イベント1つをクリアして

 大事なスタッフの1人がイベント数日前に自転車転倒。鎖骨が折れちゃうアクシデントがあってアタフタさせられ、当日はここ数年同様に雨が落ちる・落ちない…… でヤキモキ。

 28日の土曜。会場近く、天神町の朝。RSK山陽放送の新社屋建造現場の上空に暗雲たれこめて、さ~さ~今から降りますぞ、ってな感じ。

 

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 けどもしかし、昼前には眩い日差しが会場である中国銀行本店前広場に差し込んで、準備中のスタッフ達なにやら無意識で日陰へ移動。

「雨が降るはずなのに、何で~?」

 訝しむようなアンバイだった。(下写真:日差しで明暗クッキリ)

 

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 という次第で湿気は高いものの雨落ちず。

 『ちゅうぎんまえジャズナイト-2019』は大勢の方が来てくださった。

 傷の痛みでトホホ~っのkurozumi君は大事なポジションであったから、こちらもトホホ~っなのだったけど、手術で1日も早く癒えるのを待つばかり。自転車でコケちゃって大怪我はボクも数年前にやっちまってるからね、痛いの痛いの飛んでけ~なグッタリ気分はよく判る。

 ま~、彼の分も含め、当日はグァンバッタ頑張った。

 アレしてコレして、緊張したり、ほぐれたり、眉しかめたり、笑ったり。

 

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 恒例の楽しいスタッフ・ランチは、今回は「じゅんぺい」でなく、唐揚げがうまい「とも」。でもワガハイはトンカツ。

 長丁場のイベント運営なのでモリモリ食べておかねば身がもたないの……、というワケで隣りの美女は、竜田揚げに肉ジャガのミックス。

 「とも」はふりかけとゴハンはお代わり自由。ふりかけはきっと広島産の「ふりかけの友」だろう……。

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 開場17時半。開演18時半。

 ハヤちゃんこと司会の早田氏が開演を待つ観客席に向け、ラグビーW杯の日本チームが逆転勝ちの速報をMCした途端の「ウォ~ッ」てな大歓声と拍手で、18回目となった『ちゅうぎんまえジャズナイト』はいい空気に満たされてのスタートとなった。

 

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 中国銀行の屋根付きの広場はかなりの広さ。その広さを活かすべく、ステージと観客席、テントを設けての飲食ブースと、会場には2つの顔がある。その飲食ブース、パラソルシート席利用の観客に向け、スクリーン設置でライブを生中継予定であったものの、骨折で部門のリーダー不在、かつ予想がつなかい天気具合に翻弄され早い時間で実施を断念。

 これが痛恨の極みであるにはあったけど、ご来場の大勢の方々はきっと楽しんでくださったろう、思う。

 

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                  Abobe 2 photos by Y.Ohbayashi

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              カレー完売でニッコリのスタッフ(右端)

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                舞台袖からステージを見る早田氏


 終演は21時。いつもの通り、会場撤収の作業を終えた頃にはもう23時近い。

 毎回ボクを送迎してくれ、この日の前日は我が部屋の天井照明をLEDタイプのものに取り換えてくれた電気系アレコレが専門職な Kosakaちゃんと「長崎ちゃんめん」で遅い夕食。

 生ビールで餃子をたいらげてる頃には、早くも、肩、首、腰、ふくらはぎ、アチャコチャが痛みを訴えだしてらぁ。

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 翌日サンデー。肩重く、首ギシギシ。くたびれのピークが到来中。

 ランチ用に安いステーキ肉買って来て、ちょいとスタミナ補強の1人飯……。

 で、夕刻まで昼寝。"急"な後のこの怠惰めいた"緩"が大事ね。昨日のせわしなさを追想しつつ午後の甘睡に蕩ける。

 

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 OJFイベントの次ステージは「下石井3Days」の中日、10月13日の下石井公園特設ステージ

 SHIHO(元フライド・プライドとジャズオーケストラ、名渡山遼、武田真治……、という強力布陣。おそらくはこの3日間連続催しでの最大規模の観客動員になるのじゃなかろうか。

 良い天気でありますよう。

週末は『ちゅうぎんまえジャズナイト2019』

 週末土曜の中国銀行本店前ひろばでの『ちゅうぎんまえジャズナイト2019』まで、あと数日。

 昨日は本店界隈の主要な箇所箇所に、市の文化担当者と一緒に挨拶廻り(街の中心部での野外ライブなのでね)。毎年のことで別段にたいした大仕事でもなんでもないけど、先週のスタッフ・ミーティング同様、いわば同じコトを繰り返さなきゃいけないから、面倒といえば面倒。

 とはいえ、ミーティングもなし、挨拶もなしで、イベントはありえないワケで、ま~、そうやってジワジワと下準備を積み重ねるのが裏方の仕事。必需ワーク。ヒョイヒョイこなして、

「もう幾つ寝ると~」

 本番の日を待つっきゃ~ない。

 と、それにしても良いスタッフ、良き仲間達。皆なそれぞれが自身の持ち場をわきまえ、それぞれが裏方に徹して粛々に事をすすめてる。なので、ミーティングも一応の確認がメインとなる。誰かが突出で引っ張ってるわけでなく、めいめいがそのポジションでコマを進めてる。気持ちいい。

 

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 OJF事務所の入るビルの一角、ポリゴナムが自生(誰かが植えたとは思えない)し、壁を登ろうとしてる。ポリゴナムは生えた場所から葉脈を下らせていくのが性質、我が宅で繁ったのも這い下ってるから、上昇はチョイ珍しい。

 コンクリートだらけの場所ゆえ、上に伸びるしかなかったか? 他の登るタイプの植物とからみ、それに引っ張りあげられてるのかしら? 

 ともあれ生きようとする生命力が感じられ、密かにエール。 

 

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 先日に会合したY先生から頂戴の、資料に眼を通す。

 年末1215日(日曜)に開催確定した講演のための資料だけど、細かな文字ビッシリ。あんまり眼が悦ばない。

 くわえて、文字がススス~っと読めるというか入って来る時と、そうでない時があって、今は後者のよう。

 そこを払拭しようと、サーシャ・アイゼンバーグの『スシ エコノミー』、野口勲の『タネが危ない』、中村修造監修の『黄金文化と茶の湯』、Eっちゃんから借りてるのやらをハシゴし、拾い読んでは散漫をうっちゃろうとするんだけど、油がきれた蝶番みたいにギクシャク。何かが障害して読書モードのスイッチが入りきらないんだね。いささか心外なガックリな事があって、その辺りの雲行きが、ていたらくな……、秋雨前線と化したか。

 うざったいような、モワ~ンとした感じのままなんで、しゃ~ない、本も資料も閉じてしまう。

 

