オリエンタルのマースカレー

久しぶりにマースカレーを食べたのだ。
お味は甘みがちの中に辛みがあって、オリエンタル社がいうトコロの"まろやかさ"が柔らかなフトンの真綿のように全体に組み込まれていて、正直いって好もしい。
作りようによって味覚へのそれは幾らでも変わろうけれど、ボクの舌にはよく合うカレーのルウだと思う。
ボクの舌は・・ カレー専門店のそれよりも家庭用のルウにほどよく適合してる舌なのだ。
一部の食通に云わせると、
「それはいいもの食べたコトがない証しだよ〜ん」
てなコトで、とっても正論なのであるけれど・・ 本人としては、
「ほっといてくれ〜」
なのだった。
で、そのオリエンタルのカレーなのだけど、なによりも好感なのはパッケージだ。
このパッケージを新規なモノにオリエンタル社が変えたら、ボクはもうオリエンタルのマースカレーは買わないと宣言しておく。
この"オリエンタル坊や"は良性の放射能を振りまいていて、とても異彩なのである。いや、昔、ボクが子供の頃には、それほどに良性の光輝はなかったようにも思えるのだけども、今だかつて連綿と、この坊やが坊やのままにパッケージ右手に佇まいしているのが、とにかく良いのである。
変わらないのがイイのである。
どう・・ 見たって、この子の写真はヘンテコだが、そのヘンテコが魅惑の鉱脈となってダイヤがごとくに輝いているのだから、オモチロイ。
スプーンを右手に、左手の指を口にくわえているが、イヤシンボ〜な感じじゃなくって、なんか歯のゴミを取ってるような感触の方が上に来るし、眼がとっても変に思え、チャツネ付き、というよりはキツネツキ・・ という雰囲気が醸されているようで、これもまたこのパッケージを際立たせる。
耳がスポックのように尖っているのもまたイイし、シャツの配色もすこぶるイイ。
映画「ブレードランナー」の中でデッカードに扮したH・フォードがこれにちょっと似通う柄のシャツを着けているのだけど、"オリエンタル坊や"の着こなしには及ばない。だいたい坊やは写真の通り、コック帽をかぶっていて、坊やとコック帽という本来は必然性なき別種を見事に合致させた上でシュールリアリズムが標榜とした非現実の中の現実、超現実性をがっちり捉えてしまって離さない。
坊やのカタチを見せつつもレプリカントめく"製造されたかも"な滋味あいをホンノリと覗かせたこの写真は、コック帽の背景のカレー色の余白に数多の物語を編むコトが出来るようでもあって、だから眺めていて飽きるコトがない。
よく見ると、坊やの左手の前には水が入ったコップがある。
モノとしてのカレーは出ていず、坊やはいわばパッケージのちょっと外側に視線を注いでいるワケだ。
そこがまた凄い。ホントに凄い。
こんな演出は・・ なかなか出来ないぞ。
抑制が効いているという以上の、凄みがある。
ボクは子供の頃より、この"オリエンタル坊や"に親近と違和を同時に感じて、その違和が「マースカレー」のマースを"火星"と勝手に解釈させたりもして、そうすると火星とこの坊やの不思議な雰囲気はぴったりマッチして落ち着きがいいもんだから、つい最近まで、ボクはマースを火星と決めつけてたワケ、だ。
久々に食べ、久々にパッケージを眺めるに、マースカレーのMARSはMangoにAppleにRaisinにSpiceからの造語というコトが判って・・ 真相が判って嬉しいという感じじゃなくって、妙に淋しく残念に思ったりした。長年の我が心の中のマースカレーとの関係性がいささか傾いだような瞬間ではあったけど、マースカレーはやはりイイなあと認識した。
大塚のボンカレーはあの松山さんのパッケージでなくなった途端に売れ行きが落ち、松山さんのパッケージを復刻させるや、怒濤の勢いで売れたという。あの松山さんとこの坊やは、だから永劫性をおびたアイコンなのだ。
だから前述通り、このパッケージではないオリエンタル・マーズカレーになっちゃったら、ボクはそれをショッピングセンターでカゴには入れなくなるのだ。
パッケージを含めてのカレーの味、なのだよ。
ついでに記しておくが、パッケージ裏の写真もよい。
コンロもお鍋も雰囲気がいいが、とりわけオタマがスゴイ。
柄のところにブラ下げるための穴がある。アルミのオタマだ。
今度、オリエンタル・マースカレーを食べるコトになったら、アルミのオタマを使うのがいいかもだ。ノスタルジーとしてじゃなく、気分一新の新規なモノとしてのアルミニュームのオタマだ。