改装

 

 マザ~が最晩年を過ごした部屋は、概ね荷物は片付けたものの、部屋そのものは手つかずだった。

 来月末で、早や、没して1年になる。

 寝たきり生活が長かったから、当然に同室は古ぼけたままで、時間が止まっている。

 これを機に、部屋を改装することにする。

 といって、使用目的は明確でない。

 マイ・マザ~の面影を払拭したいワケでなく、共に生活していた場としての空間に新たな色合いをのせたい……、そう思った次第。 

 なので業者に依頼するようなものじゃない、あくまでDIY

 

 築後50年が経過した家屋は何度となく改装改築を繰り返して、初期の姿はもうマッタクないけど、それでも、マザ~の部屋は、そのもっとも古い部分にあたる。

 隣室が仏間で、仕切りは昭和感漂うガラス引き戸。さらに南側のサッシ窓部分にもガラス引き戸が付いた2重構造で、雪深い東北方面みたいな寒冷仕様。

 その昭和感たっぷりなカタチをどう改造するか……、思案を重ねた末、それなりの方策を見いだして、いざ作業。

 

      もう使わないであろうタンスなどを屋外に出し、これらは廃棄予定

 

 諸々なサイズを計り、石膏ボードやらベニヤ合板を買い込む。

 ベニヤは高騰中で、1820×910の基本サイズが1枚2400円を超える。

 1年半ほど前はたしか1600~1800円で、それとてコロナ禍での木材輸入の困難進行中での値上げ価格だったのだけど、今やいっそう険しい状況。メチャといっていい価格上昇。

「うげ~っ、高っかぁ~」

 下地用として15枚買うつもりでいたけど、眼がクラクラ。

 マレーシアやインドネシアなどベニヤ合板の生産地が、コロナ禍で都市封鎖(ロックダウン)が相次いたんで、当然に日本への供給もひどく滞り、加えて激しいホドの円安……。輸入品の物価はどんどん上がる。

うげ~っ

 を何度クチにしようと、こちらの財布は薄くなるばかり。困ったもんだ。

 なので急遽、購入予定のベニヤの1/3は廉価な別素材を買って……、経費を圧縮。

 

 一応、工期を14日間と自己設定し、さっそくに、壁をたたいたり、ガラスを外して引き戸をペイントしたり……、などなど、し始めたのだけど、4日ほど作業しただけで、もう腕が筋肉痛。

 2週間で終わるや否や?

 

 ベニヤ合板などの買い出しでは、前回のDIY時と同様、柔道家と彼のでっかい車の出動を要請したのだけど、柔道家は彼が住まう地域の消防団員でもあり、たまさか買い出しの前々日に、小規模ながら山林火災があったとのコトで、夜中にホースを抱えて山野に踏み入ってヘットヘト。

 買い出しのさいにも、そのヘトヘト継続中で、

「足腰痛いわ~っ」

 とか云いつつも、重いモノいっさいを運んでくれた。

 感謝だ、カンシャだ、キンロ〜サンキュ〜だ。

 こういう若い(と云っても50を少し過ぎてるけど)良き友人がいるのがメチャに、あ・り・が・た・い。

 買い出し後、ベニヤ板の経費を削減した分で、2人でおいしい昼食を食べに行き、昼下がりのビールを呑みつつ、

トップガン、けっきょく、観なかったなぁ~、アハハハっ」

「おまえ、この夏、ウナギ食べた? 僕、1回こっきり」

「ありゃ、ワシもそうです。だって国産、メッチャ高かったっしょ~」

 とかとか、くっちゃべって、良い時間を過ごす。

 ビールのほろ酔いで……、当然、その日は作業するワケがない。ソファに寝っ転がり、午後の甘睡に落ちてった。

 

 

 

タンタンの冒険旅行

 

 近所のスーパーがセルフレジに変わって、もう数週間経過。

 大きな混乱はないようだけど、それでも……、枯れた声で爺さんが、

「こんなんヤッてられんわ」

 怒ってた。

 お婆さんがバーコードの読み取りにナンギ四苦八苦し、店員がかざし方を教えてた。

 そのレジ店員さんも、まだ誰も退職してはいないようだけど、店頭では以前の半分ほどの人数。

 いずれもパート・タイムの方と思うけど、当然、勤務時間を減らされているワケだ。いずれの方も時間給ゆえ、収入も減っているはず。

 いいのかなぁ、それで?