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 うざったいといえば……、ついこの前、ブラッド・ピットが、自らプロデュース兼主演した映画『アド・アトラス』の宣伝に東京にやって来てたね。

     情報源はココ 

 宇宙飛行士のSF物語ゆえ、お台場の日本科学未来館毛利衛さん(館長。同館での『サンダーバード展』ではずいぶんはりきってくれた)山崎直子さんを交えてのトーク・ショーが行われたようだけど、何で……、わざわざ作業服を着せるんだろう? 既に引退して久しい元宇宙飛行士の山崎さんにね。

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 JAXA(ジャクサ・日本宇宙航空研究開発機構が広報活動を兼ねたいのは判るけども、ワッペンペタペタ飛行士の作業服着せて、いかにもコレは宇宙飛行士でございます~、という『カタチ』を見せようとする魂胆が、うざったい。

 退職して既に7年、今はどこかの美術大学の教授職のヒトに、わざわざ作業服を着せるのって、山崎直子という個人を尊重してないよねっ。

 

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 上の写真は2014年の何かの記事からの写真引用だけど、場所は首相官邸。ここでもまた、若田さんにわざわざに作業服を着せて出向させている。

 スーツでもポロシャツでもいいはずだし、実際、本場NASAでさえ、宇宙飛行士のインタビューとかじゃ”制服規制”がない。ワールド・ワイドで全世界から注目だったアポロ11号の打ち上げ前のオフィシャルなTV出演でも、3人は私服だ。

 中央のアームストロングも右のコリンズもジーンズのラフ。普段の本人のスタイルだ。

 

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「着せなきゃ飛行士として認識できない」

 とか、

「それらしい絵になるから」

 なんて~押し付けが、邪ッ臭さ~。とどのつまり、キャラクターとしての人間を信用せず、衣装に潜む固有性にしがみついてんだね。

 青いのを着せなくとも、山崎さん、若田さん、素晴らしい仕事をした人物だと判ってますって。

 

 ま〜、そんなコト書きつつ週末土曜は『ちゅうぎんまえジャズナイト2019』。

 私服でなく、OJFロゴの入った"作業服"、スタッフTシャツで皆さんをお迎えでごんす。

 予算がないんで昨年と同じシャツですがぁ、ステージは予算費やし充実です。楽しんでいだたけることを期待して、準備中。

 よ・ろ・し・く・お・ね・が・い・し・ま・す

 

 ※ 上記のイベントの問い合わせ

=おかやま国際音楽際実行委員会事務局=
TEL.086-232-7811

 

 

ホドロフスキーのDUNE

 DVDを買おうか買うまいか、どうしようかと放置してる合間にアマゾン・プライムで配信されたドキュメンタリー『ホドロフスキーDUNE』。

 概ね内容は承知のつもりだったけど、なるほどなぁ、そうだったのね、合点したり納得したりであった。

 デヴイッド・リンチの『DUNE1984より前に、怪作というか傑作というかいささか置き所を考える『エル・トポ』の監督アレハンドロ・ホドロフスキーが、1975年、同作品の映画化を試み、パリに最高のスタッフを集結させた上でハリウッドの映画会社に企画を持ち込んだものの、却下される。

 この顛末とその後を描いたドキュメンタリー。

 

 企画が没にならなきゃ、『エイリアン』のあのデザインと世界観もまた違ったものになっていたろうと想うと、災い転じて……、という感も浮く。

 けどまた一方、サルバドール・ダリオーソン・ウェルズミック・ジャガーデヴィッド・キャラダインなどなど、当時の常識では考えられない配役をし、しかも、既に各人と交渉済みというアンバイで映画会社に企画を持ち込んで、コロンビアやユナイトやMGMやディズニー、といった大手の映画会社に衝撃をあたえ、皆一様にビックリで口あけて唖然という経緯も、よ~くわかった。

 

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             アレハンドロ・ホドロフスキー大いに語る

 ホドロフスキーは集まったエキスパート達と練りに練って、厚さが20センチを越える設定デザインも含めた絵コンテを作る。

 すでに配役も決めた上での絵コンテ(絵はメビウスだから、後はそのコンテに従って実際に撮影すればいい、というところまで作り込んである。音楽はピンク・フロイドが作ることになっていた。

 それを複数印刷し、何社だかの映画会社に持ってったわけだ。

 

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    圧倒的にぶあつい絵コンテとホドロフスキー。本の状態で現存するのは2部だけらしい。

 けども却下だ、どこの映画会社も腰を上げず、企画は没になる。

 3部作か4部作に分けたとしても、上映時間が10時間を越えるし、当時、SF映画というものはマトモに俎上にあげてもらえず、ティーンエイジ向け低予算という括りで語られることが多かったし、何より、『ベン・ハー』のような純然な聖書物語の副読本のようなあんばいでなく、異教徒的立ち位置による宗教色が感じ取られ、しかもドラッグ的な物質が核となるという次第が、難色の色を濃くした。カルト作風なホドロフスキーがそれを監督するならいっそうダメというニュアンスが濃かった。

 ほぼ同じ1975年頃に、ルーカスがやっと20世紀FOXの出資を得て『スターウォーズ』を作りはじめ、公開されてメガヒットとなるのは1977年だ。それで映画界の流れが大きく変わるけれど、ホドロフスキーはチョイと早すぎた。

 彼が哀しい頓挫を味わっているうちに、やがて1984年、映画屋ディノ・デ・ラウレンティスのプロデュースによりリンチ版『DUNE』が誕生する。

 

 いうまでもなくデヴィッド・リンチの『DUNE』はダメな映画の1本だ。

 ディノ・デ・ラウレンティスの特撮部門にお金を費やさないケチっぷりやら監督の権限を制約した手法がひどく足を引っ張って、豪奢なフルコースであるはずのものが安い定食に置き換わってしまってた。監督が豪奢な建材や金釘で組み上げようとするのを、それを家主がホッチキスで留めるればいい、といったアンバイになり下げた。

 

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 とはいえ……、リンチ版『DUNE』が嫌いかといえばそうでない。

 まとまりない作品ながら、リンチの嗜好や絵作りは随所に見られるし、彼の息吹を感じるところもまた多数ある。秀吉の黄金茶室をはるかに凌駕したでっかい金ピカゴールドな謁見室に黒ずくめのパンカー達に守られて登場の巨大”水槽”といったヴィジュアルは、イミテーション・ゴールドな鈍い輝きに満ちてチャーミングだったし、空中浮遊する毒針注射器の影が毛布に映じるや、それがうねって毒蛇の動きのように見せるなど、リンチの眼の置き所というか趣味性がよくまぶされ、だからストーリーを追うよりはシーンごとでの作りを味わうべきな作品と解すと、駄作という烙印は消える。

