某日、馴染んだ場所での『古市福子朗読の午後』。
毎回のことながら満席。(2日連続公演だけど両日とも満席なんだからたいしたもんだ)
会場入りすると既に心優しき我が仲間が席を確保してくれていた上に、集った仲間と同数の団扇まで用意してくれてた。
気がきいてらぁ〜、いいなぁ。 Thank you Toshi-chan & K-chan.
その団扇で顔をパタパタあおぎつつに開演。
古市の甲高い声、低い声、ドスある声、チャメな声、いつもながら高圧な電流が彼女の体内をめぐる。
こちらは座したままに眼を閉じたり開けてみたり。
朗読は耳がすべてじゃない。時に眼は同行者の、やはり聞き入っているらしき姿を盗み見たりもして、その情景を含めての”体験”がすなわち朗読の場。
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手塚治虫が産み出した「ヒゲ親父」のような大人に、子供の頃にあこがれ、あんな親父になりたいなっ……、とはチィ~っとも思ったことはない。
そういう発想すらなかった。
『鉄腕アトム』やらその他作品で頻繁に登場するから、ごくごく親しいキャラクターには違いなかったけど、「ヒゲ親父」はどこまでいっても「ヒゲ親父」。
学校の先生だったり、探偵であったり、綺麗な少女の貧しい父だったりする。時にピストルを持ち出しブッ放したりもし、悪人をチカラいっぱいブン殴って怒りを見せたりする。
要は、”チャンと独立した大人”が「ヒゲ親父」なのだった。
だからこの人物には常にある種の尊敬が示された。例えば、アトムやメガネやシブガキがそうだ。常に叱られる側にメガネ達はいて、時に反撥はしても「ひげ親父」への尊敬は不変、大人の規範を示す存在であり続けてた。
生徒に議論させ、自身は沈黙して公正を保つヒゲ親父先生
上2枚は、鉄腕アトム「フランケンシュタイン」のヒトコマ サンコミックス版
けども近ごろは、こういう一途な正義漢を代弁する大人キャラクターはあんまりいないんじゃなかろうか?
そう思うと、「ヒゲ親父」は貴重だ。希少といっていいか……。
ステテコでちゃぶ台の前に座るのがよく似合って、これは昭和の香りとして愉しめるけど、だいたい、年齢を特定できないのもオモシロイ。
55歳? 60歳? 65歳?
よくは判らない。
ま~、そこも頼もしいのだ。例え68歳だと特定されたって、それにさほど意味はない。ちゃんとした大人として振る舞えているかが問われ、その問いに55も60も数字としての年齢は意味をなさないんだった。
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ここ数週は夕食毎にiPad でアマゾン・プライムを開き、『忍者ハットリくん』を眺めてる。
1981~87年の作品。1話7分。これが700話(!)近くある。
食事の合間に5話か6話が通り過ぎる。
弟のシンゾウ君、ライバルのケムマキ君と忍者ネコの影千代が良くって、とくに犬の属性をもったようなネコの影千代が良くって(犬の獅子丸は不要だな)、けっこ~それなりに楽しんだけど、しかし観続けていると欠点も見える。
1番にいけないのが、チャンとした大人が出てこないことだ。
ケンイチ君の両親は毎度出てくるけど、ほぼ子供の延長でしかなく、免許取り立てのママがケンイチ君らを乗せてドライブに出たものの坂道でパニックし、危ない状況のまま子供らを車内に残してサッサとどこかに逃げ出しては目も当てられない。ギャグマンガだからイイじゃんとは思わない。子供を危険状態に放置しちゃいけない。それをギャグと解しての脚本はすでに脚本に値いしない。
学校のコイケ先生は、生徒に嘲笑され、失敗を繰り返してはハットリ君に影で救われたりもするが、そもハットリ君は学校の生徒ではない。ある話では、先生の人気投票とかで、生徒を買収にかかったりする。
