ドラキュラ (1979)

 久々、K歯科を受診。

 何もなければ2ヶ月ほど前に出向いてたハズだけど、白内障手術に次いでウィルス騒動……

 タイミングが悪い。

 ともあれ、

「や~や~久しぶり」

 口をあけ、しばし我慢の検診。

 またチョイと通院となるけど、しかたない。

 K氏も子供の頃、『チョンドリーノ君のふしぎな冒険』を読んだという。同世代的共通&連帯みたいな気分も味わいつつの治療。

 先方はマスク越しになんぼでも喋れるがこちとら口あけたままだから、ぁ〜う〜ぉ〜、ケッタイな会話も進行。

 

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 数本、ドラキュラの映画を続けて観る。

 ドラキュラは、歯形を残してくねっ。

 吸うだけでなく、噛むんだね。

 甘噛み、かなぁ?

 

 近頃の映画より、昔のがいい。

 あんがい良いのが1979年作、ジョン・バダムが監督し、ドラキュラをフランク・ランジェラが演じた『ドラキュラ』だ。

 何が良いかといえば、とにかく品が良いんだ。

 1も2もなくそれはフランク・ランジェラという役者の冷やっこい上品さに起因するんだろうけど、そこを踏まえたバダム監督の演出がよろしい。

 前作が『サタデー・ナイト・フィーバー』だったから、”オシャレにきめる”というエネルギーが回転していたのかも知れない。女性と出会ったドラキュラは彼女と踊るが、そのままトラボルタの踊るシーンに直結するようでもある。トラボルタは白できめたがむろんドラキュラは黒装束。

 

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 ドラキュラが歯形を残すのは、むろんに吸血のためだね。

 まず、そっと噛んで、左右の例の牙で傷をつけるワケだ。

 なので、ここで一度彼は唇を離す。牙を対象者の首筋から抜いて、出血したのを今度は吸うワケよ。

 ドラキュラは関西人じゃないから2度づけ、オッケ~、

 で、出血してるのは2ヶ所というコトだよね。そう理解して良いぞ。

 だからドラキュラの唇はその2点間を移動すると思えばいい。

 この微かな移動がゾクゾク。きっと……、吸われるヒトには快感なのだ。

 当然にドラキュラ本人もでしょうよ。被虐と嗜虐の相互作用だな。

 

 ただ1つ判らないのは、あの牙って、細い注射針じゃないんで、あれが刺さるとケッコ~痛いはずなんだ。

 しかし、いずれの映画も痛みは表現されない。

 というコトは、あの牙、あの唇、その唾液に、甘味な麻酔作用ある何かが含まれてると思ってもイイ、な。

 怪しいのが、唾液だ。

 牙をあてがう前にドラキュラは舐めてるのかもしれない。

 いや、そうに違いない。

 1 唇を寄せ、一舐め ちょっとベロつかう 効能としての局部麻酔

 2 牙あてがい、噛む

 3 出血した2ポイント、吸う

 4 唇離して、余韻に浸りつつおわり

 ま~、そういう過程でありましょう。で、2の行為のさい、感染するんだねヴァンパイア成分(ウィルスかなぁ?)が、たぶん。

 

 などと妄想しつつ映画をば眺めましたとさ。

 

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 より大きな昂悦を希求するために自身の欲望を抑制し、それゆえにエレガントに振る舞おうとするランジェラのドラキュラは、もちろん自己中心な魔物じゃあるけれど、魔物は魔物でルールと筋ある行程にのっとって、ただの獣でないというあたりが好感。

 

 耽美で暗鬱な西洋映画に較べると、我らが水木しげる御大が描いた吸血鬼は、陰気なれど陽性な可笑しみがあって、ボヵ~、それも好きだなぁ。

ゲゲゲの鬼太郎』に「吸血鬼エリート」というのがあって、これが珠玉。

 鬼太郎は救済活動をやってるけどボランティアだから、収入なし。ほぼ喰うに困ってる。食べ物のことでネズミ男と口論したりしてる。

 そこに国務大臣(当時の池田首相に似てる)だかが、

「吸血鬼に狙われてるんで護衛してくれ」

 と、願い出てくる。

 成功報酬として、日本国籍の取得を大臣はいう。

 鬼太郎やネズミ男は妖怪だからヒトというジャンルに入れず、なので日本国籍もってない。社会保障を受けられない。

 で、鬼太郎は大臣宅の警護にあたり、おいしいプリンなんぞを貰ったり、スポーツカーをあてがわれたりする。

 それを知ったネズミ男は、

 

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 上のように、憤慨する。

 一方の吸血鬼は、外人だけど久しく日本に住まいし、貯めた血をワイングラスで飲むスノッブな暮らし。

 ギターを弾いて被害者を誘惑するという、なかなか巧妙にして絶妙な技をもってる。クロード・チアリみたいなもんだ。

 甘美なギターの音色がすなわち麻酔的効果を発揮するワケだ。

 ネズミ男は例によって得な側に加担。しばらくは吸血鬼側につく。

 

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ゲゲゲの鬼太郎』「吸血鬼エリート」 サンコミックス版より

 

 鬼太郎VS吸血鬼の攻防は熾烈を極め、かろうじて鬼太郎の勝ち。彼が勝ったというよりメダマの親父の働きでだが。

 戦い後、鬼太郎は国籍取得を拒絶し、カランコロンと去っていく。

 さなか、メダマの親父さんは汲み取りお便所の便槽に吸血鬼に投げ捨てられたりでヒドイめに遭ったりもするけど、総じて、水木的ユーモアと品が、その便槽の汚らしさすらを詩編の中の夢幻情景のように昇華させてらっしゃる。

 こういうワザは西洋映画にゃ、見られない。

 フランシス・F・コッポラの『ドラキュラ』(1992)は、なるほど詩編に値いする出来映えだけど、ユーモアというベールは糊塗されない。退廃と虚無のデカダンスからドラキュラは脱したいけども、結局はドラキュラ自身がデカダンの徒であって、次なるステップを踏めないという次第が横たわったままで、水木御大が描いたフッ切れたような何かが暗示されたりは、しない。

 

 ま~、そんなコトはどうでもよろしい。

 フランク・ランジェラが演じたドラキュラの品格に、1時間半ほど酔えたから、それでいい。

 このヒトは2008年の『フロスト×ニクソン』で、品位の欠けらもないニクソン元大統領を演じて、これも圧倒的だったけど、上品・下品というカタチを映画という枠組みの中でくっきり見せてくれた好例、いい役者だなぁ。