 

 任意であったハズのマイナンバー・カードを、突如の義務化。

 保険証と合体させるコトでの、いきなりの強制……。

 マイナンバー・カードはチャンと運営されるなら、自分が番号化されている不快はあれど、国家という単位で眺めると、そのメリットは大きいとも思い、必ずしもこれを否定はしないけど、独断専行スタンドプレーの首相や大臣と、不始末連打の稚拙な組織デジタル庁との狭間……、本当にキチンと運営出来るのか、とても疑問。

 マイナンバー・カードは最大級の「個人情報」なんだから激烈に慎重でなきゃ~いけないのに……、導入への扱いがひどく乱雑乱暴。

 大きく不安、かつ不穏。怖いなぁ。

 

 健康保険制度は昭和36年からスタートで、そのさいの「社会保障」される意味と意義と恩恵はとても大きかったけども、こたびのは有意義に遠く、何を急いでるんだかも不明。

 小規模な医院とかでは、機械導入やら院内システム構築なんぞで負担テンコ盛りともきく。そも、1年ほど前はカード導入で数万円分のポイントなんて〜エサをぶらさげて国費を費やしていたというに、今度は一転、義務だなんて……。ポイント付与に投じた国費もまたまた無駄金じゃ〜ござんせんかいね。

 IT導入の無理強いで、振り回されるばかり……。せっかくの情報技術が、かえって不安と窮屈を産むようじゃ~いけないのでは?

 

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 書棚からエルジェの本を取り出して眺める。

 1930年よりベルギーで刊行された漫画シリーズ。そのうち19531954年に刊行された2冊の翻訳版。(翻訳初版は1991年)

 天部分にけっこうホコリがのっていたから、たぶん10年以上、書棚で眠ったままだったんだろう。

 でも馴染んだ絵だから、久しぶりという感触はない。

 

 

 実のところ、いまだこの2冊のコミックスの最初から最後までを読み通したコトがない。

 大型本ではあるものの、細かいコマ割にくわえ、各コマに行数の多いフキダシがあるんで、字面を追うのがメンド~なのだ……

 

 けども、コマの1つ1つが丹念に描かれているのは一発でわかる。

 なによりときおり、1ページ丸ごと使っての大きな1コマの完成度が素晴らしく、そこを眺めるだけで堪能の芯が燃焼し、

「ぇえな~ぁ」

 細い眼をいっそうに細めちゃえるんだから素晴らしいじゃ~ないの。

 こたびは、完読でないにしろ、けっこう小まめにコマの進捗を追って、小さなギャグの積み重ねを楽しんだ。

 

 素晴らしいといえば、原作のチンチン(Tintin)をタンタン(Tantan)に変えた翻訳者の遠慮と配慮の采配っぷりも素晴らしい。

 ボクと年齢が近い川口恵子氏(夫は中沢新一が翻訳者だけど、彼女と出版元の福音館書店の英断というか采配が、ステキだ。

(正しくは、きたさわひろお訳で1968年に数冊が刊行されているようだから、チンチン→タンタンはこれがスタートだろう)

 あのチンチンとこのチンチンはまったく別物なのだけど、チンチンとて男の子ゆえにチンチンあってぬかりなしと……、我が国特有の語感的モンダイながら、看過できない影響ある単語には違いなく、ゆえのこの取っ替えが素晴らしく、

名翻訳の単語百選

 とかいった「選」があるなら筆頭にあげていいのが、このチンチン。

Tin」は錫を意味して、「Tin Toy」と書けばブリキのオモチャを指すという次第で、あちゃらでは「かわいらしい」というニュアンスも含まれ、なので英国の人形劇『サンダーバード』の主要キャラクターの娘の名も、Tintinだったんだけど、そこをHNKではティンティンに取っ替え、下世話な感触と誤解を回避している。

 語感から連想されるアレコレというのは、小さいようだけどデッカイ問題なのにゃ。

 なのでボクは密かに、「大きなチンチン問題」とこっそり思って、ゆるぎない。

 

     1991年にフランスとカナダで合同制作されたTVシリーズ版のタイトル部分

       福音館書店の大型版のシリーズ・タイトル部分

 