 上写真:米国でTV放映のさい、1時間近くの未使用フィルムを新たに組み入れた長尺版。4:3画面サイズながら、これはこれで”たのしめた”リンチの『DUNE』2枚組DVD。巻頭から信じがたいホドの安っぽい絵が次々に登場し、それで物語の状況を説明してるんだけど、絵のひどさに激憤か、編集権のないリンチは監督名が画面に出るのを拒否。ま〜、お気持ち判ります。でも、未使用だったシーンをふんだんに観られるしぃ〜、編集もおざなりで〜、ゆえに逆説的に”たのしめる”という、ある意味でカルトなバージョン。

 

 当然に、ホドロフスキーが監督をやって映画が完成したとしても、それが傑作になったかどうかは判らない。「どうかなぁ、これは?」疑問符やら拒絶が起きた可能性もまた高い。

 出演を快諾したダリやオーソン・ウェルズがいざ撮影となると、アレコレ物議をかもす難題を出してくる可能性も高かったろう。『影武者』での勝新太郎のトラブルよりでっかい”困ったことになった”が続出したろう。

 

 このドキュメンタリーで特筆は、そのダリの愛人であったアマンダ・レア(リアとも)がインタビューに答えていること。

 ボクはこの謎の女性がずっと昔から気になっていた。ROXY MUSICの2番目のアルバム「フォー・ユア・プレジャー」のジャケットを飾った人物だ。

 

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 デヴィッド・ボウイのミュージックVTRに出ていたこともある。当時、ブライアン・フェリーが夢中になったヒトということは今野雄二のライナーノーツを呼んで知ってはいたし、ゴシップ多きなヨーロッパ社交界の花だということもおぼろに知ってはいたけど、よもやこのドキュメンタリーに本人が出てくるとは、ついぞ思ってもいなかったからビックリだ。

 

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                当時のダリとアマンダ

 

 ホドルフスキーに向けてダリは、出演料1時間10万ドル(当時)を要求し、同時にアマンダにも役を与えるコトを要望する。

 ダリは皇帝役だ。その皇女役にアマンダをというわけだ。

 交渉はダリが定宿にするニューヨークのセントレジス・ホテル(今だってお1人さま1泊で最低12~3万かかるそうな)、次いでパリのシャンゼリゼ、さらにバルセルナへとダリの移動と共に行われ、その間にホドロフスキーは脚本を再考、ダリの顔をした皇帝の影武者ロボットを多く登場させることで本人の登場時間を5分ほどに縮め、出演料の抑制に成功。でもって皇女役をダリの要求のまま受け入れた。

 なので、メビウスが描いた膨大な数に登る絵コンテには、アマンダの顔の皇女がチャ~ンと描かれている……。

 

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            特徴あるダリ髭の皇帝……。メビウスの絵コンテより

 メビウスホドロフスキーに心酔し、久しく彼の存在を精神的な柱としていたというが、それは後述するけどH.R.ギーガーやメカニック・アートのクリス・フォスたちも同様だ。フォスは英国人だけどホドロフスキーのいるパリに移住して現在にいたる。『DUNE』の絵コンテ表紙はフォス作品。

 家康や秀吉がシビレちゃった信長のように、信奉者を多数産んだS・ジョブスのように、ホドルフスキーにはヒトを引き寄せ酔わせる磁力が強靭だったんだろう。惜しむらくは、信長にしろジョブスにしろがどこかの時点でカルト的存在ではなくって普遍的なレンジでの高位置に登れたけれど、ホドルフスキーはいまだに、カルト・カルチャーの狭い枠組みの中でもって語られていることだろうか……。

 

 が、だからといって今更に、ホドルフスキーによる『DUNE』を観たいとは思わない。カルトな位置からワンランク引き上げてあげたいとも思わない。撮られずに終わったことで逆に、ホドルフスキー版『DUNE』と彼という存在は、”活き続ける鮮度”を得たと感じる。

 それは不幸ではあるし、それゆえの失意や凋落を経験したであろうホドロフスキーだけど……、彼が持ち込んだ絵コンテがハリウッドの映画関係者に回覧され、多くの映画に影響をあたえていることもこのドキュメンタリーでは描かれる。

 

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ギーガーと彼の絵。結局、『DUNE』のために描かれたこれらのイメージが、最近の『プロメテウス』を含む『エイリアン』シリーズで使われることになる。

 

 ホドルフスキーは強圧な風に倒壊した大木だけども、倒れたことでそこから新たな芽が幾つも伸び生えたことが知れる。

 だから、良いドキュメンタリーだった。

 むろんながら、新たな芽となり葉となっていったとしても、拭えきれないトラウマが方々で残ったのも、また事実だろう。

 このドキュメンタリーの中、故ダン・オバノンH.R.ギーガーの生前のインタビューの肉声には、ホドルフスキーの企画に加わってそこに自身を賭けた末での頓挫の、狂おしい焦燥が残滓としていつまで経っても消えていないのが手に取るように判りもする。

 ギーガーにとっての誉れの源泉と原点は、『エイリアン』での栄光ではなく、ホドルフスキーに見いだされ、自身のもてるイメージを最大限にぶつけた『DUNE』だったことが良く判り……、その表裏の実相をうまく伝えたこのドキュメンタリーは、考えさせられる諸々の含有率が高くって、秀逸な良作なのだった。

  

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 1978年にパリで買ったメビウス作品『Le Garage hermétique 』が掲載されたMETAL HURANTのハードカバー合併号。性器描写とかがケッコ~あって税関で取り上げられるかもと心配したけど、ネ。

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 リンチ版『DUNE』での悪役フェイド・ラウザに扮したスティング。ホドロフスキーの『DUNE』ではミック・ジャガーが演じるはずだった。下はその絵コンテの1コマ。

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          なるほど、顔がしっかりミック・ジャガーですな。

5日早いお彼岸 ~ラッキョウ•ラブ~

 毎年のことながら……、ほんのついこの前、お盆で坊さんがやって来たと思ったら、早や今度は、お彼岸。

 わずか数週、2度の坊さん来襲だ。

 むろん事前に「行きますよ~ん」の通達あってのお越しだけども、ヤヤせわしない。本来は20日からお彼岸らしいから、5日早いよ。

 べつだん、だからといって非難も批判もあるワケでない。寺の都合、コチラの都合もござんしょ~。組み込まれた行事の1つとして、タンタンと受け入れる。

 拝んでもらい、仏間にちょいとお線香の香りが漂い、終えるや、いつもの茶碗(坊さん用だ)で茶と菓子(わざわざ華宵庵に買いにいくんです〜)をすすめ、ヨモヤマ話をやって、お布施渡し、適度にお辞儀してハイおしまい。

 

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 仏間に座布団敷いて座り込むのは坊さんが来た時だけだけど、むろん、故人を偲ばないワケはない。