 SFXを駆使してド派手な最近の『ドラキュラZERO』や『ヴァン・ヘルシング』の主役たちより格段の深みを魅せてくれた。

 エレガントに黒装束をまとい当意即妙の会話でシャレていても、女性の寝室へは壁を這いずって行くしかないシーンとかでは、品性で糊塗しても根は獣性のものである悲しみが否応なく顕わになって哀れでもあって。

 

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 と、そんなことにも加えて、ドラキュラの住まう邸宅(カントリーハウス - 使用人の住宅を含めた広大な敷地あるもの)の玄関ホールは天井が高いロマネスクないしはゴシック様式で奥に両階段がなきゃいけないね〜。上流階級のその権力の象徴だ。

 どのドラキュラ映画もこれは外せない。ジョン・バダムもコッポラもそこは踏襲だ、木造じゃ駄目、石造りのヒンヤリした永劫性と「無駄と思えるほどな空間掌握」が醸せないと駄目。

 という次第でドラキュラは今風なマンションなんぞには住めない。セレヴィアンなドラキュラは、たとえ億ションであろうとも、まったく歯牙にかけないのだった。

 

 

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水槽掃除

 

 前々回に庭池と岡山城郭の堀の汚れについて記したけど、今度は、室内水槽について。

 これとて、汚れますがな。

 3週間ほど放置すると、フィルターやら温度調整のヒーターやガラス面やらに、緑がかったコケが生じ、なんとも落ち着かないうらぶれた様相になる。

 水温、餌の量、金魚の糞、あれこれの要素が絶妙なサジ加減で影響しあう。

 生態系の維持と美観の保持というのは実にむずかしい。

 そもそもコケの定義がむずかしい。コケは苔であり藻であったりする。

 さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで

 国歌に登場のコケは、細(さざれ)石が大きな岩に成長し、そこに苔が生じてる長〜い時間を示すわけだけど、そのコケと我が水槽内の緑っぽいのも光合成の産物だから親戚のようなもんかしら。

 

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 コケが生えたわけじゃないけど、閉じた宇宙(くうかん)であったアポロ司令船が月から地球に帰ってくると、ピカピカ新品だったのが、わずか2週間でずいぶんに人間臭く汚れた感触になっているのにも、興味をおぼえる。

 アポロ8号の月周回飛行では船長のフランク・ボーマンがひどく船酔いして何度も嘔吐しちゃって、そのたびに船内に吐瀉物が散って、3飛行士は掃除に追われるやら匂いにクラクラやら、掃除出来たと思ってたのにまた何ぞが浮遊してきちゃったりで、ひっちゃかめっちゃか。閉じきった宇宙(スペース)というのは、窓開けて新鮮を吹き込むことが不能なんだから、ま~、しかたないとはいえ大変な”3密”であることは間違いない。

 

 トム・ハンクスがプロデュースに加わったTVシリーズ『From The Earth To The Moon』は、アポロ計画の全体像を浮き上がらせた大秀作だったけど、ボーマン船長の奥さんアルコール依存症に陥ちいって難儀する)役だったすごい美人がいて、「へぇ、綺麗なヒトやなぁ」と関心したが、このシリーズ後にトム・ハンクスと結婚。

 

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『From The Earth To The Moon』第4話「はじめての地球」より

デヴィッド・アンドリュース演じるボーマン船長。吐く寸前。右のヒトね。

 

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『From The Earth To The Moon』第11話「勇気ある妻たち」より

依存症克服のために入ってる精神科施設でのボーマン夫人と面会に来たボーマンの交流シーン。右がトム・ハンクス夫人となったリタ・ウィルソン。

このシリーズは華やかな月着陸がテーマながら、その背景での人生模様を描いたことが素晴らしい。ちなみに離婚率が高い宇宙飛行士カップルのなか、ボーマン夫妻は今も一緒にいらっしゃる。もう90歳半ばかな。

 

 このまえ、コロナ・ウィルスに感染しちゃってハンクス夫妻が隔離されちゃった~のニュースがあったねぇ。2人とも復帰で良かったよかった。

 それはおき、さすがにTVシリーズでは宇宙船内の異臭までは伝えきれないけど、人体あるがゆえの汚れていく感覚は、ま~ま~、味わえた。

 

 夜になりきった直後の川辺で見るホタルの乱舞は、束の間の夢幻世界めいた光臨を見せてくれ、事実一度、数年前、山口県の某所でわたしとわたしの仲間は、希有な事象めいた不思議を味わって目元をウルウルさせたこともあるのだけど……、

水辺環境としての実際は、多様なはずである自然界で1種類のみが大量発生するというのは、あまり適正な自然とはいえないのだった。

 

「原生林の中では、ホタルは群舞するほどたくさん生息しません。特にゲンジボタルはあまり清流だと幼虫が生きられない。数が増えるのは、ホタルが人間の作った田園環境に適応したから。適度に汚れていて、隠れ処もあり、餌となるカワニナもたくさんいるから、大発生して飛び回るわけ……」

 

 淡水生物研究所の森下郁子所長は、『「森を守れ」が森を殺す』(田中敦夫著・新潮OH!文庫)でそう云ってる。

 夢もチボ~もない云い方だけど、ヒトのロマン感情とは別、実像とは、ま~、そんなもんなんだろう。

 この場合、ヒトが作ったある種の汚れある環境がホタル乱舞を促すワケなのだ。

 

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 結局どういうコトかといえば、ピカピカ新品でもなく、ひどく汚れたのでもなく、適度に汚れつつで循環された環境というのが、まさに適度に良いのかな……、というような結論。マッ、ありきたりなハナシじゃあるけど、という次第を受け入れつつ、室内水槽をば清掃する。

 視点を変えて云えば、”汚れる”というのは悪いコトだらけでなく、良性な面も多。

 だから、ちょっと手を抜く。

 徹底的な掃除、しない。

 

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 ガラス面のふき取り

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フィルターの汚れ

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フィルターの交換とパーツの清掃

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濾過器のモーター部分を分解して掃除

 