 ま~、そんな余談よりは、こたびの2冊、その主軸となるロケットが、良い味シミ滋味でありますなぁ。

 白と赤のチェックが、10年ぶりに見ても、

「良いね~っ」

 好感度数が落ちない。いやむしろ、10年ぶりゆえに鮮烈増加。最近のSF映画なんぞにはこのアート・テーストはほぼ皆無ゆえ、余計に、

「いいなぁ」

 と感嘆させられるんだ。

 

 実際のロケットも、ごく最近の北朝鮮のミサイルを含め、この市松模様は機体に描かれている。発射時の機体回転とかを目視するためのもので、次の打ち上げに向けての機器制御の大事な資料となるべく考案された塗り分けなのだけど、そこをアート領域に転換したのがエルジェのセンスというもんだ……

 

 かつて、70年代後半頃から活躍したイラストレーターの原田治の絵には随分とそのポップ感覚に好感したもんだけど、いうまでもなく、『タイタンの冒険旅行』シリーズの影響が、色濃い。

 氏のイラストが着目された頃は、先に記したさかたひろお訳の数冊のみが日本にはあるきりで、それもほぼ注目されていなかったらしい。

  

 悪しく云えば、エルジェが創作したその美味しい部分のみを抽出しアレンジして我が物とした、というコトになるかもしれないけど、これについては、ま~、追求するようなコトでもない。

 ロイ・リキテンスタインが自分の作品ではない新聞の通俗漫画の1コマを流用してアートに昇華させたように、原田は、エルジェが意図しなかった部分をうまく縫い合わせ、絵1枚によるアピールの強さを示しみせるというコトに成功し、逆にエルジェのそのオリジナルの強さを浮き上がらせてくれてもいる……、ような気がしないでもない。

 

     

      『ヘアリボンの少女』(1965年作品) 

      東京都美術館1995年に6億円で購入したリキテンスタインの代表作

 

 ともあれ久しぶりにページをめくり、さらに再度再度、表紙を眺めてウットリし、御馳走をたっぷり味わった気分上昇をしっかり知覚して、書棚に戻す。

 さて次は、いつまた……、取り出すかしら? 

 この手の本は図書館で借りちゃ~いけない。ま~、そのためにも書棚というものは在るわけで。

連続ミュージック・デー

 

 今期のジャズフェスを終え、一息いれているここ数日。

 裏方としての責務から解放されて、ちょっとした真空状態かしら?

 何をするのも億劫な感じ。「祭りの後の淋しさ」ではなく「祭りの後のくたびれと飽和」って~感じだな。

 

 昨日の土曜、シンフォニーホールで岡山フィルハーモニック管弦楽団のコンサート。

 3階席の高みから、ブラームス交響曲第1番やらを聴く。

 チケットを購入したものの用事が出来てしまったT氏の代理としてシートをあっためる。

 クラシック演奏を生で鑑賞するのは何年ぶりかしら?

 こういうのを聴いて、

「癒やされた」

 とか、云う気はない。そうそう簡単にヒトは癒やされるワケがないとも思っている。癒やされるという感触はかなり深淵かつ絶妙で、その感触を容易に言葉として「癒やされた~」なんて呟いてしまうのは……、イケナイと思って久しい。表現として薄っぺらなんだ。

 でもま~、旋律に身を委ねていると、ちょびっと裕福な感じは募る。代理鑑賞なのでチケット無料という意味でなく、音楽と共にいる時間のありがたみは、味わい、刻まれた。

                   

 エドワード・エルガーの「チェロ協奏曲」を聴いてるさなか、なぜか、炭火でジュ~ジュ~焼かれているサンマが念頭に浮いた。

 それにスダチをしぼり、お醤油をかけ、箸で身をほぐして、熱つつっ……、口に運んでるシーンが曲と一緒に脳内に拡がって、なんだかそのアンバランスな連想も面白かった。

 エルガーがこの曲を創ったさいも、シンフォニーホールでチェロを奏でた宮田大の脳裏にも、サンマのサの字もなかったろうハズだけど、いいのだ……、どう感じ、何を思ったかがポイント。

