美保関隕石

実際の命題は気心知れた年配のご友人がたと山陰の海の幸を食しに出向くというものではあったのだけど、その食事の舞台が美保関なのだから、隕石なんぞに興味をもたない方々を、
「近くだから」
と、誘うには都合がいい。
昼食とは思えぬ豪奢な膳を松屋という海岸沿いの民宿兼食堂でとった後、ご機嫌となって、そこから車で数分の、メテオプラザに向かう。
美保関隕石は、タクアン石なのだと云われれば、そ〜なのかと思ってしまうような、実に見慣れた、違和もなければソツもないカタチをしているので、とても遠来から飛来したとは思えない。が、それでいて、似通うカタチに造形して重さも実物にあわせたレプリカを両手で抱え持つと、その大きさからくる、ボクが知っている石の重さとは比較にならないメカタを体感出来るので、
「ほほ〜」
と、感嘆の溜息がこぼれるのだった。
人類が作り上げたどんな乗り物よりもはるか昔、40数億年前の宇宙の創成期に生れ、今の形となってほぼ7千万年は経過しているらしきこの石には声を出す器官はないけれど、もしも眼があれば、その眼は何億年もの時間の中で遭遇したやもしれない謎や光景をまぶたに焼いてきたであろうと想像できるし、ひょっとして知的な生命体と接近遭遇したやもしれないと勝手に空想の幅を広げていくと、長さにして30センチばかりのこの美保関隕石という存在は実に劇的に"いっそうに重いもの"にと変じていくのだった。

この石が体験したであろう悠久のモロモロを一つ一つ取り出すコトは出来ないけれど、希有な、宇宙の証言者として、どのような宝石よりも価値あるものとボクには思えるのだった。
それらを踏まえて円筒のガラスケース内の本物を見直すと、そこらの川原で拾い上げる石とは生れも育ちも違う、毅然とした風格を備えて、宇宙空間を億年の単位でもって彷徨っていた永劫の"重量"を、それは菩薩像のようにたたえているのだった。老いてはいるが、黙してはいるが、その経験値には途方もないものが含まれていると、思わずに凛とさせられ姿勢を正して脱帽するような畏敬があるのだった。
残念ながら、メテオ・ミュージアムに足を運ぶ方は今や少ないと思われる。
開設当初は何万だかの入館者があったろうけれど、今や閑散として、自分の靴音にギョッとなるくらいに静かだ。
降ってわいた隕石を展示するがためのミュージアムであるから展示物の幅が広いワケもない。武田鉄矢のお母さんが来訪とか、米朝一門が来館、毛利さんが来館などなど、著名人の来館を伝える写真を並べるなどして展示の幅をもたせようと務めていらっしゃるけれど、ローカル色を濃くするばかりで哀愁めいた空気が逆に漂い出る・・・。
が、それでも、落下時の壊れた家屋の一部を目の当たりに出来、展示された家の梁やカーペットを眺めると、衝撃の凄まじさに圧倒されるのだった。
多くの人が来館しようがしまいが、展示物は無言でもって、落下時の凄まじさを伝えてくれるのだった。
1992年の12月10日。午後9時。
雷を伴った豪雨であったようである。
そのさなかに落下があった。
広島方面で多数の、火球の落下目撃が報告されている。その火球が美保関隕石だ。
美保関の民家・松本さん宅にはその時間に二人の家人とその友人がいた。
大きな物音と衝撃に、近所に雷がおちたと3人は思ったようである。
屋根瓦から床下までの貫通には1秒もかかっていないであろうし、よもや、隕石が直撃とは誰だって思うワケがない。松本さんのまばたきよりも素早く、隕石は直撃したというコトになるのだろう。
天井に穴が開いたのに気づいたのは2時間後。
隕石が発見されたのは翌日の夕方だ・・。

ほぼ垂直に落下した隕石は、屋根、屋根の敷板、梁、二階の天井、二階のカーペット、床、一階の天井、タタミ、一階の床、以上9つのバリアを難なく抜けきって地面にとどまった。深い穴を穿ったのではなく、そこで高回転し、家の土台石によりかかるようにして静止した、ようである。
多くの場合、地球に落下した隕石は砕けるけれど、松本さん宅の木造家屋が良い緩衝材となったようである。カーペットやらタタミが軟着陸を誘ったワケだ。
しかも、普通の場合、隕石というのは大気との摩擦熱で表層が真っ黒に焼けている状態で見つかるのだけど、上記の9つの"柔らか素材"でもって、こすれ、地表に到達した時には真っ黒が取れちゃって普通な感じの石と見紛うホドのものになっていたそうであるから、すごい。
もちろんながら、もう数メートルずれて落下していたら、死者が出る惨事となったコトであろうと予測できる。
そうなったら、『美保関いん石まんじゅう』は世に出てこなかったと思うのだが、ありがたいコトにそうならなかった。
展示物の中で一番に衝撃的なのは、二階部の天井内の梁である。
梁というのは家の骨格ゆえ、太い木材が使われる。
その梁が砕けているのだから、すごい。
このすごさと、『美保関いん石まんじゅう』のパッケージデザインはぜ〜〜んぜんリンクしないのだけども、それは、買えたら、やはり、とても嬉しいお土産なのだった。
何年も前にこのお饅頭は作られなくなったと思い決め、実際、メテオ・ミュージアム内のショップにも売られていないから、もう二度と拝めぬな〜と、受け付けのお姉さんに、
「そういえば、昔、隕石饅頭ってのが売られてましたよね」
遠い懐かしい思いを折り込ませた眼で申せば、
「あら、それなら隠岐汽船売店に・・」
と、予期しない答えがかえってきた。
「え?! あるんですかァ!」
逆に驚き、小躍りした。
メテオ・ミュージムは隠岐汽船のターミナルに併設され、施設の総称としてメテオプラザと呼ばれているワケだけど、乗船しないからターミナルなんぞには出向かない。
そのターミナルの売店に『美保関いん石まんじゅう』はホントに、置かれてた。
ふ、ふ、普通なら、ミュージアムに置くぞ・・。
来館者が少ないからナマモノはちょっと・・ というなら、
「ターミナルの売店で販売中」
とかいった張り紙一つは出すぞ。
そんな仕掛けがないから、たぶん、ミュージアムを訪問した人の多くは、その饅頭の存在を知らずに帰っていく・・。
ともあれ、連綿と『美保関いん石まんじゅう』は作られ続けていたワケだから、これは嬉しい。
今も売られているという事実が嬉しいのだ。
その昔、新見市が全国に先駆けて「電子投票」なる仕組みを導入して好評を得たさいには、その名も「電子投票まんじゅう」なるが売りに出され、味がイイとかいう次第ではなく、ただただ、そういった饅頭が売りにでたのだというコトに天晴れでニコニコしちゃうような朗らかに気持ちになれたもんだったが、同様に、『美保関いん石まんじゅう』にも同じ滋味をおぼえる。
絶えて久しいと思ってた饅頭に会えたのが、この旅の収穫となった。