 だいたい判ってきたのだけど、尾っぽが長くて優美でヒラヒラしたタイプの金魚は、遊泳がヘタなの。

 本人の意思でなく、優美なカタチがゆえ逆にそれがスイマーたるを阻害し、尾っぽの短い流線型の金魚に較べると、餌を食べる行為1つが、とてもブッサイク。

 狙った餌にたどり着く時間も、それを口にいれる時も、かなり難儀してる。

 わけても水面に浮いてる餌の取得に苦労イチバン、身体を上向きに保っての遊泳に不向きだ。

 だから同じ領域に住んでいても流線型タイプのヤツの方がたくさん餌にありついてる。

 当然、体躯に差が出てくるワケだ。

 なんとも気の毒というか……。

 この遊泳ベタがせっかくの餌をにがし、フィルターがそれを吸い込む。

 結果として水質が富栄養化して悪くなる。

 ま~、そんな悪循環だ。

 

 6月になったら、金魚どもは庭池に移そう。池は池でアレコレな面倒もあるけど、遊泳面積は日本国土からオーストラリア大陸に変じるというのは大袈裟にしろ、やたら広い場所となるから、泳ぎまくって足腰強健になってもらおう、と願う。

 足ないけど、ね。

 

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蟄居解除はまだ

 

 この前の週末、馴染んだBARに出向きたい気持ちを、かなり必死にこらえ、

「もう一週間ほどは我慢すっか」

 と、自分を鼓舞して部屋に留まった。

 そも、帰宅可能なバスがない。5月末までバス運行も自粛モード、夜8時過ぎが最終となってるんだからアジャパ〜。

 

 巷ではオンライン飲み会なるものが話題になったりしてるけど、

「馬ッ鹿じゃない……

 との感想しかない。『集まる』ものから『つながる』ものへと、ご時世は変わりつつあるとは了解するけど、酒をツール的方便に持ち出すな、と苦い顔になる。

 

 新たな生活スタイル、だの、ニューノーマルだのの、提言が政府やらやらから、なされちゃ~いるし、オンライン飲み会なるケッタイなつながりもそういう空気の中で醸造されたんだろうけど、

「そんなもの……

 求めてもいないし、云ってる連中にどれほどの認識と見識と確固たる未来像があるのか、知れもしない。

 要は、こちとら、このウィルス騒動以前に、ただただ戻って欲しいだけなんだ。

 自粛のアレコレがジンワリと解除されつつあるとはいえ、ウィルス脅威から解放されたワケでなく、むしろ、危ういバランスの上に乗っけられ、一歩誤れば、もっと大変なコトに……、という感じの方が強い。

 

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                 一応、この黒いのは……

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                  顕微鏡なのです~

 

 ウィルスは、

人・間・み・な・平・等・に・扱・う

 という一点で、強いインパクトをあたえてくれる。

 国籍、地域、身分、収入、など問わず、いちりつ等しくヒトと接しようとしているワケで、この一点のみ、ヒトはこいつに学ぶべきじゃ~ないのか……、と思ったりもさせられる。

 感染し、実に不平等に扱われ亡くなった大勢がいる。それはウィルスのせいじゃない。元凶じゃあるけども、28歳の相撲力士がひどい症状でありながらチャンと診てもらえぬままに没したという一例にある通り、人災だ。

 けども、そのことで罪になるヒトもいない。責任はウィルスにありというワケで、どうも妙。おびただしい無念のみが体積している。

 

 騒動後、ヒトが新たな生活スタイルを確立させるとは思えないけど、大きな教訓を提示してくれたとは、思う。

 これを活かせるかどうかが命題だけど、先進国に真似たマイナンバーカードの馬鹿馬鹿しさ同様、カ・タ・チだけがまたやって来るんだろうなぁ。

 

 多くのヒトがきっとそうだったろうけど、在宅時間増加で、それでVideoを観たり本を読んだり……、だろう。amazonを見ると、DVDの多くが「一時的品切れ」の状態だ。

 わたしの場合、たまさかMac環境がガラリと変わったもんだから、それに気をとられたりもして、それはそれでソコソコせわしなく、かつ、おもしろくはあった。

 

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 キーボードが変わると、新鮮と不満をいつも味わう。

 最新のアップルMagic Keyboardはペチャンコでフラット過ぎ。ノートブック的なテーストをデスクトップに持ち込んでデザイン統一を図ったようじゃあるけど、使ってみるに気持ちまでフラット平坦で、気がのらない。

 それで100Shopで素材買い、下部に噛ませて傾斜をもたせたりして、馴染めるよう仕込んだりした。

 四六時中使う道具というのは、微かな変化でも大きな違和をおぼえるもんだ。

 もちろん慣れてしまえば、不満というのは薄まるものだけど、過去に使ったキーボード達を並べてみると、その変遷に自分もまた合わせて文字を打ってたのか~、と感慨深い。

 個々のキーボードにそれぞれ自分の方から歩み寄らざるをえないワケで、そこを思うとちょっと不思議っぽい、飼い馴らされるような感じもなくはない。

 

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 年々歳々にキーストロークが短くなってる。かつてのタイプライターみたいに叩き打つという感触から、ソッと触れるや文字が出ちゃうみたいな感じになってる。

 キーとキーに隙間を作ってペッチャンコなキー配列、いわゆるアイソレーション設計というヤツだけど、それが何やらそぐわない。感覚として頼りない。指の動きは少なめになって「押す」というカタチから「タッチ」程度になって、指の負担は軽減とは判るものの、『書いてる』感じが薄いのがいただけない。

 かといって、試しに古めのキーボードを接続して、あえて比べてみると……、これはこれでオーバーアクションにも思え、さ~さ~、困ったもんだ。

 いまだ、

「こりゃメッチャいいやぁ♥」

 に出会えていない。

 キー入力はバーチャルというワケにいかない。アナログとデジタルの接点。出会いと慣れの混成が要め。

 ジッポーのライターみたいに、もはや普遍にして不動という領域にまで、まだキーボードというのは発達してないような感が濃厚。

 

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 発達といえば……、庭の山椒がメチャに葉を拡げた。

 トゲが危なっかしくていけない。ジャジャっと剪定。

 剪定中、良い香りが周辺に散って、何やらチラシ寿司を食べたくなった。

 山椒、のっけるでしょ? 皆さんも……。

 ウィルス騒動が失せたら、大懇意のBARに、

「にゃ~にゃ~、ちらし寿司大会しようよ~~」

 日本酒前提のパーティを提案したいザンショな気分。もちろん山椒たっぷり持参しますゆえ。

 