 といって、深々に思いを馳せ飛ばすワケでもない。

「また1年、経っちゃったな」

 やや色褪せしはじめているファーザー殿の写真に視線をそよがせつつ、同時に季節を思い、これも1つの句読点、マル1つが置かれ、秋への移行の感触をば、チビっと味わうのだった。

 こういう味わいも、わるくない。もちろん、庭先に出りゃ~、まだ暑っつっつだけど、雲の形が秋のそれ。

 

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             パッションフルーツの葉影の向こうに眩い空。

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 淡いムラサキの粒が連なってるのが面白いけど、名を忘れちゃったよ。

 

 連なって、といえば、過日にケッタイな夢。

 なが~い列車に乗っている。1つの車両が途方もなく長い。

 それも食堂車。連なるはずの別車両の入口がはるか遠くにあって何両編成なのかもわかんない。 

 両脇のテーブル席を眺めつつ、通路を歩く。

 左右の車窓の外に見える景観がやたらリアル。電線が上下してる。

 その食堂車に、もう50年くらい営業を続けてる中華屋さんのような油じみた匂いを感じ、早く通り過ぎるべく足早になるけど、とにかく車両がなが~い。

 いったいカーブじゃどうやって曲がるんだろう? 歩きながら考えていると、何人か知り合いがテーブルに座って、こっちを見てる。

 ジャズフェスの仲間に混ざって、津山にいる従妹(いとこ)がなぜか座り、ビックリ顔で、

「どけぇ~行きょん?」

 津山弁で問うてくる。

 少し先に立ち喰い屋台が幾つか並び、それだけで目測20mっくらいはある。車両窓際にはタオルやおしぼりが干してある。

 で、屋台の提灯には「麺震度一番」と書いてあって、床にバネが見える。

 ラーメン、うどん、そば、スパゲティ、がメニューとわかる。

 長細いその屋台をS新聞社文化部のK女史が取材していて、こちらに寄って来ると、

「お客さんは震度を選べるようになってるそうなんです」

 説明してくれ、

「どう思われます?」

 ひとなつっこく笑う。

 列車の揺れに加え、さらに床を揺さぶった状態で立ち喰うらしい。

 激辛とか甘辛とかでなく、激震か

「やっぱ、世も末ですな~」

 とか、返事した……

 ワケわかんないけど、麺震というのは我れながら快作だ。免震とマチガエた可能性もあるけど、しかし、そんな夢をなぜ見たか?

 きっと、『阿房列車』のせいだろう。

 

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 この本を買った憶えがない。いつから自分のところにあり、何故にあるのか、ズ~っと不明だった。

 けども、数週前だか、夜中のBARでEっちゃんとヨタバナシしているさなか、

「そりゃ、あたしのじゃ」

 Eっちゃん、半オクターヴ高くいい、

「おまえさんが、持ってたかぁ」

 のたまうのだった。

 あらま~、そっか、借りてたんか~~。

 すっぽり記憶がないのを訝しみつつも面白がった。

 そういうコトがあっての、この夢なんじゃなかろうか。

 目覚めると、食堂車から出た憶えがない。

 ずっと通路を歩き続けたような感触ばかりで、目覚めた後で、食堂車の窓辺に干してあった屋台のタオルやおしぼりのなさけない風情が気になって、車掌を呼んで苦言を呈すりゃよかった……、ちょっと口惜しかった。

 

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 そ~いうコトがあって、そんな夢をみたんだろうけど、上写真、数日前にさらに借りた『阿房列車』の次刊などなど。今度はチャンと返そうと、証拠写真を撮った次第。

 

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 そのEっちゃんとKちゃんのカシマシ・シスタ~ズが列車に揺られて玉野に出向いての……、みやげ。

 らっきょう。

 某高名ベーシストのママで玉野在住のTサマから、既にこの玉野築港商店街・山下食品のらっきょうの事は情報を得ており、出向くとして11月頃かしら、などと密かに思うてたのだけど、らっきょうの方からコッチにやって来た。

 あ・り・が・た・い・な・あ~

 想定していた以上に高額なのね……。御礼にと、鳥取は倉吉の梨をばご両名に。ブツブツ交換。

 

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 このらっきょう漬けは、いわゆるラッキョウ酢ではなく、お酢と砂糖での自家調整らしい。

 我が舌はそこの絶妙を判別できない。

 らっきょう漬けワールドの広大な甘酢ゆい海に小舟を浮かせ、やっと漕ぎ出したに過ぎないビギナーだから、「うまい」とか「いい感じ」とかの表現しか、まだ出来ない。

 それが、ま~、もどかしいワケだけど、もどかしさがまたらっきょうの魅惑を押すようなところもあって、今のところ、「ラッキョ、ラッキョ~」と吠えてるダンシもないようであるから、開拓者の愉悦みたいなケッタイな優越もチビっと味わって、さ~、今日もまたポリポリ。

 舌が老人のそれに変化してんじゃね~の? との嘲笑もあるにはあるけど、舌先三寸なそんなご意見なんぞは聞く耳もたない。

 

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親戚のソレと玉野のソレ。親戚のはもう半分食べちゃった……。並べてみると、玉野は粒が大きい。

 

 大野朱香にこんな句があった。

 

箸とどかざり瓶底のらつきように

        句集『一雫』(ひとしずく) ふらんす堂

 

 何のこともない情景だ。瓶の奥までお箸が届かなかっただけのコト。それをそのままただ詠んだだけなのに、何でこんなにこの句は浸透してくるんだろう? 堂々としているんだろう?

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 ちょいと昔日、2006年のつま恋での吉田拓郎ライブに中島みゆきが突如現れ、2人の共作たる「永遠の嘘をついてくれ」を、ほぼ直立不動、まさに堂々に謡い、彼女がそこいらの歌手をはるかに凌駕する存在だったことを示し見せてあまりに圧巻、そばにいる吉田がスチャラカで軽い存在に見えるほどに圧倒されたことがあったけど、どういう次第か、その堂々にこの句の旬な堂々が重なり、想い返せば……、3万5千人の観客を前にした中島みゆきの揺らぎのない顔が白いらっきょうにダブって重なるような気がしないでもなかった。

 

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 このあたりの消息が、ま~、ボクの今のラッキョウ・ラブなんかしら。

 要は、食品という狭い範疇にらっきょうを置いておきたくなく、他の五官に委ねてしゃべってもイイじゃん、な気分なんだ。

 タピオカ入った甘~い紅茶を歩きながら啜ってワタクシもブームの中にいる~、も、ま~、いいですけど、ブームでも何でもないらっきょうに言及する方が、2センチほど先んじて背が伸びたようで、おもしろみの増量感ありという次第。

ヒゲ親父 ~ジョン・アダムズ~

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 某日、馴染んだ場所での『古市福子朗読の午後』。

 毎回のことながら満席。(2日連続公演だけど両日とも満席なんだからたいしたもんだ)

 会場入りすると既に心優しき我が仲間が席を確保してくれていた上に、集った仲間と同数の団扇まで用意してくれてた。

 気がきいてらぁ〜、いいなぁ。 Thank you Toshi-chan & K-chan.