 我が輩の中の「チェロ協奏曲」は秋サンマの旨味とリンクし、香ばしい匂いをたててくれた。

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 翌日の今日。サンデ~。岡山神社の『岡山神社音楽祭』。

 あれまっ、2日連続の音楽ドップリだわいね。

 朝まで雨だったけど、やんで良かった。

 昨日のシンフォニーホールの空気より、こっちの和らぎが、やはりイイネ。

 クラシックはゼッタイのものとして大いに了解するけど、ソ~タイとして、神社境内での祝祭の楽音を好む。

 なんせビール呑みつつの鑑賞だし、ミュージシャンや観客席に知った顔もあって、自ずと身体も心も馴染みモード。クラシック・コンサートのヤヤ肩張った定型はなく、聴きつつ談笑し、会話がとぎれるとまたステージを眺め、足を伸ばし、くつろぐ。

 午後のビールが、うまい。焼けたサンマを食べたい気分上昇ながら、あいにくそういう出店はないんで、しかたない。

  ほぼ立ち飲みで3杯目をまもなくクリア……。

 チェロの独演。ミュージシャンの芸名は「マーマー・ヨ Jr.」。

 昨日シンフォニーホールのチェロは無論にプロのそれながら、こちらは堂々の自称チェロ歴半年。そのアマチュアリズムと、妖しいネ~ミングの発揮と揮発でもって、否応なく笑わされた。

 

 この愉しい場所を神社内に設けた裏方さん達の苦労をも、ねぎらいたい。

 おそらくは雨中の前日からの仕込み。雨はきっと止むと念じての設営だったろうけど、開催可能かしら? との不安の焦燥にさぞや炙られたであろうとも、思う。

 幸い、雨は遠ざかったわけで、そこの気苦労を含めて、

「おつかれさんでした~」

 直には云ってないけど、こっそり記しおく。

 それにしても、このデザイン秀逸。岡山神社音楽祭のフライヤーの一部)

 

 

 

 

 

 

 

冷たいご飯

 

 さてと前回は、第20回目となった『中銀前ジャズナイト』の前日に本ブログを記したわけだけど、こたび明日6日は、ルネスホールでの『Revival of JAZZ UNDER THE SKY』なのだった。

 なにゆえの「リバイバル」と訝しむ方もいらっしゃるだろうけど、コロナ以前、下石井公園での4000人規模のビッグなステージに何度も登壇してくれたShihoさん(フライド・プライドとして)TOKUさんを迎え、新たな家屋が建ってもはや大型イベントの場所でなくなった下石井公園での良きイメージを追想……、というようなニュアンス込みでの「リバイバル・ジャズ・アンダー・ザ・スカイ」。

 ルネスホールはあくまでホール。アウトドアじゃ〜ないけれど、インドアだって、空の青さとその元での活き活き音楽はイメージ出来よう……。

         

 

 なので例によって準備がため、早起きしなくっちゃ~いけない。かといって、そうヒドク早いわけでもない。ShihoさんやTOKUさんと楽屋で言葉を交わすのが楽しみだ。

 

 過日10月1日の『中銀前ジャズナイト』は、朝8時20分に会場入りで機材搬入からはじめ、アレありコレありしつつ本番は夕刻6時半から。

 想定を上廻る入場者で開場と同時に席は埋まり、立ち見の誘導やらやらで世話しなく動き廻り、片付けも含めいっさい終えたのが夜10時半。およそ15時間の長丁場。

 毎年のことながら吉野家で遅い夕飯。けど疲労困憊でメニューを眺めるのもヤヤ面倒。

「ぁりゃ、今日から牛丼も値上げなのね」

 収入は増えないのに食品がドンドン値上がりする不都合にブ〜イングしつつ、ビールと並盛りをモグモグ食べてるさなかにゃ、もう眠くっていけね~。

 

 明日はどんなアンバイで進行するんだろう? 主催の一員としていつもの通り、小さな不安と大きな期待を抱えて、いま、この時間を過ごしている。

 

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 ごく最近、江戸時代の食文化についての博士論文を読む機会があって、つらつら読み通してみるに、重大な欠落があるのに気づいて、

