ジャスト・ア・Ronin

 

 映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』がDVD化されているのを知ったのは、お盆前。

 Blu-rayは出ていないようだけど、DVDでかまや~しない。

 隠れた名作として忘れられてしまうんかなぁ~、と思っていただけに、喜びのランプがピカピカ点燈。

 という次第で買ってきて、1986年の封切り時以来だよ~ん、36年ぶりに、観る。

 

 TVや映画で多くの役者さんが坂本龍馬を演じてきたけど、本作での武田鉄矢の竜馬(龍馬にあらず)がダントツだろうなぁ。

 足の短さ、顔のでかさ、額のカタチ、などの外見もプラスに働いて、滑稽かつ真摯な竜馬像がフィルムに定着している。武田鉄矢は昔も今も好きじゃないんだけど、この映画の彼は、メチャに良い。

 

 高杉晋作役の吉田拓郎もヨロシイ、ね。

 演技はダメだけど、地の拓郎っぽさが、29歳で没した高杉という男の中のエキセントリックやアナーキーなところと合致しているよう見受けられ、そこが大きなプラスになっている。吉田拓郎のアクターとしての素人な硬さと、吉田拓郎というキャラクターがもっている奔放が、彼自身の中で正面衝突して、逆に高杉晋作という人物の複雑な輪郭線がよく浮き出たカタチ。

 高杉役として吉田拓郎でなきゃダメだと、映画製作者サイドと吉田自身をくちどいた武田鉄矢の功績がデッカイ。

 

 史実に近くはあるけど、けっして史実に基づかす、ひたすら青春群像としての鮮烈を追った監督・河合義隆は、もっと評価されてよいよう思うんだけどねぇ、彼が荻野目慶子の家で自死してしまったスキャンダルばかりが伝わり、本作が影に隠れているのは残念。ま~、DVDが出たから観るヒトは観るだろうけどさ。

 

 内藤剛志陣内孝則大仁田厚などの面々が、えっ、このヒトがセリフなしのチョイ役かよ~! っと、時代のうつろいをヒシヒシ感じたりもできる。

 本作の音楽監督加藤和彦も、土佐勤皇党の脱藩藩士役の古尾谷雅人も後に自死してるから、悲しみの色合いも滲むけど……、けども、その加藤和彦が創ったテーマ曲『ジャスト・ア・Ronin(歌詞は安井かずみは、吉田拓郎がその後も彼のコンサートの幾つかで披露し続けた通り、やはり絶品だと、思う。

 むろん加藤ももういないから、彼のパート部分も拓郎が唱うという次第ながら、ロックでもフォークでもない青春メッセージ・ソングとして秀逸と、思う。

 


 

 20~30代の頃は、「青春」というコトバそのものが大嫌いで、ゼッタイにクチにしたくないコトバの1つじゃあったけど、川は流れに流れて今や60代……、若さゆえのそんなコダワリから抜け、飄々として映画の中の、「青春」を、た・の・し・ん・だ。

 

 この映画には、薩長が運営し坂本龍馬も大きく関わった蒸気船ユニオン号が出てくるけど、映画公開前だったか、後だったか、尾道で偶然、これと遭遇しているのを思い出した。

 尾道の「アンクル船長の館」常石造船経営・2009年に閉館)に、柳原良平のアートを見ようと訪ねたさい、ごく近くの港湾に泊まっていた蒸気外輪船がそれだった。

 いかんせん、訪ねた日は、同館の休館日だかで、柳原が描いて一世を風靡したサントリーのマスコット・キャラクターたる「アンクルトリス」のオリジナル画を観るコトかなわず、くさって波止場でタバコを吸ってる眼の前にあったのが、撮影用に復元されたユニオン号なのだった。

            特典映像の中のユニオン号。ちゃんと外輪で自走する

 こたびのDVDには、特典映像が1時間分ほど入っていて、ユニオン号を含む海上でのシーンは、福山で撮影されたと判ったし、その福山市常石造船の協力がメッチャに大きく、ユニオン号などの再現、武田鉄矢吉田拓郎伊武雅刀やらやら出演者・スタッフの宿泊場所も、同社の社員寮みろくの里・この当時はまだ映画撮影現場としては未整備だが同パークも常石造船の経営)だったというコトも判って、

「なんだ~、この映画って、福山や尾道とのエンがメチャに濃ゆい~~~」

 と、なんだか妙に親近をおぼえ……、同方面にまた出向きたくなった。

     特典映像より。再現された幕府の主力艦・富士山丸。これはエンジンを積んでいない

 ま~ま~、とはいえ、こちら老いたる身、若きこの映画のペケな部分も眼にとまる。

 正直に申せば、「これスゲ~映画」とは素直には云えない面もある。

 武田鉄矢の脚本(名義は片山蒼)には、ほどよいユーモアが随所にあり、それをこなした役者たちが素晴らしくもあるのだけど、情緒過剰ぎみの哀切は、いささかハナにつく。挿入歌としてのオフコースの甘い歌声がむず痒くもある……。

 けど、総じて綴じてしまえば、やはり、「青春の青春ゆえの青春っぷり」は堪能できた。

 DVDパッケージ裏面のキャッチコピーがいいね、

好きなことやらずに、なにが青春じゃ

 と、書いてある。

 これ……、老春 と置き換えても、かまや~せんぞ。

 

 

 

初盆

 

 昨日の日曜、坊さん来たりて正座する。

 こたび、初盆。

 春の彼岸時には、弟の家族がコロナにやられ、来るに来られず、むろん、来てもらっても困るという次第で、坊さんの読経を耳にしながら、坊さんの真後ろにピタリ座って、坊さんのうなじに息をふきかけたら、坊さん、どんな反応を示すかしら?

