1つ大きな行事を、それが何であるかはさておいて、ともあれ済ましてしまうと、ハートのど真ん中にポカッと黒〜い穴が開いていく気配を感じる。
その穴は極度に大きくはないけれど、羞恥が混ざった痛痒がからんで、いつまでも消えてくれそうにない。
昂揚が束の間ゆえに余計、行事に行事をのせて重ね、昂ぶった波の上での持続をいだくけれども、行事と行事のはざかいの、句読点としてのマルやらテンを打たねばならない時には、きまって、虚ろな穴がそこに開いていくのが… わかる。
そんな"穴"を映像として見せてくれた作品が数本ある。
どちらも秀逸な作品。
が、いま自分のどこかに開いた穴とは共鳴してくれない…。
この暗い穴を埋めるには、前記の通り、あわただしく行事に行事を積み上げて、自分を狂騒の中に置くことで何とか埋め合わせというコトしか手立てがないよう思える。なので… その狂騒の温度にまで体内温を持ってかなくちゃいけない。
白紙の五線譜にオタマジャクシを連綿と連らね続けなきゃ、いけない。
その作業が楽しいことを知ってるがゆえに、いま、こうしてチョイとした空隙の中に身を置くと、足踏み状態の、満たされない、それゆえ虚ろに感じられる"穴"を、ことさらに意識させられる…。
クリスマスの夜。懇意ながらしばらく出向いていなかったイタリアン・レストランの2階席で、ミニでプチな忘年会をかねつつ、来年に向けての打ち合わせをやっているさなかにも、その暗い穴が眼の前にあるよう感じられる瞬間があって… 僕は困惑しつつも笑み、笑みつつも蚕食されて殻に覆われて、その足元から暗みが増していく不穏をおぼえた。
日付が変わるチョイと手前の時刻に店を出て、それから相棒をエスコートしてしばらく界隈を歩いてみると、厳寒で足の先と手の先がジ〜ンと凍えていく気配があって、それが暗い穴の拡散を防御してくれるようなトコロもあり、環境の苛烈は時に何事かを忘れさせてくれる効能があるのだな… と、納得もするのだったが、今度は逆に寒さで酔いが醒めていく…。
途端に虚ろが口を開ける。
それでボクは暗く凍えた海の中を進んでいるネモのノーチラス号を、思う。
彼の旅は何だったのだろうと、あらためて思う。
多くの読み手は"復讐のため"という。
が、そうかしら?
なるほど、それは1つの行事としては描かれてはいる。
けれども、最上位のものではない… と、ボクは感じる。
むしろ、ボクはネモの中の穴、空虚との対峙の旅だったのじゃないか… と、感じる。
そして、フッと思い出す。
かの小説中には、艦内の図書室にある本の数多(あまた)が記述されているのだけども、仔細に眺めると、ジョルジュ・サンド女史の著作も本棚に入ってた筈。
ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」の解説本などを少し掘って眺めれば、パリの文壇サロンの花形であり恋多きチャーミングな女性であったサンドが、この「海底二万里」を書くように勧めた張本人であるコトが判る。
たしか彼女はその頃は、ショパンと熱愛中だったと記憶するが、なにしろ魅惑いっぱいなサンド女史だ。ヴェルヌもその磁性に惹かれたと確信する。
ゆえにか… ヴェルヌはネモの潜水艦内のライブラリーにショパンの若き肖像画を置き、本棚にサンドの著作を置いた…。
どう転んでも、ネモという人物の骨格には、サンドの恋愛小説は似つかわしくないな〜と僕はながく思っていたけれども、いま、この瞬間の感想は、ちょっと違う。
『それも、ありだよなっ』
と、ネモもそのような本も持ってしかるべきと… 考えを一新させた。
その本の存在に、ネモの空虚の中の、あるいはヴェルヌのと云った方がいいのだけども、成就しない慕情を、それはサンドへのそれではなくって、ヴェルヌ個人が抱えていたドンヨリとした感触をボクは感じ、かつ、似通う"穴"の気配をおぼえる。
たぶんに形而上でなく… 形而下学的な範疇の何事か…。『したい』と『されたい』は合致しない。
そこが「海底二万里」のテーマであったろうと愚考する。
ネモの本棚には芸術と科学を中心にした古典と最新のものとが網羅されていたと思うが、その中にチョコンとサンドが混ざっている、そのおかしみと哀しみ。
どこまでいっても、求めるものと求められるものの溝は決して埋まりはしないと諦観しつつも、それでも… という一縷が、切れっ端として、置かれたサンドの著作に顕れているような気がする。
____________________
さてと、年末だ。
換気扇と暖房のフィルターを掃除すっか。
まずは空気の循環だわさ。