 その団扇で顔をパタパタあおぎつつに開演。

 古市の甲高い声、低い声、ドスある声、チャメな声、いつもながら高圧な電流が彼女の体内をめぐる。

 こちらは座したままに眼を閉じたり開けてみたり。

 朗読は耳がすべてじゃない。時に眼は同行者の、やはり聞き入っているらしき姿を盗み見たりもして、その情景を含めての体験がすなわち朗読の場。

 

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 手塚治虫が産み出した「ヒゲ親父」のような大人に、子供の頃にあこがれ、あんな親父になりたいなっ……、とはチィ~っとも思ったことはない。

 そういう発想すらなかった。

 『鉄腕アトム』やらその他作品で頻繁に登場するから、ごくごく親しいキャラクターには違いなかったけど、「ヒゲ親父」はどこまでいっても「ヒゲ親父」。

 学校の先生だったり、探偵であったり、綺麗な少女の貧しい父だったりする。時にピストルを持ち出しブッ放したりもし、悪人をチカラいっぱいブン殴って怒りを見せたりする。

 要は、チャンと独立した大人が「ヒゲ親父」なのだった。

 だからこの人物には常にある種の尊敬が示された。例えば、アトムやメガネやシブガキがそうだ。常に叱られる側にメガネ達はいて、時に反撥はしても「ひげ親父」への尊敬は不変、大人の規範を示す存在であり続けてた。

 

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             生徒に議論させ、自身は沈黙して公正を保つヒゲ親父先生

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      上2枚は、鉄腕アトムフランケンシュタイン」のヒトコマ サンコミックス

 

 けども近ごろは、こういう一途な正義漢を代弁する大人キャラクターはあんまりいないんじゃなかろうか?

 そう思うと、「ヒゲ親父」は貴重だ。希少といっていいか……

 ステテコでちゃぶ台の前に座るのがよく似合って、これは昭和の香りとして愉しめるけど、だいたい、年齢を特定できないのもオモシロイ。

 55歳? 60歳? 65歳? 

 よくは判らない。

 ま~、そこも頼もしいのだ。例え68歳だと特定されたって、それにさほど意味はない。ちゃんとした大人として振る舞えているかが問われ、その問いに5560も数字としての年齢は意味をなさないんだった。

 

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 ここ数週は夕食毎にiPad でアマゾン・プライムを開き、『忍者ハットリくん』を眺めてる。

 198187年の作品。1話7分。これが700話(!)近くある。

 食事の合間に5話か6話が通り過ぎる。

 弟のシンゾウ君、ライバルのケムマキ君と忍者ネコの影千代が良くって、とくに犬の属性をもったようなネコの影千代が良くって(犬の獅子丸は不要だな)、けっこ~それなりに楽しんだけど、しかし観続けていると欠点も見える。

 1番にいけないのが、チャンとした大人が出てこないことだ。

 ケンイチ君の両親は毎度出てくるけど、ほぼ子供の延長でしかなく、免許取り立てのママがケンイチ君らを乗せてドライブに出たものの坂道でパニックし、危ない状況のまま子供らを車内に残してサッサとどこかに逃げ出しては目も当てられない。ギャグマンガだからイイじゃんとは思わない。子供を危険状態に放置しちゃいけない。それをギャグと解しての脚本はすでに脚本に値いしない。

 学校のコイケ先生は、生徒に嘲笑され、失敗を繰り返してはハットリ君に影で救われたりもするが、そもハットリ君は学校の生徒ではない。ある話では、先生の人気投票とかで、生徒を買収にかかったりする。

 出前持ちのオジサンはいつも主人公たちと路上でぶつかり、おソバを路面にぶちまけるだけで弁償もされない。

 夜店の金魚すくいのおじさんはハットリ君の忍術で無銭で金魚をねこそぎ奪われる。

 ……てなアンバイで、大人への尊厳なき描写が繰り返され、仕事に関しての敬意のなさも毎度のごとくで、眺めていると不快がプチプチ湧いてくる。

 

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 ハットリ君のやってることはケンイチ君にイタズラしたケムマキ君への仕返しに終始だし、子供による子供のための子供だけの閉じきった世界での、ケンイチ君我が侭の幇助をやってるハットリ君でしかなくって、あまりにつまらないから逆にそのつまらなさを味わうがために毎晩観ちゃうみたいな依存症めいた習慣性をおびてくるから、いっそ~キッカイだ。

 こういう番組をみて育ったのが、たとえば、「戦争で島をとりかえす」みたいなバカ丸出しをいって議員職にしがみついてる若造らかと思うと空恐ろしい。

 無論この見立ては短絡で根拠のない言いがかりだけど、仮に自分が子供の時にこれを毎週見ていたら、どう影響されただろうと危惧しないワケではない……、などと大昔のPTA会役員のような、視点を固定して錆びた価値観引っさげ批判ばっかりな、ヘンに頑強な親父気分になる……、のが困る。

 

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 アマゾン・プライムでHBOのミニ・シリーズ『ジョン・アダムズ』。

 全7話。ほぼ一気に観て、毎回を堪能、感嘆した。

 アダムズは米国を独立国にした立役者の1人だけど、彼を一躍高名にした英国軍人の弁護裁判から、90歳という高齢でなくなるまでの半生が描かれ、眺めていると、

「あっ。ここにヒゲ親父がいる!」

 そう呟かざるをえないシーンの連打だった。

 もとよりジョン・アダムズジョージ・ワシントンに次ぐ第2代大統領)を詳しくは知らなかったけど、討論に徹して政局を動かそうとする我慢と努力の深さには、正直、たまげるようなアンバイだった。

 その政治的振る舞いの裏には雄弁の才を誇示したがるプライドがあり、葛藤があり、嘲笑、誹謗、中傷にさらされもする。

 友情が裂け、猜疑があふれ、怒りが滲むこともある。

 政治的存在であると同時に、夫であり父でもある。

 揺れて、ぶれて、翻弄されつつも、しかししがみつくようにして毅然と振る舞おうとするアダムズ。日々、歯痛に苦しむアダムズ。それすら揶揄されるアダムズ。

 建国後、フランスからの高圧に国内世論も議会もが戦争ムード一色に染まるも、その承認を拒否し続ける大統領としての彼は、側近が周辺の空気に負けて彼と意見を異にしだすと解任し、冷ややかな言葉を浴びせもする。

 

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 柔らかく炊いたポテトらしきのランチ・シーン。何気ないシーンだけどもこのアダムズ役ポール・ジアマッティの歯痛をこらえての食事描写は絶品。ほとんど口を閉ざして手前の人物と会話……。セデスもロキソニンもなく、我慢の上のガマンの腹話術的な会話が痛々しくも可笑しい。