 1対1での退屈な時間をうっちゃった次第ながら、この初盆は弟の家族複数が加わって、そこそこ賑やか。

 

 

 マイ・マザ~没して初めてのお盆ゆえ、

「ファミリー、概ねで揃ってますぜぇ」

 遺影を前に、慈恩精舎から届いた仕出し弁当を総出でひろげるんだった。

 

    

 

 慈恩精舎というのは精進料理の店で、法事用仕出しがピンからキリまであって、便利というか、20年ほど前、オヤジが没した頃より、利用しているワケだけど、ピンは高過ぎ、キリはやや頼りない。

 なので、そこそこ、真ん中あたりのお値段のヤツを発注し、

「ぁ、これはお吸い物も付いてるのね」

 春以前からまったく会えていなかった弟ファミリーとの会食を、それなりに愉しむんだった。

 

 初盆を愉しむ? 

 ま~、よろしいではないか。来夏は初盆じゃなくって、ただのボ~ンなんだ。

「来年は弁当、出ないよ」

 食い気旺盛な弟の子供らに、ニカッと笑ってネン押しといた。

 

 

 実のところ、宗教というカタチにはアレコレ興味をもつけど、信仰心は薄い。

 ならば坊さんに来てもらわなくてもイイのではないか、仏壇も仏間も要らないんじゃねいかしら……、とコッソリ思わないでもないのだけど、ま~、そのあたり、極めてアイマイ。

 慣習と慣例のままに、ズルズルひこずっている。

 もちろん、マザ~を偲ばないではない。その気持ちと初盆だからウンタラカンタラとが、うまく一致しないだけのこと。

 たぶん……、宗派、宗教というワクの中にマザ~を封じたくないんだろう。まっ、そういうイミでは信仰に逆説的に囚われている自分を意識しちゃったりもするけどねっ。

 

 

 この数日は夕立とも思えぬゲリラ的雷雨もあったりと、お天気具合はなはだ不安定。

 墓に詣でたさいは、日差し濃く、けれど湿度たっぷり。

 額や首筋に汗がつたう。

 

 

 同じ苑内にあるマ~ちゃんのお墓にも詣で、手をあわせる。

 既に花がある。娘さんが来たのかな。桃色の大輪の垂れ具合と墓所の温度を思うと、おそらく前日にいらっしゃったのじゃなかろうかと……、シャーロック・ホームズする。

 一応、お菓子を墓前にそなえたけど、持ち帰り。

 食品にめざといカラスが喰い散らかすので、この苑では禁止。食べ物を置いては帰れないのだった。

 

        生前のマ〜ちゃんがおはぎを好んでたかどうかは不明だけど〜……。

 

 どうでもイイことだろうけど、『生前』という言葉って、どうもアイマイというか、どっち向いてるんだか……、よく判らんねぇ。

 普通に解釈すれば、“生きてた前”、すなわち、生まれるより前か、あるいは、死んじゃってる状態をいうのじゃなかろうか? 

 でも、そうでない。ス〜ハ〜ス〜ハ〜と呼吸してるのが“生前”だ。

 一方で反対語である『没後』は、ストレート。解釈でアタマをひねることがない。

 なんで生きてる状態を、せいぜんやらしょうぜんというのかしら? いささか時空が歪んでる感があって、不思議。

 死というカタチを軸足にした単語なんだろうけど、仏教用語ではないそうな。

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 まだまだ暑いけど、しかし「暑さ寒さも彼岸まで」という通り、音をたてず季節はめぐってますなァ。

 朝4時には夜が明けはじめていたのが、気づくと、5時を過ぎてもまだホンノリ暗いというところまで後退している。

 夏が枯れはじめているワケだ。

 ヒトツキ後には、もう秋の彼岸。

 ぁ、そうか、9/15前後にゃ、また坊さん来るんだ。

 せわしィ〜なぁ。

 

 

 

ウフーラ

 

 ちょっと前にも書いた通り、庭中央のセンダン。とにかく成長が早いのだ。

 6月末にほぼ裸同然くらい剪定したというのに数週後には、もう下写真のように葉を拡げ、今月8月にはさらに……。

 

                      7月10日頃……

                      8月1日……

 

 ニンゲン尺度でみれば尋常でない。

 なるほどニンゲンとて小学1年と6年を眺めれば、6年間の成長っぷりが目映いわけだけど、センダンの6年後を思うと、空恐ろしい。

 ひたすら大きくなろうとする意志の強さと硬さが、ハンパでない。

 