出前持ちのオジサンはいつも主人公たちと路上でぶつかり、おソバを路面にぶちまけるだけで弁償もされない。
夜店の金魚すくいのおじさんはハットリ君の忍術で無銭で金魚をねこそぎ奪われる。
……てなアンバイで、大人への尊厳なき描写が繰り返され、仕事に関しての敬意のなさも毎度のごとくで、眺めていると不快がプチプチ湧いてくる。
ハットリ君のやってることはケンイチ君にイタズラしたケムマキ君への仕返しに終始だし、子供による子供のための子供だけの閉じきった世界での、ケンイチ君我が侭の幇助をやってるハットリ君でしかなくって、あまりにつまらないから逆にそのつまらなさを味わうがために毎晩観ちゃうみたいな依存症めいた習慣性をおびてくるから、いっそ~キッカイだ。
こういう番組をみて育ったのが、たとえば、「戦争で島をとりかえす」みたいなバカ丸出しをいって議員職にしがみついてる若造らかと思うと空恐ろしい。
無論この見立ては短絡で根拠のない言いがかりだけど、仮に自分が子供の時にこれを毎週見ていたら、どう影響されただろうと危惧しないワケではない……、などと大昔のPTA会役員のような、視点を固定して錆びた価値観引っさげ批判ばっかりな、ヘンに頑強な親父気分になる……、のが困る。
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アマゾン・プライムでHBOのミニ・シリーズ『ジョン・アダムズ』。
全7話。ほぼ一気に観て、毎回を堪能、感嘆した。
アダムズは米国を独立国にした立役者の1人だけど、彼を一躍高名にした英国軍人の弁護裁判から、90歳という高齢でなくなるまでの半生が描かれ、眺めていると、
「あっ。ここにヒゲ親父がいる!」
そう呟かざるをえないシーンの連打だった。
もとよりジョン・アダムズ(ジョージ・ワシントンに次ぐ第2代大統領)を詳しくは知らなかったけど、討論に徹して政局を動かそうとする我慢と努力の深さには、正直、たまげるようなアンバイだった。
その政治的振る舞いの裏には雄弁の才を誇示したがるプライドがあり、葛藤があり、嘲笑、誹謗、中傷にさらされもする。
友情が裂け、猜疑があふれ、怒りが滲むこともある。
政治的存在であると同時に、夫であり父でもある。
揺れて、ぶれて、翻弄されつつも、しかししがみつくようにして毅然と振る舞おうとするアダムズ。日々、歯痛に苦しむアダムズ。それすら揶揄されるアダムズ。
建国後、フランスからの高圧に国内世論も議会もが戦争ムード一色に染まるも、その承認を拒否し続ける大統領としての彼は、側近が周辺の空気に負けて彼と意見を異にしだすと解任し、冷ややかな言葉を浴びせもする。
柔らかく炊いたポテトらしきのランチ・シーン。何気ないシーンだけどもこのアダムズ役ポール・ジアマッティの歯痛をこらえての食事描写は絶品。ほとんど口を閉ざして手前の人物と会話……。セデスもロキソニンもなく、我慢の上のガマンの腹話術的な会話が痛々しくも可笑しい。
6話7話では、次男の勘当、その死、長女の乳がん、その死、そしてやがて、最愛の妻を失う彼の慟哭が描かれる。
米国の映画では女性も男性も劇中で泣くというシーンはとても少ないのが特徴で、とくに女性を情緒的存在として描いてしまう邦画とはずいぶんに乖離しているけど、この6話7話にかぎっては、涙が画中にあふれて、これも少なからず驚いた。
極力に史実に基づいているらしくで、だからまだ麻酔もない時代なワケで、手術前の長女の恐怖(麻酔なしで、曲がった鋸のような道具で乳房を切除する)、別室で控えている父ジョンの苦悶に……、手に汗させられるようなアンバイでもあったし、歯科医療が進んでいない時代を反映させ、出演者の歯が女性も男性もひどく汚くメークされ、そこにも「あっ」と云わされたが、ともあれ一歩まちがえると退屈なTVシリーズとなる可能性も高かったであろう題材を、徹底してリアルに、かつアダムズという男を通じて描いたことで、退屈のタの字もなく、いっそ言い知れない緊張を伴って鑑賞できた。
