久々、K歯科を受診。
何もなければ2ヶ月ほど前に出向いてたハズだけど、白内障手術に次いでウィルス騒動……。
タイミングが悪い。
ともあれ、
「や~や~久しぶり」
口をあけ、しばし我慢の検診。
またチョイと通院となるけど、しかたない。
K氏も子供の頃、『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』を読んだという。同世代的共通&連帯みたいな気分も味わいつつの治療。
先方はマスク越しになんぼでも喋れるがこちとら口あけたままだから、ぁ〜う〜ぉ〜、ケッタイな会話も進行。
数本、ドラキュラの映画を続けて観る。
ドラキュラは、歯形を残してくねっ。
吸うだけでなく、噛むんだね。
甘噛み、かなぁ?
近頃の映画より、昔のがいい。
あんがい良いのが1979年作、ジョン・バダムが監督し、ドラキュラをフランク・ランジェラが演じた『ドラキュラ』だ。
何が良いかといえば、とにかく品が良いんだ。
1も2もなくそれはフランク・ランジェラという役者の冷やっこい上品さに起因するんだろうけど、そこを踏まえたバダム監督の演出がよろしい。
前作が『サタデー・ナイト・フィーバー』だったから、”オシャレにきめる”というエネルギーが回転していたのかも知れない。女性と出会ったドラキュラは彼女と踊るが、そのままトラボルタの踊るシーンに直結するようでもある。トラボルタは白できめたがむろんドラキュラは黒装束。
ドラキュラが歯形を残すのは、むろんに吸血のためだね。
まず、そっと噛んで、左右の例の牙で傷をつけるワケだ。
なので、ここで一度彼は唇を離す。牙を対象者の首筋から抜いて、出血したのを今度は吸うワケよ。
ドラキュラは関西人じゃないから2度づけ、オッケ~、
で、出血してるのは2ヶ所というコトだよね。そう理解して良いぞ。
だからドラキュラの唇はその2点間を移動すると思えばいい。
この微かな移動がゾクゾク。きっと……、吸われるヒトには快感なのだ。
当然にドラキュラ本人もでしょうよ。被虐と嗜虐の相互作用だな。
ただ1つ判らないのは、あの牙って、細い注射針じゃないんで、あれが刺さるとケッコ~痛いはずなんだ。
しかし、いずれの映画も痛みは表現されない。
というコトは、あの牙、あの唇、その唾液に、甘味な麻酔作用ある何かが含まれてると思ってもイイ、な。
怪しいのが、唾液だ。
牙をあてがう前にドラキュラは舐めてるのかもしれない。
いや、そうに違いない。
1 唇を寄せ、一舐め ちょっとベロつかう 効能としての局部麻酔
2 牙あてがい、噛む
3 出血した2ポイント、吸う
4 唇離して、余韻に浸りつつおわり
ま~、そういう過程でありましょう。で、2の行為のさい、感染するんだねヴァンパイア成分(ウィルスかなぁ?)が、たぶん。
などと妄想しつつ映画をば眺めましたとさ。
より大きな昂悦を希求するために自身の欲望を抑制し、それゆえにエレガントに振る舞おうとするランジェラのドラキュラは、もちろん自己中心な魔物じゃあるけれど、魔物は魔物でルールと筋ある行程にのっとって、ただの獣でないというあたりが好感。
耽美で暗鬱な西洋映画に較べると、我らが水木しげる御大が描いた吸血鬼は、陰気なれど陽性な可笑しみがあって、ボヵ~、それも好きだなぁ。
『ゲゲゲの鬼太郎』に「吸血鬼エリート」というのがあって、これが珠玉。
鬼太郎は救済活動をやってるけどボランティアだから、収入なし。ほぼ喰うに困ってる。食べ物のことでネズミ男と口論したりしてる。
そこに国務大臣(当時の池田首相に似てる)だかが、
「吸血鬼に狙われてるんで護衛してくれ」
と、願い出てくる。
成功報酬として、日本国籍の取得を大臣はいう。
鬼太郎やネズミ男は妖怪だからヒトというジャンルに入れず、なので日本国籍もってない。社会保障を受けられない。
で、鬼太郎は大臣宅の警護にあたり、おいしいプリンなんぞを貰ったり、スポーツカーをあてがわれたりする。
それを知ったネズミ男は、
上のように、憤慨する。
一方の吸血鬼は、外人だけど久しく日本に住まいし、貯めた血をワイングラスで飲むスノッブな暮らし。
ギターを弾いて被害者を誘惑するという、なかなか巧妙にして絶妙な技をもってる。クロード・チアリみたいなもんだ。
甘美なギターの音色がすなわち麻酔的効果を発揮するワケだ。
ネズミ男は例によって得な側に加担。しばらくは吸血鬼側につく。
鬼太郎VS吸血鬼の攻防は熾烈を極め、かろうじて鬼太郎の勝ち。彼が勝ったというよりメダマの親父の働きでだが。
戦い後、鬼太郎は国籍取得を拒絶し、カランコロンと去っていく。
さなか、メダマの親父さんは汲み取りお便所の便槽に吸血鬼に投げ捨てられたりでヒドイめに遭ったりもするけど、総じて、水木的ユーモアと品が、その便槽の汚らしさすらを詩編の中の夢幻情景のように昇華させてらっしゃる。
こういうワザは西洋映画にゃ、見られない。
フランシス・F・コッポラの『ドラキュラ』(1992)は、なるほど詩編に値いする出来映えだけど、ユーモアというベールは糊塗されない。退廃と虚無のデカダンスからドラキュラは脱したいけども、結局はドラキュラ自身がデカダンの徒であって、次なるステップを踏めないという次第が横たわったままで、水木御大が描いたフッ切れたような何かが暗示されたりは、しない。
ま~、そんなコトはどうでもよろしい。
フランク・ランジェラが演じたドラキュラの品格に、1時間半ほど酔えたから、それでいい。
このヒトは2008年の『フロスト×ニクソン』で、品位の欠けらもないニクソン元大統領を演じて、これも圧倒的だったけど、上品・下品というカタチを映画という枠組みの中でくっきり見せてくれた好例、いい役者だなぁ。
SFXを駆使してド派手な最近の『ドラキュラZERO』や『ヴァン・ヘルシング』の主役たちより格段の深みを魅せてくれた。
エレガントに黒装束をまとい当意即妙の会話でシャレていても、女性の寝室へは壁を這いずって行くしかないシーンとかでは、品性で糊塗しても根は獣性のものである悲しみが否応なく顕わになって哀れでもあって。
と、そんなことにも加えて、ドラキュラの住まう邸宅(カントリーハウス - 使用人の住宅を含めた広大な敷地あるもの)の玄関ホールは天井が高いロマネスクないしはゴシック様式で奥に両階段がなきゃいけないね〜。上流階級のその権力の象徴だ。
どのドラキュラ映画もこれは外せない。ジョン・バダムもコッポラもそこは踏襲だ、木造じゃ駄目、石造りのヒンヤリした永劫性と「無駄と思えるほどな空間掌握」が醸せないと駄目。
という次第でドラキュラは今風なマンションなんぞには住めない。セレヴィアンなドラキュラは、たとえ億ションであろうとも、まったく歯牙にかけないのだった。