 センダンは背丈が25~30mの大木になるまで、ひたすら成長し、30mくらいになったら、グロー・アップをゆるめ、以後、放っておけば800年から1000年へと年輪を重ね増していくらしい。

 

 

 周辺を圧倒し席巻するカタチのままに、悠々たる時間を喰(は)む。

 ニンゲンでいうところの「思惟」の境地に至るのかどうかは知らんけど、イメージとしては、ま~、そんなもんだ。デカルトの「我思う、故に我在り」はヒトのことよりもセンダンを含む長寿な樹木にこそ、あてはまりそうな感もなくはない。

 

 いま、『ジュラシック・ワールド』の最終章が映画館で上映中だけど、現実としては、恐竜たちが跋扈する前までの数億年、地球は文字通りの緑の世界だったワケで、我が宅のセンダンなんぞをはるかに凌駕する途方もない樹木がモジャモジャ密茂。

 高温で多湿の環境。羽根の長さ70〜80㎝ものトンボがいた事は化石が証明している。樹高300メートル・オーバーのシダなんて~のはザラにあったかも……。

 それらが湿地に沈み、生暖かいままに堆積に堆積して、化石燃料としての石炭や石油が形成されたワケで、それだけの遺産(資産か?)を残すだけの膨大で尋常でない植物・樹木が地表をながく久しく覆っていたんだから、いちど、タイムマシンでそのリアルな景観を眺めて驚きたいもんだ。

 けど、どこまで行ってもグリーンしかないとなれば、当初は眼を見開いて、

「わ~、すっげ~」

 感嘆するだろうけど……、やがて、飽いちゃうだろなぁ、きっと。

 

 その「飽いちゃう」という気分はニンゲンの特性だよね。樹木はたぶん、「飽き」の持ち合わせがないハズで、そこを思うと、きのどくだ。

 飽くから、ニンゲンは次のステップを踏むべくアレコレ情動し行動をもするんだけど、樹木はそうはいかない。1000年のながきに渡って、ただただに思惟はするものの、

「我思う。けど、我1000年あいかわらず」

 光合成でひたすら酸素を生みつつも、八方塞がりの円環の中で、実は、悶えてる悲しい存在なのかも知れず、そこが気の毒ではなく、“木の毒”なのかもで……。

 

 6月に次いで2回目、またチョキチョキ刈り込んだ。

 

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 NaoさんとK殿下が贈ってくれた映像集の中、『TAROMAN』があり、眺めて笑い、笑いつつ超現実な味わいを堪能。画面比率4:3。懐かしさを装い、フェークをフェークのままに愉しめという危ういバランスも感じたけど、これもまたなんだか……、時代の花の1つ。

 

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 RSK山陽放送の壁面、岡本の作品『躍進』。

 1972年、同社が山陽新幹線開業にあわせて岡本に発注し、ながく岡山駅にあったけど、新社屋新造で天神町に移動したのはご承知の通り。

 そう……。亜公園があった場所に、今、岡本太郎作品アリなのだ。

 

 

 ぶ厚い信楽焼650枚によるレリーフ・ボリュームは近場に寄ってはじめて堪能できる味わいだけど、遠くからでも構図の大胆さは伝わる。

 ただボクには、“躍進”より“躍動”とイメージされる。太陽光の放射のもと、擬人化された樹木やらヒトそのものが皆な、両手あげての日光讃歌、踊り出し、

「ぁぁあ、今日もノビノビ、活きちゃいましょうや」

 って~な感じがする。

 

 

 

 このレリーフ、朝には直射光を浴び、ひどい風雨時にはきっとズブ濡れになるはず。すぐそばが道路ゆえ、排ガスで汚れもするだろう。

 そこも好ましいな。「芸術でござい」とお高くとまらないポジションに置かれているのがイイ。家屋の一部としてのレリーフ岡本太郎も頷くだろう。

 いっそ、『朝日のあたるTARO壁』と呼んでも、イイかしら……。

 

 

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  先月7月30日に89歳で没したニシェル・ニコルズさんを偲んで、劇場版の『スタートレック』を複数、観る。

 デューク・エリントンに見いだされた新人歌手だったけど、『スタートレック』のウフーラ役で誰もが知る存在になった。(日本語吹き替え版はウラ中尉だったね)

 60年代、米国TV史上初めての、白人と黒人、カーク船長とのキス・シーンは、当時の米国の方々には衝撃だったらしい。

 CNNのニュースではじめて知ったけど、ウフーラという役名はスワヒリ語で「自由」を意味し、反対や異論を封じ、彼女自身がこのキャラクター名を決めたという。

 カッコ良い女性の1人だった。

 謹んで合掌。

 でも映画の中の彼女は永遠。いつでも会えるのが、あ・り・が・た・い。

 

CBS/Getty Images

倉吉でミニカー眺める

 8月に入った途端、なんだか7月が遠い昔のような、妙な感触あり。

 暑さ続きで朦朧とし、昨日の事をカゲロウみたいにモヤモヤ~っと、感じているのかしら?