「詰めが、あまいぞ」

 小さくひっそり呟いた。

 同論文では、江戸庶民は「かけ飯」を食べることが多かったと指摘し、

 かけ汁を作り、飯の上から汁をかける方法である 中略) かけ飯は現在のお茶漬けの形式にして食べるようで、すでに江戸時代に流行していたようである。

 と、結んでる。

 う~~ん。そうじゃないでしょう。

 この、若い方の論文には、ご飯を炊くという行為のバックヤードとしての経済感が欠けてるんだな。

 スイッチ1つでご飯の保温が出来る今じゃ~ないんだ。

 ご飯を炊くには、がいる。

 朝炊いて、夕にまた新たに炊く……、というようなコトは江戸暮らしの庶民には、まず出来ないんだ。

 だって、山に入って薪を取ってくるなんて~コトは出来ないんだから、薪や炭は買うわけだよ。必ずしもメッチャ安いシロモノじゃ~ないんだから、1日に2度もご飯を炊くという経済的ユトリも生活のユトリも、ないはずなんだ。

 そうでなくとも江戸っ子は、見栄張って、高額な初物を買って喰らったりで、生活の中の支出バランスがヘンテコなのだ。

 なので、ご飯は朝に炊き、昼食・夕食は冷や飯というのが常だったのが江戸時代の実相だ。(夕方に炊いて翌朝は冷めたご飯を食べるというコトもあったようだ)

 

 冷めたご飯は嬉しいものじゃない。ならば、それを補う手法としての「かけ飯」が生活の工夫として出てくるのは必然であって、「流行」とかいったレベルじゃ~ないはずなんだ。

 

 時代考証を極めてしっかり押さえて映像とした『たそがれ清兵衛』では、真田広之演じる下級武士宅でも、冷や飯を「かけ飯」にして食べていた。味噌汁らしきをご飯にかけて食べていた。

 

武士の家計簿』では、下級の武家ではないけども、堺雅人演じる御算用役人の家の夕食シーンでも、冷めたご飯のようだったし、描写の仔細に徹底的にこだわった黒澤明の『用心棒』でも、宿場町の居酒屋ケン飯屋の主人が三船敏郎演じる主人公に、

「飯は冷たいぞ」

 ことわり入れて食事を出す。それをとっくに承知して主人公は、平然と、囲炉裏にかけられた鍋の芋と汁をご飯にかけて喰らうんだ。

 

 我らがキムタク主演の『武士の一分』の夕食も、シーンとして明確に示唆されてはいないけど冷めたご飯だ……。茶碗を口にあてがい、キムタクが搔っ食らうトコロからも、それが冷めたメシというのが判る。

 

 ご飯を炊くという行為には、とにかく薪が必要なのであって、費用を思えば、そうそう易々には炊かれないのがご飯なのだ……。

 なので、良く出来た論文で参考になるコト多々でもあったけど、ご飯を炊くための経済という視点が欠けていたのが、

「玉に瑕じゃな~っ」

 ひっそり、こっそり、思うんだった。

 ちなみにアナタ……、最近、自宅で冷たいご飯を食べたコト、ありますか?

 たぶん、ないっしょ~。そこが江戸時代との大きな「喰い違い」ですねぇ。

 

 さてと明日のルネスホール。どのタイミングでご飯食べようか?

 おそらく何やかんやで、イベント終了後にやっと……、なんだろうなぁ。

 ま〜、これも自分にとっては年に数度あるかないかの特殊事情の1つ。大いにそれを、愉しもう。

 

明日は中銀前

 

  年輪を重ねに重ね、60代後半になると、アレコレ衰えが著しい。

 バッコバクパクと大食らいグルマンだったはずなのに、今や一膳のご飯ですら時に食べきれない。

 筋肉の萎え速度も早い。

 近年は自転車にもほとんど乗らないから、余計に萎え萎えが早い。「萎え」は英語じゃ「wither」だけど、むしろ「Wizard」に逢い、老いの魔法をかけられた感じ。

 

 数日前の雨中、中国銀行本店広場でのイベント『中銀前ジャズナイト』の準備の1つとして、近隣の町内会長さんとか宇野バス本社さんとかとか、複数の施設や個人さん宅に、岡山市の担当さんと一緒に、お願いをかねて挨拶廻りしたけど……、歩き廻ったとはいえ総距離は2千mほどとたいしたコトはないのに、なぁ~んと終えた後に、足が攣った。