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庭池の水換え

 昨年末からズッと放置の庭池の水を、取っ換え。

 昨年末に金魚どもを室内水槽に移してるから、気づかうことなし。

 水中モーターを沈めて水を抜く。

 魚がいなくとも半年放置で水は汚れてる。

 枯葉が沈んでユルユル腐敗し、さらなる枯葉が幾重と浮いたりで、どんより澱んでる。

 その澱んだ中で睡蓮が葉をつけ、色もつけ始めている。(冬季は葉はないよ)

 

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 作業しつつ、明治の時代を思った。

 いや、あのね、エエカッコで云ってるんでなく、モーターが動いてる間ヒマなので、水深が下ってくのを眺めつつ、空想を浮雲みたいに流してみたのさ……。

 

 明治となって岡山城は廃城。

 新たな街創りがはじまり、張り巡らされていた堀の埋め立てが企画された。

 これがとても大変だった。

 明治8年(1875)にまず外堀の水を抜き、埋めた。

 外堀というのは城郭の1番外周にあるものだけど、岡山城の場合、その内側に武家あり民家ありで、ややこしい。お城と曲輪(くるわ→城下町)を含めての城壁都市というカタチだ。

 現在の新鶴見橋付近から番町方向に延びたこの堀は、番町(江戸時代はやや下級の武士が住んでた)から南方面へ直角に曲がってまっしぐら。京橋の下流あたりまで、3キロも続くでっかいものだった。

 堀を渡るための橋が5つあり、付随して門があった。

 最北の伊勢宮口門、現在の柳川ロータリーに山崎町門、ずっと南下して常磐町門、大雲寺町門、紺屋町門。

 堀を渡って門をくぐるとそこからはお城の領域だゾ~ン、武士もいるから気をつけろヨ~ンという次第だが、西方面からの侵攻を考慮した最大にして最長の外堀だったから、幅広く、水深もかなりのものだったと推察できる。

 

 これを撤去、埋め立てて初めて城の縄張りという呪縛から離れることができる。新たな街作りが出来るワケだ。

 大工事だった。水中モーターもなければ重機もない。すべて概ね手作業。

 水を抜き、両サイドの石垣を壊して埋め、そこに旭川から採取した砂利を埋め、さらにどこかから運んできた土砂で埋め立てた。

 5月に工事ははじまり、9月に完工。

 けっこうな速度。猛速といっていい。

 この4ヶ月に渡たる埋め立てで、現在市内の太い導線たる道路が出来た次第。埋め立てた明治の時代には市内最大幅の道路だから、京橋方面から番町にかけての物流の中央道になった。

 

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 番町交差点からの眺め。堀はほぼこの幅だった……。より正しくは下図の通り(写真上部の青ライン)で、この写真部分の左付近がお堀にあたるが、幅は同じ。グーグル・ストリートビューにて

 

 以後、岡山県岡山市は乏しい予算をやりくりしつつ、城のやぐらやら城門などを破却しつつも、中堀、内堀といった水路を埋め立てていく。

 

 天神山の外周をめぐり、やや細いながら2キロ続く中堀は、明治14年になって埋め立てた。

 旭川と結ばれていた石関を撤去して埋め(石関町という地名は今に残る)て水を断ち、外堀同様な工事を進めた、

 この時点までは、今の天神町のオシャレな写真館・島村写場のすぐそばに北之橋(通称甚九郎橋)があったワケで、橋のたもとにあった祠が移動し、甚九郎稲荷が誕生するきっかけにもなる。

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 内堀(三之曲輪東豪)は明治30年から42年まで、12年も工事が続いた。

 殿さんの居住区を守るべきのお堀だから、面積と深さが頑強で、工事は遅れに遅れた。

 現在のオランダ通りはこの内堀の西側面にあたり、シンフォニーホールの場所はほぼ半分が水中にあった。

 なのでオランダ通りをシンフォニーホールから天満屋方面に向けて歩くさいは、その西側はお堀であって、自分は堤を、水辺のそばを歩いてると想像すると、ちょっとおもしろい。

 我が友がやってる美容室もCoffee&Barのコマンドもこの時代にゃ、水中なのだった。

 堀の全埋め立ては、大正6年の終わり頃になってやっと完了した。財政不足に人力確保など、一気に進められなかった苦労がその長い歳月にシミシミ沁みている。

 

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           オランダ通り。明治まではここは堤で左側は堀だ

 けど今思うのは、岡山池田藩がなくなって、堀が埋め立てられるまでの水のことだな。

 その間は管理出来ていないんだ。

 藩が機能していた時には、藩からお給金をもらった管理者がいて、わずかながらも常に流れもあって、ある種の鮮度が保たれていたはずながら、管理出来なくなるや、堤は雑草が繁り、水はよどみ、部分は腐敗して水面に泡が浮くようなアンバイ。

 だから放置期間が長引くに連れて、異臭漂うような惨憺たるものだったよう、思える。

 侍どもがいなくなった途端、その堀に向けて腐れた生ゴミを捨てたり、立ち小便するようなヤカラもいっぱい出てきたに違いなく、明治期の市内におけるたびたびのコレラ(経口感染で小腸に留まる)赤痢(大腸に留まって血便をおこすから赤痢の発生は、それら破棄された堀の水が原因の1つと、いっていい。

 岡山市に水道が出来るのは明治38年(1905)、かの亜公園が閉園した頃だから、それまでは全部、井戸。

 井戸水と堀の水は地下で結託、よからぬ細菌もまたそこで結ばれていた……。

コレラによる死者と思われる統計数字:明治19年岡山市内で1821人。明治25年は5697人)

 

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 ま~、我が庭池は、お城の堀とは比較にならないスーパー・ミクロな存在じゃ~あるけれど、水が汚れていく現象というのは観察はできる。マクロ視座では岡山城のお堀と大差ない。

 

 47NEWSが紹介していた取り壊される前の江戸城貴重な写真たちを参照するに、江戸城であっても、このような惨状だ。これら(↓)は明治4年から6年にかけて撮られたらしいけど、もうこの時期でこのように荒れてるんだからビックリだ。

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 上2枚は47NEWSのHPの画面コピー。下の写真では水上に大量の浮草というか、ゴミの堆積の上に草が茂ってるような荒れっぷりが判る。石垣の一部も壊れてるのかな?

