ファイナル・カット

2週間ほど前だったか、オランダ通りのとん亭でビールにラーメンにぎょうざといういつものワンパターンの晩ゴハンを食べてたら、とん亭の小さいテレビに、メガ牛丼のCMが映り、大きめな丼の中でユッサユッサと揺れるギュ〜をば眺めて、
「おや? 何だろう? あの揺れるギュ〜は何だったろう」
不意打ちを喰らったような、何かの相似をおぼえて首を傾げつつも、それが思い出せないまま、ラーメンをすすりつつ密かに、そのでっかい牛丼を想起させて、喰ってる気持ちは牛丼だけど実態はラーメン(それも一番フツ〜のやつ)でございな妙なアンバイの夕飯を"楽し"んだ。
吉野家フアンの我がオ〜君なれば、このメガ牛丼にいかように反応するだろうかとも、その時密かに思いもしたのだけど、あんがいというか、予想を上回るスピードでもって反応し、視察に出向いたようでもあるので、
「やはりなっ」
ニタリとほくそえんだ。
と。
それにしても、あのCMの揺れるギュ〜だ。
なんであったろう・・ と、その後、真剣に考えるワケでもなく、アタマの片隅に引っ掛かるままにうっちゃってはいたのだけど、昨日の夕刻、自転車でセブンイレブンに向かっている時にハタと気づいた。
あのユッサユッサな揺れは、デカパイのそれだった。
「そうか、ホルスタインなチチであったか」
納得して、胸のつかえがとれた。
それだけのコッチャ。\(^-^)/
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東京と大阪で、いま、「ブレードランナー」のファイナルカット版が上映されていて、大阪のKYOUちゃんや東京のKURIちゃんから電話を頂戴した。
こういう時には地方都市はいささか損なのだけど・・ マ、しかたない。
再編集の上に、あの暗い画面が鮮明で鮮烈な色彩になってのリターンという次第なのだから、嬉しいね。
ブレードランナー」の最大の見所は、あのビジュアルはもちろんだけど、あのビジュアルにばかり眼を向けていてはイケませんよ。
見所の最大のポイントはね、ロイ・バティがデッカードを死の直前の恐怖に追いやった後、座り込み、とつとつと喋りだす、あのシーンだよ。
I've... seen things....
you people wouldn't belive.
Attack ships on fire off the shoulder of Orion
I watched C-beams...
glitter in the dark near the Tannhauser Gate.
aii those... moments will be lost...
in time
like tear.... in the rain
time... to die.
"押さえた情感"を込めて、とつとつとロイが喋る、ネ・・。
そこがこの映画の一番の見所。ポイントだ。
ロイはオリオン座の近隣で火災を起す宇宙船の惨状を見ているんだね。
C-光波も観察した。
タンホイザーゲートのきらびやかなオーロラの素晴らしさも目撃しているんだね。
でも、それら経験としての思い出も自分が死んでしまうと消えてしまう・・。
デッカードにも、映画館のシートにうずくまるボクらにも、タンホイザーゲートが何か、C-光波が何なのか、宇宙船の火災がどのような性質でどのような災害であったかも判らないのだけれど、ロイがデッカードにそう発した事で、デッカードはロイの中の本質としての"人間"に気づくワケだ。
そこでデッカードは怯え竦んだ表情から一転、上の写真の表情になる。
狂妄な殺人者と思い決めていた対象の中に、人の柔らかさと、人が経験したコトもない遥か遠方での大きな体験を身体に刻んだ"人物"だったというコトを知るワケだ。
当然に、映画館にいるボクらも。
そこがポイント。
リドリー監督の着眼は、アンドロイド云々でもなく、未来社会でもなく、物質としての死でもなく、死によって"消失"するであろう多々の"記憶"への『哀切』であろうとボクは思う。
『挽歌』といってもいい。
このシーンでのハリソン・フォードルトガー・ハウアーの演技も素晴らしい。
多弁でもなく雄弁でもなく、こまぎれに、自身の記憶のごくごく一端を死の直前に洩らさざるを得なかったロイの、"人間"としての気持ちが判ると・・ この映画のコトをさらに好きになるとボクは思うよ。