 

 

 7月末(わずか5日ほど前だ)岡山神社の茅輪祭(ちのわさい)

 境内にしつらえた大きなカヤの輪をくぐって疫病から免れるのを祈願するワケだけど、大勢の方に混ざってる内、なんだかやたら発汗。それも冷や汗ぎみ。

熱中症っぽい……、かな」

 夕刻とはいえ炎天で蒸された境内はまだホット。併設のビアガーデンに視線をおくるものの、呑みたいのを我慢し、懇意の禰宜さんにチラリと挨拶のみして、儀式終了と共に徒歩トホ、踵を返す。

 近場の丸善に潜り込み、本を眺めるフリして涼む。

 次第に汗がひいて、やれやれ、ホッ。

 次いでゆえ1冊買い、また神社に戻ろうかと思ったけど、

「ま~、ぃいかっ」

 バスで帰宅。

 

 

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 某日。帰宅するとポストに切手のない封筒あり。

 Blu-rayが入ってる。

 おやま~、なんと、COMMANDのマスター氏が直に届けてくれた。

太陽の塔」のTV番組録画。

 同い年。同じ月生まれ、それも数日のみの違いという、同世代中の同世代。それゆえ、その視線がどこを向いているのかは、ながくコッソリ興味ありだったけども、氏が直に届けてくれようとは、想定外。

 驚くやら悦ぶやらで茅輪祭みたいにBlu-rayを前にクルクル回転し、

「ワンっ」

 と吠えることはしないけど、氏に大きく感謝、かつ太陽の塔の存在のデカサをまた思うんだった。

 

 な次第で早速に観た次第。

 岡本太郎丹下健三の関係に触れているのが、良し。

 アーキテクチャーとアーチストという異質な2人の良性なぶつかりあいあって、初めて、太陽の塔太陽の塔として屹立したというコトを良く伝えた好番組だと、思えた。

 

 けども一方で、太陽の塔は何故に残ったか、よりは、

どうして丹下の大屋根を残せなかったのか?

 のクエスチョンがないのは、惜しかった。

 岡本の云う、

「ゲ~ジツはバクハツだあ!」

 が、粒子加速器が異質な物質同士を正面衝突させ爆発するコトによって、より高次元なエネルギーとしての物質を生むのと同義な意味とすれば、太陽の塔と大屋根はまさに衝突しあいつつ互いなカタチが他方のカタチを強化させ、あらたなイメージを飛躍させていたワケで……、大屋根をなくして、いわば素っ裸で立たされている今の太陽の塔は、ある意味でとても、不幸なカタチを晒していると、思えてしかたない。

 なので、

大屋根の撤去は、何故に?

 と、くどく、わだかまっているワケなんだ。その事をふくむ追求がなかったのを惜しむ次第。されど、番組として良質。Blu-rayに録画された価値がでっかい。

 あらためてNaoさんに感謝。

 ※ K殿下からも映像データを頂戴した。ヴェリ〜・サンキュ〜でありまする。

 

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 某日。早朝より強い日差し。ヒリヒリするような暑さ。

 柔道家の車で倉吉へ、向かう。

 途中に寄った蒜山は霧のような雨でチョイっと暑さから回避できて、ホッ。

 ヒトで混み合う道の駅(皆さん、トウモロコシを買いに来てるんだねぇ。今はゴールドラッシュという品種がメインだ)イワナの塩焼き食べて、小腹満たし、ヤマナ食堂には寄らず(外に行列できてたな)、一路、倉吉へ。

 

 

 で、「円形劇場くらよしフィギュアミュージアム」。

 仕事中ながらわざわざ駆けつけてくれた蒜山・新田菓子舗の社長氏から同館館長の紹介を受け、案内されるまま元学校校舎だった円形のミュージアムを初見学。

 

 

      ひょっとしたらと思ってたら、やはりあった……太陽の塔関連模型。

 

 同館では、森永卓郎氏のミニカー・コレクション展を開催中で、実はそれを観ようと出向いた次第ながら、デンキー・トーイやらコーギー・トーイズの懐かしい英国味のそれじゃなく、国産トミカのコレクションのみの展示だったんで、チビ~っと残念ではあったけど、トミカだけでも見応えは充分。

 超高額であろう純金の1台には、やや眼を丸める。

 

 

 このミュージアムは、円形3階建ての昭和モダンな校舎のカタチを存分に活かし、教室1部屋1部屋が展示室。

 

 

 ゆえに、次の部屋は、

「何があるんかしら」

 探検めいたワクワク感が持続するのもよかったし、教室という閉じた狭い空間を極限まで広く見せるレイアウトの妙味も味わえた。

 上の写真、でっかい柔道家はしゃがみ込み、小っこいフィギュアに魅入ってる。

 

         円筒の校舎中央の螺旋階段。覗き込むとヤヤ足が竦む……

 

 蒜山の高名な菓子舗がなぜに倉吉のミュージアムと関係しているのかといえば……、同館ミュージアム・ショップにオリジナル商品を提供しているがゆえ。(下写真)

 

     フィギュア1体がシークレットで入っている新田菓子補の円形ボックスの洋菓子セット

 館内、時間をかけてユックリ観覧。

 そのあと、近い距離にある割烹料亭「喜太亭 万よし」で食事。

 

 