建国50周年記念の絵(独立宣言の署名)が出来たさい、引退して久しい彼は議事堂に招待される。が、
「こんなシーンはない。歴史を捏造するな」
アダムズは、母国英国と戦争になるかもしれない恐怖と責任の重みにかられつつ署名したであろう50年前の自身と各州の議員を想起し(一同に会して署名したワケではない)、威風堂々ではない実の姿に改めておののきつつ、絵と現実の落差に感情を炸裂させる。罵倒に近い言葉で画家に怒りをぶちまける。
画家は画家として50年前の仔細を知らないが精いっぱいの努力作を産んでいるワケだけども、署名当事者のアダムズには、絵は文字通りの絵空事でしかない。
なので象徴的で印象深かった。建国50年で既に50年前のスガタカタチが再現できないことのもどかしさが伝わるし、さらに時代を経てのこのTVシリーズの製作者たち(トム・ハンクスも加わってる)も同じく抱えたであろう「過去再現」の難しさを、このシーンでチラリと内心を吐露してるようでもあって。
けど、また一方で、はるか後世になった今、この絵がパーフェクトな史実ではないにしろ、かつての独立の日7月4日の、”インデペンデンス・思い出し装置”として存分に機能しているというコトもチラホラ。
米国議会堂に今も壁面にかかっている本物。男子は皆カツラの時代。中央で腰に手をあてがってるのがアダムズ。
ともあれ、なにより、主役の「ヒゲ親父」っぷり、久しく聴かない父性というものを濃く感じさせられ、頷かされる点が多々あって喜ばしかった。
その父性に添って妻の愛と母性があり、情愛があり、友愛があり、消せない喜びと哀しみがある。気づくと骨太い大きなドラマを見たと感じいり、あらためて疼かされた。
こういう反応はめったに起きないけど、今、2度めを観てる。
舞台となる18世紀末のアメリカ、オランダ、フランスの景観描写が圧倒的に素晴らしくもあり、これはカメラの日系(?) Tak Fujimoto氏の大きな功績だろう。時に絵画的でもあって、主題から離れてただ風景を眺めているだけでも、何だか眼がよろこぶのだった。
第4話で熱気球が出てくる。
画中では何も説明がないけど、史実では、1783年の11月、ブローニュの森近くの城シャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から2人の貴族が乗った熱気球が人類史上初のフライトを行っている。
映画に登場の城といい気球の形と配色といい、まずそれだろう。
ジョン・アダムズがその場にいたのが、事実なのかどうかボクは知らない。
同年は大使としてパリに住まって、オランダとイギリスに数ヶ月単位で出かけるという状況だったようだから、大勢の群衆の中で、この番組が描写した通り、上昇する青色地にカラフルなペイントが施された気球をホントに見ていたのかも知れない。
それほど長いシーンではないけど、綱を外され自力で上がっていく気球と米国が勝ちえる独立という自由が象徴的にうまく演出されていて、好きな場面だ。
見上げるアダムズ
まったく見事な絵づくり……
えっと、ちなみにこの頃はルイ16世の時代、マリー・アントワネットは健在。革命で王政が転覆するのは、この熱気急飛行の6年後ということになる。その時は、ジョン・アダムズはジョージ・ワシントンを補佐する副大統領。処刑と米国は直に関係はないけども同じ時代の歯車の中の出来事というコトも……、再認識させられた。
気球が飛ぶ2年前、1781年にフランソワ・ユベール・ドルアイが描いたアントワネットの肖像画