 コロナ禍で1回のみ中断したものの、20年近くこの挨拶廻りをやって来たけど、ふいの、足づり眉間しわよせイタタのタ~に、老いの存在をくっきり意識させられた。

 少々の運動じゃ~、身体の衰えを補えないんだろね。

 

 なにより顕著というか変なのは、朝起きると、首が痛いのだ。

 枕との相性が悪いとか寝相が悪いとか、アレコレ考えられ、youtube とかで対処方法を学んで、夜具と枕の狭間にタオルを丸めて宛てがうとか、数年前には味わいもしなかったヘンテコリンに直面して、困惑がらみの衰えを意識するんだった。

 赤ん坊は首がすわってないワケだけど、何のこたぁ~ない、この年齢になると、身体は赤ん坊の方向へ退行するんだな。

 とかいって、がんばって運動しよう、鍛えよう……、という気には直ぐにはならないワケで。

 でも、一方でこっそりamazonなんぞで室内用フィットネスバイクを眺め、

「あんがい安いじゃん」

 ポチっと購入ボタンを押したりはしないけど、そういうのも視野に入れてる自分をハッケンして、

「ぁあ、ナンギなもんじゃね」

 長嘆息するんだった。

 

 

 さぁさぁ、そのイベントは、明日だわいね。

 本番は夕刻だけど、裏方は早朝より会場で準備作業有り。

 1日前の本日は、鋭気と英気を養うべく、ここまで記して、はいオシマイ。『中銀前ジャズナイト』にお越しくださるようなら、お気軽にお声をおかけくださいね。

 詳細はコチラ

 

チョイっと修復

 

 コロナ以前、岡山シティミュージアムの鉄道関連イベントや自身の講演などで展示した模型。

 ほとんどの車輌はまだミュージアムに保管されているけど、数輛は手元にある。その内の1輛をば修復。

 破損しているワケでなく、製作時に手抜きしていた部分をば、レストア。

 ペーパー・モデルゆえ、ノリとハサミだけで概ねの作業が進む。

 

 戦中戦後(1945年前後)岡山市内を駆けていた岡山電気軌道の100型路面電車の、この模型塗装は、まったくヨロシクない。なのでこれは1度だけ展示に使ったきり。

 ほぼ、真っ黒にペイントすべきだったと、今は概ね判っているんだけど、製作時にはそのカラーリングがいまひとつ、了解しきれていなかった。

 製作時に参考にした当時の資料に、

「空襲に備えて路面電車はすべて、目立たぬよう、くすんだ色に塗り替えた」

 という記述があって、カモフラージュ的迷彩みたいな色が念頭に固着してしまった。それと、戦後の泥のような荒廃にも気をつかい過ぎ、結果として、ダメな彩色車輌になっちまった。

 

 ペーパー・モデルは、作図+カラー彩色をパソコン上で行い、それをプリントし、切ったり貼ったりで立体物にする流れゆえ、ボディ・カラーはもはや変更できない。

 これがヒリヒリする嫌ぁ~な気分を沸かせるけど、しかたない。というよりも、失敗作ゆえに逆に愛着と執着が入り交じった気分もあって……、そうでなくば修復したいとは思いもしないでしょう。

 

 本模型を作ってから、ちょっと後に入手した資料写真があって、それは米軍が岡山を空襲する1ヶ月ほど前、事前に岡山上空を偵察飛行して撮影したもの。〔1945年5月13日撮影)

 路面電車がくっきり映っている。この当時、この路線を駆けていた車種は判っている。100型という二軸車輌。

 上写真の通り、おそらく屋根まで真っ黒にペイントしていたのだろう……。けど、どのように色を変えようが、ダメね。空から地表を眺めりゃ、電車だと即行で判っちまう。

 逆に、真っ黒にしたがゆえ、夜中はいざ知らず、白昼だと目立ってしまうワケだ。

窓ガラスは近所のスーパーで買ったお弁当のフタ部分を流用。工作用プラ板より薄くって適度な透明さなので重宝する。工作用のそれはクリア〜過ぎて逆に使えない。昔のガラスは均一性に欠けて景色がちょっと歪んで見えるんで、そこを考慮してのお弁当のフタ……

 