 混み合ってるかなと思ったけど、最近急速にはびこった島根・鳥取方面でのコロナ蔓延ゆえか、店内ひっそりだったのは拍子抜け。

 ビールをグビリ。海鮮をペロリ。

 

 

 倉吉が良いのは、高層な建物がないことかしら。

 オレがオレがみたいなが強っぽい背ぇ高ノッポがなく、静かに民家と公共施設が併存して見晴らしもよく、見栄をはるような陰気な気負いがなく、「ゆるくおだやか」な感じが常にあって、かなり好き……

 自分が津山という似通う場所(海は遠いけど)の生まれであるコトも影響しているんだけど、驚くほどに車が少ないのは、津山よりグッドで、グッとくる。

 人口が少ないんだ、と云えば身もフタもないけど、ヒトが少ない方が町の魅惑が増すコトもあるわいね。

 ともあれ、倉吉を流れる時間は、岡山市のそれとは違うなような気がしていけない。

 かつて足穂はその辺りの感触を、「遠方では時計が遅れる」と云って愛しんだっけ。

 むろん、それは紀行文じゃなく彼流のテツガク的宇宙論の中のフレーズじゃあったけど、なんだかしら、ゆるやかな時間に恋慕するような今日この頃。

 

 

 

美保神社へ

  NHKが放送した太陽の塔についての番組……。

 このブログを読んでくださっている複数の方々から、「放送あるよ」とのお声がけを頂き、まっこと、ありがたいことでありました。

 あいにく下記の通りで当日は県外におり(それでも番組の終わり10分ホドは観ました)、再放送時も某作業があって観ることが出来ませんでしたが、複数回にわたって太陽の塔についてチョメチョメ書いていた身としては、嬉しい放送とありがたい連絡の数々でありました。

多謝。

 

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 おととい、仲間の車で蒜山に向かい、昼膳食べてからさらに北上、美保神社へいく。

 去年この時期、こたびと同じメンバーで蒜山に出向いたさいは、ゲリラ雨にうたれ、車のすぐソバの民家に雷が直撃で、大爆裂音と共に一瞬、視界真っ青。

「ワ~ッ!!」

 大騒ぎしたけれど、そんなとんでもハップンもなく、車スイスイ~で蒜山高原へ。

 

 

 昨年同様に3人で卓囲み、ジンギスカンとビール。

 けど、ここでチビッと想定外……。

 今まで1800円ほどで満喫していたジンギスカンが2400円と2900円の2コースになっての値上げ。

 7月1日より値上げしたそうで、食材のモロモロの値があがってやむなく……、とのコトだけど、一気に1000円ほどのアップというのは、ありがたくない。

 食べ放題ゆえ値上げの分まで頑張って食べちゃうぞ~という気分は上昇するものの、お腹のサイズまでは拡大しないからねぇ。

 値上げせざるをえない今のシャカイ的状況に、ブ~ブ~ブ~だわさ。

 

 

 蒜山から米子に出て、さらに美保関へ。

 美保神社へ出向くのは随分に久しぶり。

 このエビスさんの総本宮の真ん前は、すぐに海で、ケッコ~広かったように記憶していたけど、港湾の近さは記憶通りながら、車が10台も駐車すれば満車状態になるような狭さだったんで、

「ぁ、れ~?」

 記憶と実際の狭間のギャップに困惑させられた。

 ま~、記憶というのはそんなもんだ~、ネ。

 

 

 七福神の一人でらっしゃる恵比須神は、漁業の神さんとか商売繁盛の神さんとかモロモロ云われて馴染みあるけど、事代主神(ことしろぬし=えびす様)を祀る全国数千の神社の総本宮たるこの美保神社が、楽器、歌舞音曲の神さんでもあるというコトを、こたび初めて知って、

「あらまっ」

 小さくビックリさせられた。

 恵比寿さんといえばニコヤカ笑顔で釣り竿と鯛を持ってる姿が通り相場で、楽器系となれば弁財天の女神を思ってしまうのだけども、美保神社に限っては違う“特性”があるそうで、

「ふ~ん、さよかぁ」

 チョイっと逆に拍子抜け、させられた……。

 たさまか、この翌日の夕にはジャズフェスのZOOMミーティングが予定されていたんで、

「エビスさん、音楽系でもあるのね」

 恵比須とはまったく関係のなかったジャスフェス(今年も開催の予定で下準備進行中)が、鳥取との国境い、島根県松江市美保関町美保神社境内で突然に念頭に浮いてしまって、

「ここ県外なんですがぁ~」

 苦笑した。

 

 

 夕刻、米子に戻り、「手打ちそば・ひの木家」で、三色蕎麦なる蕎麦を食べる。

 でっかいイカの天麩羅。粘りのあるトロロ……。

 

 

 麵はすこぶる細い。

 ここまで細い蕎麦は、初めて。

 食べやすいような、もの足りないような、麵ツユが濃いような、いや、そうかな? ホントに濃いかな……、などと感想の粒々が浮き上がりきる前に、ほぼ完食。

 もう1度、食べてみなきゃ~良否決められないな、これは……。

 ま~、初めて食べたというトコロでのポイントは大きかったデスが、お重三枚の分量ゆえ、満腹。

 エビスさんの太鼓腹みたいになっちまっただよ。

 