 

 管理され循環している環境と、そうでない環境……。

 荒廃の速度が速いんだ。ちょっと考えさせられる。

 

 荒廃といえば……、ウィルス騒動のドサクサに、検察官の定年延長を強行採決してでも進めようとするAbeとその仲間どもの降るまい。三権分立を冒して民主主義を荒廃させてしまうムチャ。

 原田眞人監督は『検察側の罪人』で法を逸脱して正義を遂行しようとするエリート検察官をキムタクに演じさせたけど、それとは比較にならない根本的な逸脱。コロナ・ウィルスにAbe・ウィルス。心底おぞましい。

 

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 さてと、池の水換え完了。

 金魚はまだ……、室内に滞在させておこう。

 どういう次第か庭池周辺に、バラが生えている。

 植えたワケでなく、勝手にあちこちで芽を出す。

 こういうのは風が運んでくるのではなく、鳥が運んでくる確率が高い。バラをくわえて来たのではなく、その糞だ。

 フ~ン……。

 良き肥やしと共に土に落ちたそれは直ぐに芽吹いてくる。

 トゲが苦手ゆえ、敬遠、雑草扱い……、”野生のバラ”は引っこ抜く。

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 しかし、バラめはあんがい根が太く長い。地表に出た緑とほぼ同じ長さで根を拡げる。

 手では容易に引っこ抜けない。

 スコップで土掘り返す。

 昔に流行った、「マ・ベビベビ・バラバラ~♪」なんちゅう歌のフレーズを口にしつつ。

 

スペーストラッカー

 続く右往左往。

 自粛要請は緩和されつつも、状況好転、とは云い難い。

 くわえて、ろくな具体策提出できずのリーダーの、信仰めいた情緒発言が大黒柱じゃ〜、安堵できない。

 

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 愚鈍豚足政治がもたらす中央と地方のギャップと、虚実ごった煮の報道と、なにより怖いあちゃこちゃ潜んでるらしきウィルス……、この3重苦。

「いいのかなぁ?」

「たぶん、ね~っ」

 程度な根拠ない希望的観測でもって、アレコレ行動するっきゃ~ない。

 悩ましい。

 

 汚染感覚が背にはりついてる。

 高じて、それで鬱になっちゃったというヒトのことをアレコレとニュースが伝えてる。

 さもありなん。

 けども一方、「なぁ〜んとなく」に収束しちゃった〜みたいな空気が今度は出て来はしないかと、それも不安。

 

 この1月~5月、周辺で、風邪をひいたとかインフルエンザになっちゃった……、という声は、逆に聞こえなかった。不思議。

 

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 数年も経てば、こたびの騒動の渦中で生じた諸々を題材に、小説やら映画やらが、必ずや創られるでしょうね~。

 だぁ~れもいない繁華街とかブロードウェイとか、稀有でレアなビジュアルがえられるから、ヒト知れずきっとカット、ガッツリ記録映像が撮られてるはずだし、当然にそれを有効活用したくもなるでしょうよ。

 

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 ウィルス騒動で映画館というカタチの維持が難しくなってる。こういう場合の脆弱さが顕わにされたといっていいか……。

 ネット配信して課金するシステムでけっこうな収益が出ると判ってきた映画製作の側と、映画館との関係が、この先どうなっていくのか……

 映像を眺めるという行為はこの先さらに肥大し裾野が広くなるはずだけど、それをどこで、どう観るか、一昔前とは環境が変わり、経営規模の小さい映画館にはアタマの痛い問題でしょう。

 プロジェクターとスクリーンでホームシアターが構築できるようになって久しく、映画館にとっては、これも、いわばライバルだろうし。

 

 しかし映画館の最大ポイントは、複数で出向けて観賞でき、そのアトで映画のことをア~ダコ~ダと云いあえるっていう点でしょ。

 云いあうのは映画館じゃなく、近隣の居酒屋さんとかだけど、仲間と時間あわせて合流で共に映画を観て過ごせるという、そこだよね~。

 そう、特別な場所という位置づけね。

 そのポイントをどう維持させてくかが、このさきの課題だなぁ。

 なんといってもデートに最適じゃないか。

「ボクちゃんのお部屋のホームシアターで映画観ない、ウフ♡」

 なんて~の、サイテ~最悪でしょ。

 デートには映画カ~ン!

 2人で共通体験してる場としての映画館というのがメチャ大事なのさ。いやさ、映画観てる間は2人は会話しないけどね、他にないでしょ、このほぼ無言なれども2人の間の垣根を大いに溶融してくれる場所って~のは。

 

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 なんちゅ~て理屈云ってるワタクシめ……、1人、ホームシアターで観ましたのは、『スペース・トラッカー』。

 これ、1966年のSF映画ですけど、とてもオバカでノリが良く、

「ホントはお利口さんだけど、それをどうやったらアホ~にみせるか」

 をキモに、製作者一同・出演者一同が超真摯に挑んだ怪作。

 

 宇宙をカッ飛ばす二人のトラック野郎と一人のスペース・ウェイトレスが、地球を守ってしまう物語。

 

 このキャッチ・コピーでもって深刻な内容でないことは自明。

 

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 当時第一線で活躍の韮沢靖、空山基、スクリーミング・マット・ジョージといった日本人クリエーター達も参加で、主演がデニス・ホッパーなんだから、すばらしい。

 

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 初見は10年以上前、スター☆チャンネルだかでの放映だったけど、ニヤニヤしつつ愉しんだ。

 で、こたびDVDにて再見。

 とはいっても、この作品、DVD販売の初期に出たっきりで、今は絶版。

 ワタクシとしてはこれ名作に価いしてると思い決めてるのだけど、ね~。

 

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 チャールズ・ダンス演じる悪者のブッ飛び方が圧巻の悪漢っぷりで、あれよあれよの展開にメダマくらくら。

 この悪漢、気の毒にも身体メチャクチャ。半機械ニンゲン。

 なので男性機能もダメなの。

 それで機械仕掛けのナニを下半身に取り付け、幽閉したベッピンのヒロインにナニしようと孤軍奮闘するあたり、大笑い。

 そういう描写もあるんで、家族向きでなく、初デートにも向かない。

 