 一方で、この100型は戦後に改装され、カラフルに塗装され直し、なが~く使い続けられているのも承知している。

 戦後は驚くほどに、色彩が戻るんだ。ヒトの衣装も路面電車も、皆な一様、色が復活するんだ。

 戦争さなかは華美を避けざるを得ない空気が圧倒し、黒や紺のみの着物で過ごしていたのが、敗戦と共に、タンスに横たえていた赤や青や黄……、自慢の着物を引っ張りだして袖を通し、町にでた。路面電車にも明るい色がつけられた。空気の組成が激変したわけだ。

 

 戦後に塗装が変わった番町線の100型電車。マックロからホワイトと淡い空色のツートンカラーに大変身。戦時でなく戦後となった空気感が見事に反映している……

 

 昭和30年代半ば頃からはカラー撮影も出始める。1965年(昭和40年)頃のカラー撮影の普及率は10%程度ながら、5年後の1970年にはそれが40%にまで上昇したのは、同年の大阪万国博覧会の影響だ。

  なんせ6500万人近くのヒトが吹田の会場に出向き、一生の思い出にと、一家に一台のカメラに高額なカラー・フィルムを入れて持ち込んでるんだもの。

 我が宅もそうで、ボクが映ったカラー写真の最初は、万博会場内でのものだ。

 模型製作の資料としてカラー写真は申し分ない情報があって、色彩に関してはほぼ、変にアタマをひねらずとも、忠実に再現できるんだから、ありがたい。

 

 今はもう、知ってる人の方が少なくなったけど、岡山には「番町線」という路線があった。

 岡山駅から城下に向かい、そこを左折し、就実高校の端っこまで駆けてまた左折、裁判所のある交差点近くまで進んで、そこが終点。(上の米軍が撮った写真を参照されたし・新鶴見橋は番町線廃止で出来たんだよ)

 番町線は、日本のみならず、世界でイチバンに短い鉄路として、鉄道マニアには有名な路線だった。(城下交差点から番町まで900m弱の路線が番町線。岡山駅から城下までは東山線東山線にとって城下交差点は途中の駅でござい)

 

 ボクはマニアでも鉄道オタクでもないけれど、資料を収集したさい、意外にも、昭和40年代頃には、関東方面の高校の修学旅行先には、岡山・広島というコースがあって、その頃に鉄道マニアであった関東圏のごく一部の高校生にとってはヨダレものの、萌え萌えの岡山旅行だった……、らしい。

メインは広島原爆ドームの見学で戦後の平和教育ゆえのコース設定だったんだろう)

 そんな方々が年とって、インターネットの時代になって、若き頃の岡山旅行で撮った写真をネット上に公開してくれている。

 これが、とんでもなく素晴らしい資料になるワケだ。

 地元のニンゲンは、毎日、眼にしている路面電車なんか、誰も撮影しない。だって、あまりに日常のモノだからね。撮る対象にならないんだ。

 で、番町線が廃止されると、県外の方々が撮った写真が、途方もなく価値ある、

1級資料

 として輝くワケじゃね。

 おかしなもんです。

 

 ↑ 昭和43年(1968)に修学旅行で岡山にやってきた方(当時高校生だね)が撮った番町線の100型103号車。左背景は岡山東警察署。現在は岡山県立美術館でございます。

 

 同103号車を再現した模型。赤色マットの上で撮影のこの車輌模型たちはミュージアムに保管されているので、手元にない。

 番町線が廃止された1つの理由には、モータリゼーションの波及で市内への車での乗り入れが希求され、新鶴見という新たな橋の建造に線路がジャマ……、という次第で、世界でイチバンに短い番町線は姿を消すコト(昭和43年)になったけど、惜しい気がしないではない。

 番町線はその短さとあいまい、黒字の路線でもなかったけど、亜公園が閉園して7

年後、現在のオリエント美術館の場所に本社と車庫を設け、明治45年から運営された鉄路(番町線という名は大正10年から)。空襲にも耐えて生き残り、存続させようと、当時の岡山電気軌道社は奮闘し、経費削減として車掌の乗車を廃止、日本初のワンマンカーとしたのも、この番町線だ。

 全国の路面電車の会社は番町線のその成果をみて、右へならえで追従。車掌という職業がなくなる発火点ともなっている。

 だから、いささか不思議な感もある。Aを成し遂げるにはBが不要なものとなるという、天秤のバランスが崩れていくのをマノアタリにしたみたいな妙な感触。結局はその番町線も車社会の押し寄せに負けてしまったワケで、いまはこうして模型でもって当時をまさぐってみるコトしか出来ない。