 

 6話7話では、次男の勘当、その死、長女の乳がん、その死、そしてやがて、最愛の妻を失う彼の慟哭が描かれる。

 米国の映画では女性も男性も劇中で泣くというシーンはとても少ないのが特徴で、とくに女性を情緒的存在として描いてしまう邦画とはずいぶんに乖離しているけど、この6話7話にかぎっては、涙が画中にあふれて、これも少なからず驚いた。

 極力に史実に基づいているらしくで、だからまだ麻酔もない時代なワケで、手術前の長女の恐怖(麻酔なしで、曲がった鋸のような道具で乳房を切除する)、別室で控えている父ジョンの苦悶に……、手に汗させられるようなアンバイでもあったし、歯科医療が進んでいない時代を反映させ、出演者の歯が女性も男性もひどく汚くメークされ、そこにも「あっ」と云わされたが、ともあれ一歩まちがえると退屈なTVシリーズとなる可能性も高かったであろう題材を、徹底してリアルに、かつアダムズという男を通じて描いたことで、退屈のタの字もなく、いっそ言い知れない緊張を伴って鑑賞できた。 

 

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 建国50周年記念の絵(独立宣言の署名)が出来たさい、引退して久しい彼は議事堂に招待される。が、

「こんなシーンはない。歴史を捏造するな」

 アダムズは、母国英国と戦争になるかもしれない恐怖と責任の重みにかられつつ署名したであろう50年前の自身と各州の議員を想起し(一同に会して署名したワケではない)、威風堂々ではない実の姿に改めておののきつつ、絵と現実の落差に感情を炸裂させる。罵倒に近い言葉で画家に怒りをぶちまける。

 画家は画家として50年前の仔細を知らないが精いっぱいの努力作を産んでいるワケだけども、署名当事者のアダムズには、絵は文字通りの絵空事でしかない。

 なので象徴的で印象深かった。建国50年で既に50年前のスガタカタチが再現できないことのもどかしさが伝わるし、さらに時代を経てのこのTVシリーズの製作者たちトム・ハンクスも加わってる)も同じく抱えたであろう「過去再現」の難しさを、このシーンでチラリと内心を吐露してるようでもあって。

 けど、また一方で、はるか後世になった今、この絵がパーフェクトな史実ではないにしろ、かつての独立の日7月4日の、”インデペンデンス・思い出し装置として存分に機能しているというコトもチラホラ。

 

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米国議会堂に今も壁面にかかっている本物。男子は皆カツラの時代。中央で腰に手をあてがってるのがアダムズ。

  ともあれ、なにより、主役の「ヒゲ親父」っぷり、久しく聴かない父性というものを濃く感じさせられ、頷かされる点が多々あって喜ばしかった。

 その父性に添って妻の愛と母性があり、情愛があり、友愛があり、消せない喜びと哀しみがある。気づくと骨太い大きなドラマを見たと感じいり、あらためて疼かされた。

 こういう反応はめったに起きないけど、今、2度めを観てる。

  舞台となる18世紀末のアメリカ、オランダ、フランスの景観描写が圧倒的に素晴らしくもあり、これはカメラの日(?) Tak Fujimoto氏の大きな功績だろう。時に絵画的でもあって、主題から離れてただ風景を眺めているだけでも、何だか眼がよろこぶのだった。

 

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 第4話で熱気球が出てくる。

 画中では何も説明がないけど、史実では、1783年の11月、ブローニュの森近くの城シャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から2人の貴族が乗った熱気球が人類史上初のフライトを行っている。

 映画に登場の城といい気球の形と配色といい、まずそれだろう。

 ジョン・アダムズがその場にいたのが、事実なのかどうかボクは知らない。

 同年は大使としてパリに住まって、オランダとイギリスに数ヶ月単位で出かけるという状況だったようだから、大勢の群衆の中で、この番組が描写した通り、上昇する青色地にカラフルなペイントが施された気球をホントに見ていたのかも知れない。

 それほど長いシーンではないけど、綱を外され自力で上がっていく気球と米国が勝ちえる独立という自由が象徴的にうまく演出されていて、好きな場面だ。

 

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                    見上げるアダムズ

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                    まったく見事な絵づくり……

  えっと、ちなみにこの頃はルイ16世の時代、マリー・アントワネットは健在。革命で王政が転覆するのは、この熱気急飛行の6年後ということになる。その時は、ジョン・アダムズジョージ・ワシントンを補佐する副大統領。処刑と米国は直に関係はないけども同じ時代の歯車の中の出来事というコトも……、再認識させられた。 

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 気球が飛ぶ2年前、1781年にフランソワ・ユベール・ドルアイが描いたアントワネットの肖像画

 

 

 

 

プリズナーNO.6 ~MINI 60年~

 MINIが誕生して今年で60年。

 英国やこの国でも、いくつか比較的大掛かりな記念イベントが開催されているようで、慶賀というほかない。

 私的感想を申せば、BMW-MINIに変わった時点で「楽しい車」としてのMINIのヒストリーは終焉し、今そこいらを駆けてるMINIは名を踏襲したものの現代仕様な「普通の車」とみえて、ほぼ関心ナシなのだけど、ともあれ登場して60年という歳月が刻まれたのは感慨深い。

 この9月8日には県北は蒜山高原でもMINIを中心にした英国車大集合のイベントが予定され、先日には蒜山在住の某MINI乗り君にも誘われたけど、90年代には足繁く鈴鹿サーキットやら英田のレース場やらに出向き、出店したりもし、大いにハッスルしたものの、さすがに年齢がかさむとねぇ、ま~、いまさらという感じも濃くってご辞退申し上げた次第。f:id:yoshibey0219:20190903055120j:plain

              MINIを設計したアレック・イシゴニス。

彼は、F!などのレーシングカーと同じコンセプトを導入。一体化されたモノコックボディの前後に独立したサブフレームを取り付け、そこに全部の機構部分を置くというカタチでMINIを作った。というかレーシングカーがこれを真似ていったというのが正しいか……、その構造ゆえに剛性が高いのだ。おまけに小廻りが圧倒的だから、MINIを一躍有名にした急なカーブがいっぱいのモンテカルロ・ラリー3連覇はいわば必然の勝利だったのかもしれない。

 

 MINIで忘れられないのはMOKEだな。

 MINI MOKE(ミニ・モーク)。

 登場は1964年。設計はMINIと同じくアレック・イシゴニス。

 英国陸軍での多用途車両を想定し、エンジン廻りやシャーシはMINIそのままで外装を大幅にチェンジした。

 米軍のジープのような役割を期待されたワケだが、軍で試用するに、

「おもしろ過ぎる……」

 とのことで不採用。MINIベースだから車高も低く、まして4輪駆動でもないから、軍隊としては使えないという判断だったろう。

 ちなみに、MOKEはロバという意味ね。

 