 と、ま〜、以上のような顛末でNHKの番組をフルに観られなかったんだけど、いいのだ。それはソレ、これはコレなのだわさ。

 

 

タイムマシンに願いでる

 

  甚九郎稲荷の夏祭り。

 昨年はコロナで中止。なので2年ぶり。

 とはいえ久しぶりって~感じがしないのは……、しょっちゅう、稲荷の境内に踏み入り、拝殿に詣でているからだろう。

 

 

 ちなみに、甚九郎稲荷が出来た明治の時代は、毎年、赤痢やら虎列刺コレラの犠牲者が出てた。

 まだ水道もなく、下水は川に直結という有り様ゆえ、煮沸していない井戸水をナマで呑んで、

「アチャチャ~」

 というコトが街中で常におきた。(感染は田舎より町の方がダンゼン多い)

 当時、きっと、甚九郎稲荷に詣でた内の、何人かのヒトは、

「うちの娘がコレラにかかりました。なにとぞ、お救いあれ」

 みたいな願掛けをし、ガランガラン、鈴を鳴らして祈念したんじゃなかろうか。

 なワケで当方も真似、

「ご高齢なワタクシがコロナにやられませんよう」

 ひとふり鈴を揺らせて神さんを呼び、来てくれたかどうかは判らんけど、お賽銭投じて一礼した。

 

 神社空間というのは神さんが常駐してる場所じゃなく、あくまで降臨の場。なので、お参りしてますよ~、と鈴を鳴らして、呼ぶワケね。神道成立以前は、鈴はヒトが鳴らすものじゃなく、降臨した神さんが、来たでぇ~、自ら鳴らして、その気配を示すモノだったようですなっ。だから鈴というより風鈴みたいなモノだったんだろう、最初は。

 

       

 

 今回はすぐそばのRSK山陽放送も、甚九郎稲荷の祭りにあわせてイベント。

 能楽堂に入れ、舞台も歩けるという気の利いた催し。さすがに揚幕(あげまく)の中にまでは入れないけど橋掛り(はしがかり)でポーズとったり写真なんぞも自在に撮れて、とてもよろしかった。

 舞台横に設置の大型モニターでは甚九郎稲荷の由来について、ワタクシめが解説の……、映像も。

 願わくば今季だけでなく、稲荷の夏祭りと同時開催で、毎年恒例となる“地域イベント”になって欲しいと、願う。

 

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 チョイっと前、sunaちゃんが大阪に出向いたさい買ってきてくれた洋菓子。

太陽の塔」という呼称は使えないけど、「太陽ノ塔」ならモンダイなしというコトらしい。

 それが店名の洋菓子屋さんで、売ってるのが「タイヨウノカンカン」。

 

 

 缶の中には抹茶味のクッキー。美味しい。

 大阪では流行りの、かなり高名な店らしいけど、甘いお菓子、しかもトレンディ~最前線にあるモノについては、当方、あんまり知識がない。

 というか、皆無。

 意表をつかれ、

「ぁんらま~、こんなのアルのね」

 瞳孔ひらかせ、よ・ろ・こ・ん・だ。

 来たる大阪万国博覧会には何ぁ~んも興味もないけど、70年博覧会の尾をひくモノには興味アリ。

 当方の嗜好を察知し、わざわざ店に出向いて買ってくれたsunaちゃんに、でっかく感謝。中身は食べつくしたけど金属のカンカンは……、残してる。

 

  

 

 たまさかだけど、ほぼ同時期に、缶じゃなく……、瓶も手に入れてた。

 EXPO70にサントリーサントリー館というパビリオンを設けていて、そこで販売されていたウィスキーの、その瓶。

 空瓶じゃ~なく中身があるのも、たとえばメルカリとかで時々、売りに出てるんだけど、値段がね~~。

 

 

 なので空瓶、買った。

 まっ、それでも2千円ほどの出費という次第ゆえ、

「アホちゃう?」

 と云われてもおかしくはないんだけど~、実物を手にして眺めるのと画像なんぞで眺めるのじゃ~、ぜんぜんマッタクに受ける感触が違うんだわよ。

 

     

 

 EXPO70関連モロモロをコレクションする気などまったくないけど、1970年大阪万国博覧会が開催されていた時は、当方、中学生と高校生の狭間だったんで、当然にウィスキーのサントリーなんぞに興味のキョの字もなくって、なのでサントリー館も見学してはいない次第。今となっては、ぁぁぁザンネン。

 なので、ま~、せめて空瓶でもって当時の気分をば……。

 タイムマシンがあるなら、出向きたい場所の1つだな、サントリー館。

 

 タイムマシン……、欲しいなぁ。

 ひょっとしてイチバンに欲しいモノが、タイムマシンかもだな。

 自分が失敗したと思われる時空間に戻って、それをやり直したいとかね……。たとえばパナソニックとかソニーとかが、マシン1機なぁ~んと本日限りのこのオネダン78900円くらいで新発売したら、わたくし、即座に買いますですよ。

 で、せっかく買ったんだもん、1970年の博覧会会場に、イッチャいますね。

 サントリー館にも足運び、限定仕様のウィスキーをば……、数本買う……、かな?