 修復の模型は、彩色の基本部分で間違っていたけれど、模型工作と史実の狭間の深みをこれで勉強させられたワケで、なのでま〜、戒めというか、チョイっと大事にはしている次第。

 

台風直下と国葬

 

 数日前、彼岸参りにやって来た弟の子供の1人から、

「ぉいちゃんの一番好きな映画、なぁ~に」

 と問われて、くだらない質問にゲンナリしつつ、同時に、即答できない難問だなぁ~、とも思わざるを得ないのだった。

 だって、そうでしょ。観た映画は数多ヤマのようにあるんだし、好んだ映画もまたヤマのようにあるワケで、そのヤマの中より1本をナンバー・ワンと断言するのは……、とても難しいんだから。

 

 絵画や音楽にも、それはいえる。

 頑張ってベスト・テンくらいなっら、云えそうな気もするけど、それとてあくまで頑張ったりオマケしたり四捨五入したりという操作が必要で……、けっこう難しい。

 あんまり真剣に考えたこともないから、余計、ハードですがな。

 

 サルバドール・ダリは毎年、9項目ほどの設問をもうけ、自分、ダヴィンチ、ラファエロフェルメールやマネなどなど、名だたる画家に点数づけして、それを公表していた。

 傲慢な彼が、ほぼ常にダヴィンチとラファエロを自分よりはるか上位において点をつけているのが、面白かった。フェルメールはダントツで高得点。同時代のピカソは自分より僅かに下。モンドリアンにいたってはほぼ零点。

 9つの項目の点数は毎年変動し、ダリの1年での気分の在処がそこに反映していて、興味深くもあった。根っこは真面目なダリさん……、という印象が浮く。

 

 

 映画もそうだね。観返すたび、評価は変動する。だから、「一番好きな映画」というのは最悪の愚問だと思うのだけど、ズバリ即答できない憂鬱もまた……、チビ~ッとは味わってしまうのだった。

 なので、

「去年観た映画でイチバンは?」

 と期間を限定し、そのうえで項目があれば、答えやすいとは思うんだ。今度、甥っこにあったら、そう促そう。

 

 ダリの「採点表」の項目は下記の通り。

 技術・霊感・色彩・主題・天才度・構成・独創性・神秘率・真実味

 映画にも応用できそうだが、ま~、天才度とか神秘率は変更だな。

 霊感は絶妙。某政党をむしばんでいる統一なんたらの霊感とはムロン、ちがいます。

 ダリゆえに超自然的なものとしての第六感的なものなのだろう。でもインスピレーションととれば、そのままでもイイような。

 

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  女王の国葬をライブ映像で見つつ、哀悼する。寺院から宮殿、そしてウェリントン・アーチに向けての2.5Kmにおよぶ、ながいながい葬送の行進と行進曲……。

 チャールズ新国王も妹のアン王女もその2.5Kmを歩き続けていた。

 国葬というカタチの意味と国葬に価いする人物の大きさを今一度かみしめ、黙礼する。

 

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 台風は日本に大量の水分を運んでくれて山々を潤し、山はそれを蓄えとして保水して川や樹木を養いと、恩恵高き自然現象じゃ~あるけど、もたらす厄介もまた大きくって、一長あれど一短もあり……。

 

 

 これを書いている19日の23時現在、雨なく風もなく、最強クラスというから身構えていただけに、ヤヤ拍子抜け。朝にはケロっと収まってるんだろう、たぶん。

 こういう晩は、なんぞ映画をみつくろって観て過ごそうと思ったけど、いやいや、

神田伯山の講談youtubeで眺めるのもイイ。

 とにもかくにも圧倒され翻弄に近い驚愕を味わえる大型タイフ~ンが伯山。

 


 

 ここで紹介する「東玉と伯圓」は、六代目伯山となった彼自身もハナシの中に登場する驚きをからめた超絶話芸。騙されたと思って5分聴いてみんちゃい……、5分どころか最後まで一気がオチ。とんでもない弩級の台風が彼。

 ※ 字幕をONにして観るといっそう凄みと迫力が増加しますぞ