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 英国海軍は空母の艦上車両としてかなり真剣に検討したらしきだけど、戦闘機を引っ張るようなパワーは望めないんで断念した。

 結局、コンパクトなサイズとカタチゆえアチャラコチャラのゴルフ場のカートとか、リゾート的専用空間で活かせる車ということになっていく。特にオーストラリアでは砂上を駆けるビーチバギーとして人気の車となった。

 


プリズナーNO.6の舞台たる”村”で使われたのが、このミニ・モーク。

 ホワイトカラーのボデイ(TVシリーズの撮影開始と同じ1967年に販売されたMINI MOKE MarkⅡ)にクリーム・ストライプな幌屋根。劇中では村のタクシーとして役があたえられ、選挙では選挙カーとしても使われ、その小ぶりなスタイルゆえ印象が深かった。

 劇中では、リアカーとして寝台を引く救急車仕様も登場した。

 

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             TVシリーズプリズナーNO.6』の劇中シーン

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           撮影ロケ地(後述)で販売されていたキャビネ・サイズの生写真 

 

 ミニ・モークはかわいらしいというかチャーミングというか、どこかユーモラスでもあるし、キビキビと駆け廻るもんだから頼もしくもあった。

 しかし、それが何らかの理由で拉致監禁されている村の住人達の、唯一の”足”なのである。

(正しくは、ミニ・モークと同じカラーリングの自転車と1人乗り電動カートもあり)

 その硬軟なギャップある設定が憎いほどに活きていたのがこの番組だ。

 ホントは重い題材なのに、奇妙にポップな匂いをたてる番組(全17話)としての『プリズナーNO.6』の背景を大きく支えてた。

 もちろん最大のポイントはポートメイリオンという実在のリゾートホテル(かなり広大です)をそっくりそのまま使い、そこに点在する家屋に”性格”を与えた上で多数のエキストラを動員し、その上で、家屋外観からは想定しえない大掛かりでモダンな室内セットを組んでいたのがこの番組のツボだったろうけど、村を疾走する車両はミニ・モークだけ、ボンネットに村のロゴ(自転車のマーク)をあしらった白いミニ・モークだけというのが高得点なのだった。

 

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 で、村から脱出を試みようとする者たちは皆、あの謎の大きな風船玉に追っかけられ、呑み込まれ、捕まって、一見は自由に振る舞えても、それはあくまで ”あたえられた”、ものでしかないという、”拘束された自由”、いわば為政者NO.2の手のひらの中の自由であるコトを味わい知らされるのだった。

 でもって、そのNO.2もまたNO.2でしかなく、ではNO.1は誰か? 何か? という中心核に向けて全17話は進行するのだった。

 

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 この番組を思うたび、あたまの中にミニ・モークの排気音が響く。我がミニと同じ音なのでまったく馴染んじゃってる音でもあるのだけど、それはどうでもよくって、ともあれモークという単語が聴こえたら必ず『プリズナーNO.6』が念頭に浮いて早や何10年という次第。

Be See You.

劇中毎回必ず出てくるアイサツ言葉と共に、いっこうに色あせしない不思議存在が、この番組なのだった。

 村の中の自由は常に、

「じゃ、また……」

 ってな村内限定での再会をお約束するっきゃ~ない一語に要約されるというアンバイに、誰もが置かれているであろう実生活の自由の在処についての、これは寓話なのだというコトも判ってくるのだったが、今もってこの番組ほど自在に番組そのものを構成させたTVドラマはあんまりないというコトにも驚きの念が消えないんだった。

 

 第14話『悪夢のような』では、なんとタイトルすら出て来ず、いきなり西部劇がはじまり、主役が序盤では出てこないままドラマが進行し、最後の最後で

「あっ!」

 なんだから、も~~、やられちゃったよ。

 DVDやらでなく、当時、NHKで放送され、接したさいは、

チャンネルまちがえた?!

 ずいぶん慌てたもんだ。

 

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 なるほど今の眼で観れば、スクリーンサイズは4:3だし、描写も時代を感じさせて経年劣化な部分もある。コンピュータのカタチ、人工知能のとらえ方など顕らかにもはや古びてしまった所もある。

 けれどサビはサビでしかなく、拭ってしまえばいまだ斬新の光輝をきらめかせる。ミニ・モークの登場を含め、まばゆい宝石であり続けてくれている。

 番組の立案企画者であり主役だったパトリック・マクグーハンが晩年に執筆していたというリメーク脚本を元に、リドリー・スコットが新たな劇場版の映画を計画しているというハナシがあるけど、さ~さ~、それはどんな具合なものになるんだろう? 少なくとも60年代テーストのミニ・モークなんぞはそれには加わっていないだろうと予測するんだけど、ね。

 

  Be See You. の日本語字幕では、使われるシーンによって、「じゃ~」、「さようなら」、「では明日っ」といった具合で翻訳時にニュアンスがあまり配慮されなかったようで、これはかなり残念だ。

 ヒトの顔にホクロがあって、それが往々にしてその人物の特定になるように、『プリズナーNO.6』でのそのホクロたるが、「Be See You.」じゃなかろうかと思ってる。

 だから「じゃ、また……」とかの1つに統一すべきだったろう思うわけだし、マクグーハンは意図的にこれを使って”不自由”を顕わしていたと確信してるんだ。

 

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『Model Cars』(30号 1996 ネコ・パブリッシング刊) 筆者執筆の特集記事。模型としてのミニ・モークと『プリズナーNO.6』を大きく取り上げたおそらく初めての記事だったろう思う。それから10数年経って、岡山の某BARで真夜中、この記事を読んで本を今も持っているという人と遭遇してビックラこいたコトがある。ま~、先方もまさか岡山に執筆者がいようとは思ってもいずで……、イスから転げ落ちてたけど。

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                 TVC-15のキット(1/24)のプリズナー仕様の完成品。製作は請地利一氏。上記の記事に使用。

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      主人公NO.6の家の着色済み模型。ホテル・ポートメイリオンで販売されていたもの。

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            NO.2の家の模型。これも同所で販売されていたもの。

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                 実際のポートメイリオンの家。

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  『Model Cars』に載せるために少量製作した1/43スケールのプリズナー仕様のミニチュア・カー。

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プロジェクタースクリーン

 平日月曜のライブというのは、むろんあり得ないワケではないけども、やや少ない。

 そのやや少ない日程での「嶋津健一ピアノコンサート」。

 ゲスト歌手に我れらが、なかだたかこ。

 チラシも我れらが、Yukoちゃん。

 客席のアッチコッチにジャズフェスやら別の某会やらの我がお仲間。

 なかなか良い感じなライブ。

 嶋津のピアノは一音一音が堅実で澄み、オリジナルの一曲一曲が小窓から眺める四季の景観のよう。

 16年間一緒に暮らしたネコを想っての「はな」という曲は、眼を閉じて聴いてると彼とはなちゃんの楽しかったであろう午後のいっときのようなものが感じられもし、それが今度は逆に、小窓の中に、ピアニストとネコがいて戯れている様子が窺えるよう。