 何度でも過去に戻れるなら、逆に、買わんなぁ、きっと。

 あれ?

 それじゃ、タイムマシンがもたらす“経済的”価値が下がるじゃんか?

 ぁ~、いやいや、そうじゃないね。経済活動という小さい範疇にタイムマシンを置いちゃ~イケナイ。

 やっぱ、「見果てぬ夢」やら「破れた夢」の哀しみをチョボっとでもアップさせてくるのがタイムマシンというもんじゃ~なかろうか、アヘヘっ。

 



甚九郎稲荷 まもなく夏祭

 

 岡南シネマでの『ブレードランナー ファイナルカット版』の、朝9時半からの毎日1回こっきりの上映。

 なんとか出向こうと算段したものの、結局、出向けず。

 ここ10日ほど、自宅改修で業者さんが出入りゆえ、家主が不在じゃ~ヨロシクないワケで、朝1回でなく、夜にも1回上映して欲しいと切望しきり。

 せっかくの4K画質を観られずで、口惜しや。

 

         懐かしい写真。同映画で使われた警察車両と故キャバちゃん……

 

 ま~、うらんでもシャ~ないんで、自宅のスクリーンでBlu-ray画質を眺めて「代用」とした。

 もう何度もナンドも、繰り返しクリカエシ観た映画じゃあるけど、眼をそよがせ、およがせるたび、新鮮がうずく。

 自分がこの映画封切り後に、マーチャンダイジング(模型に関しての)に関わっていたというコトもさることながら、何度観ても、新鮮が失われず、視聴環境によってはそれがいっそう尖鋭になる映画というのは、それほどアルもんじゃ~ない。

 

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  自宅の改修は高速道路の突貫工事じゃ~ないから昼間のみ。当然に夜は、あいてる。

 祭日の夜、ライブハウス・モグラにて、「OKAYAMA通天閣」の、いや、今回は「通天満」名義でのライブを堪能。元T-SQUAREのベーシスト須藤満をゲストに、32ちゃんはりきり世史紀ノリノリ。

 通常のステージは使わず、客席内で円陣を組んだジャムセッション・スタイルでの演奏。

 眼を細めたり、丸めたりと、存分に愉しんだ。

 ぁぁ、やっぱりライブはイイねぇ。

 

 3人のパートを換えての演奏。32ちゃんがベースで須藤さんがミニ・ドラム。で、世史紀がボーカル

 

 終演後、別場所に移動し、佐野元春の新たなアルバム話で盛り上がり、同アルバムに入ってるDVD映像を見せてもらって、カッコウ良く歳をかさねている男のカッコヨサを、これまた愉しませてもらった。

 

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 RSK山陽放送さんから連絡あり。

 きたる7月24日・25日に甚九郎稲荷のお祭。それに合わせ、同神社に隣接している新社屋の内部を一般公開するそう。

 で、その催事中、大きなスクリーンで、この新社屋のある場所のコトを明治時代にまでさかのぼり、甚九郎稲荷との関係をヴィジュアルで説明したいとの趣旨。

 むろんそれは、亜公園を指す。

 2020年11月に放送された番組「メッセージ」で、ボクが出演した部分を再編集して披露したい、とのコトらしく、フフフっ、良いハナシ。

 

 甚九郎稲荷は、岡山城の中堀が埋め立てられた明治14年(1881)に造られた。

 それ以前、江戸時代にはごく小さな祠だった。

 岡山城の中堀にかかった北ノ橋のすぐそばに、それはあったらしい。

 起源を特定するのは今となっては難しいが、現在の天神町にある有名写真館・島村写場のすぐそばに中堀があって、そこにかかった橋が北ノ橋。

 その橋の近くに、いつのまにか祠が設けられ、以後、おそらく、そこそこ大事にはされていたのだろう。それがオリジナル、初期の初期の姿……。

(宝永6年の地域誌『和気絹』には既に、北ノ橋の別称として甚九郎橋の名がみえる。宝永は徳川綱吉の時代だから、だいぶんと大昔に既に祠らしきが設けられていたと推測できる。橋の本来の名より甚九郎という人の名がクローズアップされているのが、とても興味深い)

 

 

 池田家文庫の江戸時代の図面をみるに、橋の長さは十二間とある。およそ22m! 

 今の天神町の様相からは信じがたい光景だけど、事実は事実でござい。

 これは弓矢の飛距離に基づいている。攻めてくる敵を弓で確実にしとめる事が出来、かつ、防御しよい距離としての十二間、なのだ……。なのでごく近くには弓使いを専任とし、いざとなれば橋での攻防を担う下級武士たちが住まう弓之町という町もある。

 江戸時代が継続して安定期に入り、武士は戦さをすることなく、次第に城勤めのサラリーマンになっていく。弓之町や番町界隈に住まう武士たち一同皆さん、登城のさいは風呂敷で包んだ弁当箱を持ってこの橋を渡って岡山城に向かい、夕刻、仕事を終えると、

「ぁ、これっくら~いの、ぉベントバコにぃ~♪」

 などと唱いながら空の弁当箱を手に、またこの橋を渡った。   

 