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 名作と書いたけど、いわゆる感動作じゃない。

 要は、50年代末頃のチープなSFムーヴィの味覚を90年代テクノロジーで再現したというだけがポイントの映画。

 その上で「エイリアン」、「ロボコップ」、「2001」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、「スタートレック」に「スターウォーズ」、さらには珍作というかポルノ映画だった「フレッシュゴードン」なんぞの美味しいところをチョイと真似て、ごっつあんでした~のちゃんこ鍋。

 ま~、だからこそ好感してる1本。

 1時間半強、だらだらとビール呑みつつの観賞に、最適。

 見終わったアト、「ぁぁ、愉しんじゃったなぁ」と淡雪みたいな気分になるものの、な~~~にも残らないのが清々しい。こういう映画と時間も大事。

 

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『スペーストラッカー』でのチャールズ・ダンス。いっけん怖いが、実は大笑いのビジュアルです

        

 ちなみにチャールズ・ダンスは悪役がすごくお似合いの役者だけど、脚本&監督作品もある。下写真↓

 これは名作に価するというか、記憶喪失の音楽家が浜辺で発見されるという内容が、英国封切りのすぐ後に現実に起きてピアノマン事件)、かなり話題になっちゃった作品。(ワタクシは未見)

 この映画のサウンドトラック「Ladies in Lavender」が流麗なもんだから、フィギュアスケート界では定番、今も頻繁に使われてる、らしい。

 

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 ダンス本人は本作やら長年の役者業でエリザベス女王から大英帝国勲章ももらい、ゆとりでチャールストン・ダンスしちゃえるくらい元気。

 10月誕生というから74NOW。さらなる悪役っぷりを期待。

  

カレーライスが産声あげた頃

 希有な連休。

 買い物程度のお出かけはあるものの、若い夫妻が住まう隣家も、向かいのやや若い夫妻のところも、そのお隣りさんも、みな車庫に車があった。

 拭えない不安。窮屈と退屈。でも微かにおぼえる状況の可笑しみ。

 アレコレないまぜ。

 みながみな自宅にいるもんだから、この機会にと不用なのを片づけたり。家庭内調理が増えて、週2回の燃えるゴミもやたら多い。

 

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 さなか、道路にはみ出た紅カナメとキンモクセイを剪定。

 路上に脚立をたてて作業するも、あんまり車も通行せずで、楽勝な作業。(大きな袋でゴミ出した)

 隣家のK君も、庭先で何ぞゴソゴソやってる。

 のどかといえば、のどか。

 ニンゲンがニンゲンを取り戻したような情緒気分が、なくもない。

 もちろん、この気分は我が宅より数十メートルの狭い範囲のこと。全般ではちょっとした監視社会みたいな腐臭ありで、それがいつ町内レベルにまで浸透してくるか判ったもんじゃ~ない。

 

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                    剪定後のスッキリ

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                連休中に赤みを増した庭のイチゴ


 スーパーでは小麦粉やらパスタの棚がほぼ空っぽ。

 時間があるし子供もいるから自宅でパンやらクッキー焼いてみるかぁ、というアンバイなんだろう。

 同時多発でバナナケーキなんぞを焼き焼きで、非日常っぽい日常をうっちゃってるんだろう。

 近頃はレトルトに押されて家でカレーを作るというのが減少してるそうだけど、ウィルス騒動で蟄居してるなら、工夫こらしたのをコトコト煮るのもイイもんだ。

 てなコト書きつつ、こちら、LEE辛さ10倍をまた密かにいただいたけど……

 

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         ヤマザキのレーズン入り食パンの甘さがLEE の辛さに意外に似合う

 

 カレーについてはこのにも触れたけど、その萌芽期というか黎明期の実情をまさぐってみると、随分におもしろい。

 複数の本と昔の資料で、明治時代のライスカレーのことを学習。

 明治は45年間続いたけど、幾つか本をみて考察するに、カレーで区分するとこの時代は3つに分けられる、と思う。

 

 ■ 導入期 明治20年頃まで

 ■ 浸透と改変期 明治2030年代中頃

 ■ 土着期 明治30年代末~45

 

 導入期。印度の香辛料が直に入ってきたんじゃない。

 ロンドンのカレーパウダーの製造会社クロース・ブラックウェル(&B社の缶入り製品が、日本でのカレーの基点といっていい。

 英国は16世紀末から何やかんやと印度方面に圧力をかけて、1858年には印度を完全に植民地化したが、印度という風土が育んだ食材(香辛料)もまた摂取した。

 当時の英国の食の光景は、週に一度大きなビーフを焼き、晩餐として盛大に食べ、その残りを翌日から次週までアレコレ味を変えて食べるというのが極く一般的。

 イギリス料理がまずい(過去形ですが)というのは、週6日は残り物を食べるというこの習慣に起因した。

 そんな風習的食事に、印度の香辛料を英国人の舌にあうよう調整して販売したのが&社で、これは大ヒット。

 つまらない味付けの夕げに、大きな刺激的味覚あるものとして貢献した。

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 C&社製のこのパウダーは仏蘭西にも入って、かの仏蘭西料理もまた、その登場で新たな味覚のドアをあけることになる。

 さすが仏蘭西、すぐに、 Riz Au Curry というドライカレーの原型みたいなものを産んでいる。カタカナで表記するとリ・オ・カリーと書くのが妥当か。肉料理に添えるポテトみたいな位置づけ。

 

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                 riz au curry
      

 日本の場合は、日本にあって日本でない外国人居留地での、外国人による外国人のためのホテルでの&カレーパウダーの使用が、スタートになる。

 肉にかけるソースとしての使用だったようだけど、その厨房で下働きした日本人がやがて独立し、自身の西洋料理店を持つなどして居留地以外の場所で、カレーの味をばらまいてく。

「辛味入汁掛飯」

 という、おしながきが書かれるようになる。

 カラミイリシルカケメシ。元祖ライスカレーだ。

 仏蘭西語でいえば、Curry Au Riz 

 カリー・オ・リと、リ・オ・カリーがひっくり返っただけだけど、ライスにかけるという風合いがこのひっくり返りで顕わになる。

 汁掛飯を「らいすかれえ」と云い出したのは、札幌農学校のクラークだという説もある。

 Boys, be ambitious like this old man.

