川で遊ぶ


久しぶりに川に出る。
まだ風邪が抜けきっていないので、いささかシンドかったけど、仕事のシンドさとは毛色が違う。
シンドさに甘味が混ざって痛苦はない。
馴染みの1人乗りを浮かべ、腰から滑り込むように乗っかって、漕ぎ出す。
水がよく澄んで心地よい。
岸辺から遠ざかるに連れ、日頃のアレやソレやコレの難事難題が薄らいでいく。
やがてケロリと忘れ、ハタと気がつくと、水との戯れに忘我している。
カヌーの下の透明な水に夢中になる。
水底に見える丸い石の数々の膨大。
魚影はないか? 
おっ、こんな所に藻が生えてやがる。
夢中になってる。
まとった皮膚は中年のそれながら、水面に向けて炯々と光るメダマは10歳のそれと変わらないと感じる。
大原橋をくぐり抜けると川は右側に大きくゆったりと蛇行する。
川の中に浮いたペットボトルが数箇。
毛蟹の漁の、そのしかけ。
左手に水門。
水門は地蔵川に結ばれる。その川は数百メートルも進めば、ただの用水路と化すが、ここではまだ川の威厳を持っている。
よどんでいて藻が大いに茂った川だが魚影は多い。
その門前にて釣りに興じる人を眺めつつ、ゆるく流れていくと、やがて岩場に出会う。
岩場はおおまかに云えば、竜ノ口山の麓というコトになる。
そこから浸透した水が竜ノ口山の地下を潤し、次いでそれはヒトヤマ向こうの平坦な田園の地下水の素となる。
雄町米(おまちまい)を育んだ土壌は、この竜ノ口山と旭川のいわばコラボレーション的産物、といってよい。一見はそうとは判じにくいが、川に出て、川の眼になって見ると、この地形がゆえに山向こうに肥沃を育ませたと諭される。


旭川はこの竜ノ口山に遮られる形で、ここで右に大きく蛇行する。
長大といえば誇張ながら、水が積年のうちに穿ったその岩場はちょっとばかり奇観である。
からしか望むコトの出来ぬこの岩場には藤が密茂っている。
それが花をつけるのは五月だが、その美麗な景観は川の中からしか眺望出来ない。
この岩場の下辺りに深度五メートルの深みがある箇所がある。
さすがにそこいらは底が見えず、水は停滞しているかのように深閑としている。静謐なその川面に岩場の上の樹木が覆いかぶさるように密生していて、見上げると、川に樹林で覆った山が衝突している様相が窺え、真夜中ともなれば得体なきもののけが、少しばかり跋扈しておかしくないとも感じる。
されど白昼において、不気味はない。
来たる夏こそ、カヌーをここに停め、ちょっと潜ってみようか・・と思ったりする。
そう想像するのが愉しく、知らず1人、ワクワクする。
もう何年、何回めになろうか、この岩場まで漕いでいき、そこにとどまってひっそりとタバコを燻らすのを、ボクはヘキとする。
誰も見えない。
誰も見ていない。
愉悦の温もりが幾度となく沸く。何かを考えるワケではない。ボ〜ッとして、水となり石となりして空気に溶ける。時計のない時間を満喫する。
そうやってユッタリと進行すると、今度は左に川は蛇行し、前方に市の水道取水がための門が見えてくる。
この水門を通った水の半分は水道水となり、もう半分は竜ノ口山を大きく迂回した末、旭川の東側に広がる平野に血管のように広がっていく。
門まで漂蕩し、引き返す。
いつの間にか、鼻の頭が陽に焼けている。