 やがて徳川幕府が瓦解し、城は無用になり……、明治14年になって岡山県は中堀の埋め立てを行う。

 その時にこの地域(上之町)に住まう方々が、橋のそばの祠をおろそかにしちゃ~いけないと、少し離れた場所に移動させ……、それを甚九郎稲荷と名付けた。

 祠から小さな神社へとバージョンアップしたワケだ。

 規模はささやかで、それほど立派なものでもなかったと思われる。

 上之町は江戸時代を通じて大火がなかったから、甚九郎稲荷は火除けの神さんでござい、という位置づけだった。

 

 それから20年ほどが経過し、亜公園が閉園した。

 亜公園は明治25年にオープンし、大賑わいの日々が続き、界隈(上之町や天神町など)の商店にも大きな潤いをもたらせていたけど、当時、日本が日露戦争に勝利し、日本全国でそれを祝う機運が一気に昂ぶって、岡山県では、初となる図書館創設や県会議事堂などを造ろうというコトになる。(戦捷記念図書館 ― 現在の岡山県立図書館はこれがスタート)

 それで、広い地所が必要となり、亜公園に白羽の矢がたった。

 天神町の懸庁の真ん前という好立地。家屋も含めて地所いっさいを岡山県が買い取るというコトで、明治39年(1906)に閉園。

 県が買ってすぐにモンダイとなったのは、同園内にある天満宮だ。

 そもそも亜公園がある天神山は、かつて菅原道真が九州太宰府に強制左遷されたさい、京都から同地に向かう旅の途中で休憩したという伝承のある地で、それゆえに天神山という名がついている次第。ゆえに、それをテーマにしての“娯楽施設”だった。

 日本におけるテーマパークの第1号という事をこの数年にわたって吹聴したおかげで、割合と多くの方々が賛同し納得してくれているのが、ありがたい。

 

 亜公園の天満宮はゆえに豪奢な造りで、園の要め、核となる施設なのだった。

 

         講演用展示物として造った亜公園の集成閣および天満宮の模型〔一部)

 

 いっさいを買い取った県としては、神さんがらみの天満宮をおろそかに出来ない。

 道真は学問の神様ながら、一方では強靱きわまる祟り神でもあるわけで、怒らしちゃ〜大変だぁ。

 それで上之町に天満宮を移設出来ないかと話しを持ちかける。

 上之町には甚九郎稲荷がある。それと合祀し、さらに新たな場所として県所有のすぐそばの土地の提供を申し出た。

 その頃、上之町でイチバンにでっかい顔をしていたのが、光藤亀吉だ。

 彼は北ノ橋そばの祠を移動させ甚九郎稲荷にバージョンアップさせたメンバーの1人であって、明治39年時点では県会議員でありモロモロな会社の社長職やら役員を務める影響力ビックな人物であったけど、彼もプランに快諾。

 光藤はそのプランに自費をもくわえ、天満宮遷座に尽力した。

 こうして甚九郎稲荷は道路のアッチからコッチに移動、拝殿や本殿や石柱など豪華な亜公園内天満宮を移設し、バージョンアップ・パート2、かつ、グレードアップしたワケなのだった。

 毎年7月24、25日の祭りは、この移動遷座の後、亜公園なき後の天神山界隈の賑わい創設を主眼に実施されるコトになる。(ながくなるんで今回はそこの解説はパス)

 

      現在の祭りで使われている太鼓ダンジリ。オリジナルは昭和20年の空襲で焼失

 

 ともあれ、明治39年甚九郎稲荷は現在の場所に遷座した。

 管理は岡山神社がおこなうというコトに落ち着き、今もそれが続いている。

 空襲までは、なのでその明治39年遷座をクッキリ示す形のままだった。今の拝殿も本殿も戦後に復旧させたもんで、規模もカタチもずいぶん縮小され今にいたってる。

 

 ……という次第で、甚九郎稲荷というのは、亜公園の面影を残し、かつ、その思い出が濃密に詰まった場所なのだった。

 いま現在、RSK山陽放送の新社屋がドッデ~ンと建つ場所は亜公園と同じ地所であり、ヒストリーとしてのその場所の過去を伝える務めを、同社は持つ。

 

 番組『メッセージ』の1コマ。岡本太郎レリーフのある山陽放送新社屋の左手の赤い家屋が甚九郎稲荷

 

 そういう流れの中、甚九郎稲荷の祭という機会に連動させて、同社内でもってボクが語っている映像を使って公開するというワケなんだ。

 

                番組『メッセージ』の1コマ。

           こんなシーンもあり……、だけど何かジジイっぽい

 

 詳細は聞いてないんで、上映時間や規模も今日時点じゃよく判らないけど、もし、24、25日に甚九郎稲荷界隈に出向けるようなら、すぐそばの山陽放送も訪ねたが良い。

 でっかいスクリーンの中のボクを見て、

「ぁ、やっぱ、いい男じゃん」

 てなコトではなく、甚九郎稲荷が亜公園の延長にある神社だというコトをご理解いただき、チビリ、驚いて欲しい次第。

 詳細はRSKの夕刻の情報番組で告知されるんだろう、たぶん。