「少年よ大志を抱け、この老人みたいに」と云ったウィリアム.S.クラーク博士。

 余談だけど、多くのヒトは、「この老人……」の部分を知らない。老人とはクラーク本人ですけど、なんかそ〜云われちまうと、ちょっとこの先生にカチンとくるような感もなくはない。少年よ大志を抱きなさいだけならカチンはないけど、自分を手本にせよと云われるとねっ。

 

 とはいえ日本のこの時期は、まだ西洋料理の食材がない。

 ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、普及していません。

 牛肉も、それようの飼育牛は数少ないし、屠畜場も数少ないし、場所も限られる。

 牛は割りとたくさんいたけど、農耕で働く大事なものだったから農家は手放さない。

 なので流通途上。

         

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 明治5年の『西洋料理指南』では、

「葱一茎、生姜半個、蒜(にら)少し許(ばかり)を細やかにし、牛酪大さじを以て煎り、水一合五勺(せき)を加え、鶏、海老、鯛、蛤、赤蛙等を入れてよく煮、カレー粉一匙を入れ煮る。熟したる時、塩を加え、また小麦粉(うどんこ)大匙二つを水にて解きて入れるべし」

 とある。

 小麦粉に "うどんこ" というルビが可笑しいけど、ネギやタイやハマグリやアカガエルというのは驚き。

 が、肉の基本はギュ~ではなく鶏肉だったのが、これで判る。

 当時の鶏肉といえば、黒い羽毛で覆われた軍鶏(しゃも)が一般に流通してる。幕末、かの坂本龍馬の最後の食事となったのもシャモ鍋だった。もっとも彼と中岡慎太郎はそれを食べる前にやられてしまうのだけど……

 ともあれ、日本ライスカレーに入る肉の最初は、ギュ~でなくブ~でなく、コケコッコ~なのだった。

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 それが明治2030年代では、野菜は栽培地が増え、牛肉はそれ目的の飼育が増えてくる。

 牛肉、ジャガイモ、およびニンジンの流通と生産が増し、ライスカレーに用いられるようになる。 

 馬車しか運送手段がないから遠方に運ぶほど鮮度は落ちる。牛肉は肉質良好という次第ではないにしろ、鶏肉から牛肉へと変じてるのがこの年代。

 ライスカレーという固有名詞が定着してくのも、この年代だったろう。

 もしも日本人の舌が鶏肉のそれにチョ〜大喜びだったなら、牛肉への変換はなかったに違いなく、今もカレーといえば鶏が主流ということになったかもしれないけど、ありがたや、その味に満足しなかったワケだ。

 

 しかし、明治30年代後半、突然に牛肉の流通が悪くなる。

 なぜか? 

 日露戦争の兵員派兵だ。

 兵の食糧の1つとして牛肉の缶詰が大量に作られてくんだ。

 缶詰用として屠畜される牛はそれまで1日40頭だった。それが兵隊用のを量産のため1日あたり500頭が必要になった。

 だから一般への流通が悪くなった。

 

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      日本缶詰協会・80周年記念パンフレットより 缶詰製造の当時の絵

 

 さらに、いざ戦争のフタがあくや、露西亜兵の捕虜がどんどん増えてった。

 その数、7万2千人。

 国内29都市の寺や神社境内に分散されて作られた収容施設に、それだけの捕虜がいる。

 当時の日本は白人捕虜に対する扱いが比較的キチンとし、それなりの食事(自炊だから食材)を提供しようと努めてる。

日清戦争での中国人捕虜への劣悪に較べて随分な厚遇っぷりゆえ、欧米列強に向けての日本は国際法を遵守した文化国といったアピールが根底にあったとの説がある)

 

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 捕虜生活中、本国より家族がカメラを送ってきたりしてる。だから、けっこう写真が多数残ってる

 

 ともあれ彼らのためにも、牛肉が大量に必要になる。

 そのため、明治37年に10貫目(38キロ)14円だったのが翌年には26円と、アッという間に倍近くまで値上がり。

 1番に困ったのは大流行中の牛鍋屋だったようだが、ここでは触れない。

 こういう次第が巷の西洋料理屋のライスカレーに影響をあたえた。

 

 そこで代用品が登場する。豚肉だ。

 小菅圭子著『にっぽん洋食物語』によれば、明治30年代までの日本では、豚肉の統計数字がまったくないそうだ。

 ということは、それまでは食材として流通していないワケだ。

 琉球や鹿児島じゃ~常食されてるけど地域の食材でしかなく、大半の日本人はポークの味を知らなかった。

 それが戦争で大きく変化した。

 

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 関東方面では今もカレーといえばポークカレーだが、これは、日露戦争ゆえの産物なのだった。

 一方で関西は、神戸、近江、松阪などなど牛の産地が拡大して需要をまかない、ポークカレーの浸透を阻止……、やがて後年、その飼育牛はブランド化へと進んでくけど、この時点でもっていわば土着するように、ポークとビーフという二大分布にわかれてった。

 という風に解釈してもいいかな。

 

 日清、日露の戦争はもちろん平時でない。有事だ。

 捕虜は静物でない。囚われているが食事をとる。そのために彼らの口にあう牛肉を提供しなきゃいけない。

 有事というのは鉄砲の撃ち合いで前へ前へと進行するだけでなく、そのはるか背後のライスカレーすらも、プルンプルン揺さぶるのだった。

 

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                        今回に参考にした本たち。

 

 

カート・ヴォネガット2本立て

 前回のブログを書いた頃に、Mac Proがメチャに不調になってた。

 修復に時間と経費がかかる公算が大きく、修理は断念。

 

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 過去何度かの不具合は本体設置場所(半地下で床置きで湿気含有が高いと思われるコンクリート壁ぎわ)が元凶かもと考察し、床置きでないタイプとしてのチョイス。

 あえて、iMacに変更。

 嬉しくない……。

 登ってもいない山から急に下山させられるような急な展開が落ち着かない。

 Mac Proから複数の内蔵ハードディスクを外し、外付けのケースに収納し直し、それらがiMac上で可動すべくChikaちゃんに作業してもらう。

 

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               セッティング中のChikaちゃん  

      

「まっ、いいじゃないですか。まもなく国から10万円入るんだから、1/3ほど助成してもらうと思えば」

「ヤダよ。iMacじゃなくAbe Macになっちまう」

 そんな刻印いらんわい……、交換作業中、ブ~ブ~、ウィルス騒動の不満を口にした。

 とはいえ、外出自粛のさなかに駆けつけてくれたChikaちゃんには感謝ビッグ。

 迷える老羊と化しかけた当方には有り難い光の存在。

 