 この曲の出だしはやや重く聴こえ、それはおそらく愛猫の死を間近にした嶋津の未整理な気分を音符に乗せ換えたものなのだろう。それが次第に軽やか軽快になっていくのは、ネコのはなちゃんと過ごした日々の充実への追想であろう。

 嶋津は演奏前に、はなちゃんへの思いは「ただ一言、感謝です」と言ったけど、その情愛の深みは聴いていてよ~~く判ったし伝わった。

 いいライブは時間があっという間に過ぎる。

 帰宅すると荷物を発送した旨のメールが届いてた。

 

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 火曜に荷物が届く。プロジェクター用スクリーン。

 水曜。終日の雨天。九州方面は大雨とのことで佐賀県在住の若い友にモシモシ。自分のところは大丈夫であります、とのこと。ホッ。

 週末にやろうと思ってたけど、せっかくの雨だから前倒し、荷物を開封。スクリーンの取り換え作業。

 日常の大半を過ごして居座っている環境はさほど広くないから、スクリーンは書棚の上でロール状に巻かれ、映像を観るさいは棚を覆い隠すようにして展開させる。

 その白いキャンバスを手で巻いて上部で固定するのは1分ほどのコトでしかないけど、2mほどの横幅のものを左右均一に巻き上げるにはチョイとした慣れと辛抱が要る。たいがい綺麗均一に巻けない……。

 

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 背丈が高いから毎度に脚立も要る。ま~、脚立は大げさなんで丸イスの上にのっかってスクリーンの上げ下げをする。

 まったくもって難儀するという次第には遠いけども、これが日々、映画を観るたびの一仕事となると……、面倒になる。堆積して苦々しい味になる。

 だから、映像を眺め終えてもスクリーンを展開したままにすることも多くなる。

 しかしそうすると書棚にアクセス出来ない……

 

 という次第で、ワンタッチ自動で巻き上がってくれるスプリング・タイプに換えた。

 スクリーン・サイズもちょっとだけ小さくし、72インチ。

 丸イスの上にのらなくていい。ガレージの金属シャッターの開閉時に似たガラガラガラ~ッな音が可笑しいけども、勢いよくほぼ瞬時で左右均一に巻き上がってくれる。

 なによりこれで、本の取り出しが容易になった。楽勝かつ効果甚大。

 

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                      新旧のスクリーン

 

 きっと人生とは、日常の小さいな不都合をプチプチ潰しては改修する、その繰り返しを言うのだと大袈裟に納得しぃ~しぃ~、スプリング機能の動作確認をと何度か上げ下げさせし、スクリーンとしての簾(すだれ)のことをチラリ思った。

 その昔、天皇は閲見の者に向けては必ず御簾(みす)を隔てて対面した。

 茅や竹を編んだものだったり薄い布であったりと材質あれこれ。多くは黄色がかった着色がなされていたらしいが、これは皇室の菊色の連想か?

 上げ下げには御簾(ぎょれん)という専門の係の人がいて、ロールカーテンのようにチェーンがあるワケはなく、まして当然、電動やらスプリングはない。

 面倒なご対面というしかないけど、御簾というスクリーンが「向こうとコチラ」の結界として意識され、身分の違いを具象化するにはなかなか良い装置ではあったろう。

 灯りがある側はスダレ越しにその姿が見え、ない側は見えない。たいがい、平伏している側が明るくされ、天皇側からはその姿が見えるも、ひれ伏した側からはスダレが見えるきりで座した天皇は見えない。

 スクリーンというのは、それを意識すると、なるほど不思議な装置じゃ~ある。

 

 数年前、中国銀行本店前広場での『ちゅうぎんまえジャズナイト』にプロジェクター投影を導入することになり、どのようなスクリーンがもっとも低予算かつ効率よく綺麗に映し出せるかを検討のために、Kurozumi君の事務所にメイン・メンバーが集まって、いろいろテストしたことがある。

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 市販のスクリーンやら農業用の透明な大型ビニールシートやらやらに前年度のビデオ映像を流して試し、イチバンに安くて綺麗に映ったトレーシング・ペーパーでの上映を決定したのだったけど、半透明だから、スクリーンの反対側にも映ってるワケで、当然にそれは像の左右が反転している。

 さほど大きな意味はないけど、妙におもしろい光景だったから印象深かった。

 画像を投影すれば半透明なモノが半透明ではない映像として現出し、投影する側からは反転映像と共にそれを眺めてる人物たちも見えるという、その「2重のヴィジュアル」がおもしろかった……

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    2017年9月30日。中国銀行本店前広場でのトレーシングペーパー・スクリーン(右)

    ライブステージは中央の奥・立ち見黒山の人だかり。今年も9月28日(土曜)にやります。

 かつてジュール・ヴェルヌは『カルパチアの城』で、映像の醍醐味をまさにマジック的機械仕掛けとして提示し3D映像の登場を予見していたけど、実体がないのに実体のように見えるという不思議の面白さに彼は既に気づいていたのだろう。

 いや正しくは、面白さと同時に、その装置(スクリーンという単語はまだないにしろ)が結果としてもたらすデッカイ哀しみを予兆していたのだろう。

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 そのヴェルヌをいま現在の世の中に連れて来ちゃったら、彼はCGあたりまえの映像の氾濫に、驚くというよりも、たぶんあきれて閉口し、憮然とした顔になるような気がしていけない。

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 それは彼のごく初期の作『20世紀のパリ』で描いた暗い未来、科学技術が人間本来の姿を失わせる元凶にもなるというペシミスティックな気分をただ裏打ちしてしまうだけかもしれない。

『カルパチアの城』で彼が、映像の中にしか存在しない女をヒロインにすることで、それに触れられない男のもどかしい悲しみを暗示させたように、スクリーンという投影装置は、どこかはかなく、近くて遠いものを意識させてくれる。

 

 ま~ま~、てなコト書いて秘めやかな暗鬱に浸ってるワケじゃない。装置一新で逆にささやかに昂揚している次第。ヴェルヌ原作の『悪魔の発明』をまた観ましょうかの。で、観終えたらワンタッチでスクリーンが巻かれてくのを、早く眺めたかったり……。

 ということは、いっそピョンピョン跳ねるスプリング効果……、『霊幻道士』がいいか。

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             何度観ても感嘆の、カレル・ゼイマンの『悪魔の発明

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                バカだね、買ってきちゃった、よ。