアルに見せてくれたけど、ただの1匹の虫も出さず描かれずで羽根音もなく、チョット拍子抜けさせられた。

 メーキング映像でロバート・ゼメキス監督が語るに、意識的に虫の存在を消去し、それによって主人公の孤独を際立たせたというコトらしいけど、どうなんだろうな? むしろ虫に悩まされるのを描いた方がよかったよう思えてしかたない。

 たぶん製作時には、虫の存在の有無をどうするか、ケンケンガクガク意見がぶつかったに違いない。

 蚊はヤッカイだけど、あれこれ虫が生息しているのは、ファーブルを持ち出すまでもなく、自然の必然、生命サイクルの重要な役者なのだから、そこを消去したのは間違った選択だったよう思う。どう自然の中で生き延びるかをテーマにした以上、これは役者配分を間違えたといっていい。

 墜落して流れ着いたトム・ハンクス無人島にとってはエイリアン、空から落ちてきた侵略者であって、むしろ、その外来のニンゲンを駆除すべく自然がどう振る舞おうとするかを描き足せば、より面白くなったような気がしないではないが、記録映画じゃなく娯楽映画なんだから、煎じ詰めてもしゃ~ない。かえってまずくなる可能性が高いや。

 

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 お盆。

 毎度のことながら坊さんが来て座り、ちょいと拝んで茶をすすり、次の檀家にゴ~。

 毎度のことながら坊さんはピンポ~ン♪とベルを鳴らすものの、玄関先でこちらを待ったりしない。迎えに出る前にもう草履を脱いであがりこみ、応接間から仏間へと移動中。

 流星めいた高速にいつも苦笑させられる。

 これはきっと、こちらが供出のお布施の小額っぷりによる、いわゆる、「Time is Money」の原理かもとも思われるけど、坊さんに聞くワケにもいかないし、聞くほどのものでもあるまい。慣れ親しんだ慣習といってしまえば、いい。

 

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 墓参り前にホームセンターに寄って、小粒な玉砂利を購入。

 それを墓の周辺にまく。

 雨に流されたり、風化で小さな砕片になったりと、こういう小さい石の類いは気付くと数が減っている。10年くらいの単位で眺めれば20~30パーセントほどは減ってるような感触。

 小石が減るとそこに雑草が根をおろし、小さな枝葉を顔出しさせる。

 葉が出てくるさい、小石は微かながら移動もさせられる。

 だから微速度カメラみたいなので墓場を数ヶ月監視すれば、墓石周辺の土がモゾモゾ動くといった映像が撮れるんじゃなかろうか。

 

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 お隣りのお墓は除草剤が巻かれて草のクの字もないが、こちらは除草剤まかない主義。

 小石をまいても草は下から出てくるんだけど、ま~、そこがいいのさ。除草剤は「草葉の陰」さえ根絶やしだからね、ありがたくないのさ。

 と、それにしてもやたらに蒸し暑かったお墓。台風接近によるフェーン現象だろなぁ。午後より雨。

 

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 今日15日は敗戦記念日。ただいま台風は四国の端っこを通過中か? 今はそこそこの風と雨、電線がうなってる。午後からしばらくは荒れるかな。

 終日、部屋に垂れ籠めるっきゃ~ない。

 うちから100mほどのところをに鉄路があるけど、山陽新幹線も在来線も運行休止。きっと庭の蚊も本日は営業休止だろうさ。飛行しづらい風だろうし、なによりヒトが庭に立ってくれないし。

 

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 15日午前10時10分に撮影。東からの風にイチヂクの葉が難儀中。フウセンカズラはあんがい良く耐えてる。