 復旧の安堵とリニューアルでのサクサク感とiMacの5Kモニターの鮮明に驚きつつも、慣れるんかしら、既存モニター2つを活かしたトリプル・モニター仕様。

 2mに近いテーブル幅いっぱいのコックピット感に威圧されつつ、しかしこれはこれで半日も経つと、利便と操作の容易さに、もう元に戻れないかも……、とも結果オ~ライで思うのだった。

 

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 けどもまた一方では、Macが新たになるたび、このパーソナルなコンピュータにかつては感じた”自由っぽい”エッセンスが剥離し、パーソナルを型枠にはめ込むような「おせっかいな仕様」のアレコレの増長に、

「うむむ……」

 な感想もまた肥大するのだった。

 

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 映画を2本、DVDで観る。

 どちらも原作がカート・ヴォネガット・ジュニア

 1本はもう何回も観た『スローターハウス5』。

 1本は、これはつい最近まで存在を知らなかった『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』。

 え、そんな映画あったのか……、と慌てたらあんのじょうもう絶版になっていて、しゃ~ない、amazonで中古DVDを買った。

 1973年のヴォネガットの『チャンピオン達の朝食』が原作で、主役がブルース・ウィルス。『アルマゲドン』を撮った翌年、『シックス・センス』を撮る前、1999年作品。

 なんでこの映画をボクは知らなかったんだろう? それに、たしか文庫本を持ってたはずなんだけど、書棚にない。

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 ま~、それはどうでもいい。

 ヴォネガット作品ではお馴染のキャラクター、キルゴア・トラウトアルバート・フィニーが演じてる。

 

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■ 『スローターハウス5

 これは原作を先に読んだか、TV放映を先に観たか、もう記憶がないけど、呆気にとられたような面持ちで接し、時間と時代と空間が観覧車みたいにクルクル廻ってる展開にずいぶん衝撃させられたもんだった。

 いや、観覧車という例えはダメだ。均一に一方に廻ってるのじゃない。主人公が置かれるのは予想できない「痙攣的時間旅行」で、42歳のある時フイに27歳のある時の自分に戻ったり、病院のベッドに横たわってる内フイに時代の違うドイツだかベルギーの雪中に寝そべっていたりするが、その雪中の冷たさは既に主人公が経験している過去でもある。

 原作に出てくる、あの有名な”So It Goes,”という言葉はこの映画では出ていないけど、知らず、

「ま~、そんなもんだ」

 と、ボクはボクなりに日本語をあてて、しっかりこのフレーズが好きになって随分に久しい。

 日々眠るたびにみてる整合性のない夢みたいなアンバイながら、1つ1つのシーンは明確で、なぜならそれは主人公ビリー・ピルグリムの実体験であって、ドレスデン空爆による捕虜体験やらトラルファマドール星でのポルノ女優との動物園での素晴らしい生活やら、そして自分の死がどのようなものでどのように訪れるか、やらやらが、ランダムに突然にめぐって、その一方通行でない時間概念の持ち出しに、かなり驚いたもんだ……。

 そも時間そのものが1つの”次元”で、その次元のさなかに個人存在というものが断片のようにあって、生誕も、戦争も、恋も、死も、その時間次元にあっては断片、だから死は最後に来るものではなく恐怖でもなく悲しいものでもない……、というようなアンバイの連輪に若いボクは随分と感化されたもんだ。

 生まれ変わる輪廻な仏教世界でもなければ、絶対の神がいるわけでもない。

 だから醒めて眺めれば、この映画の1つ1つのシーンはどれが重く、どれが軽いとかいう比重比較は意味がない。

 ドレスデン空爆による悲惨も、ラザロという男の執拗さも、太らないようダイエットで頑張るわ~のビリーの滑稽なワイフの息遣いも、皆な均一の体験ということになるし、それを連続の映像として自分は眺めてるだけというような見方も、できる。

 その均等っぷりに、ドレスデン体験がトラウマになっている作家ヴォネガットの自身への救済法というか心のバランス法が潜んでいると思われるけど、久々に観た感想は、

「ま~、そんなもんだ」

 の1語に要約しておこう。

 ただ1点、ドレスデン市街爆撃後のドイツ少年兵の慟哭シーンは、ヴォネガットの主題からそれている。監督のジョージ・ロイ・ヒルが過剰に感情移入し、原作の原作たる主題から外れて浮いている。そこだけが惜しい。

 ビリーを演じたマイケル・サックルはこの映画がほぼデビューで、その10年後には映画界から去ってサラリーマンになった変わり種だけど、常にどこか微笑しているような表情が、重い題材なのに軽やか味がたえない造り(原作も映画も)に良くマッチしてポイントが高い。

 

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■ 『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』

 これは、再見してから感想を固めよう。初見では見落としが多すぎる。というか、観賞中に用あって中座。30分後にまた観たんだけど、どうも集中に欠けた。映画に申し訳ない。

 ブルース・ウィルスランニングシャツに銃もって駆けずり廻らずとも、七三ヘアでメガネの普通なヒトを演じてもイケてる。とりわけこのブラック・コメディのような映画では、数多な彼のアクション映画にみる尖った所のいっさいが溶ろけたチーズみたいに丸くなってコミカル味が増幅、なかなかヨロシかった。

 あえて乱れたカツラ頭を晒したブルースの覚悟と意気込みが天晴。

 

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 初見ではメチャに面白い映画とは感じなかった。

 強面のニック・ノルティが女装やら、ヴォネガット作品ではお馴染のローズウォーターさんが原作本の挿絵の通りに出てきたりで、ニヤッとするけど、通して顧みると、さほど印象が残らない。

 ブルース演じるドウェン・フーバーとアルバート演じるキルゴア・トラウトの視点の置き所を、再見時では注視しよう……。たぶんそこが要め。ほぼ、そうはみえないけど徹底したSF映画の旨味が隠されてる。

 この映画にはカート・ヴォネガット自身が、ある役で出てる。これにはちょっとたまげて北叟笑んだ。実のところ、この作家が動いてる映像を見たのは初めてなので。

 

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            メーキング映像ではこの映画についても語ってる

 

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 昨日、amazonから荷物が届く。

「何だ?」

 訝しみつつ開封すると、ぁあ、発売日だったのね。

 予約注文してたの忘れてた。

 

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