あさがお

夏のアサガオと秋のタケノコは成長著しいモノの代名詞と昔からいわれ、大江戸時代の忍者はこぞって早朝、アサガオの蔓(つる)やらタケノコを飛び越えて跳躍の訓練をしたもんだという… それは嘘として微笑むとして、実際、アサガオの成長は早い。昨日は50センチくらいな丈(たけ)が今日にはもう60センチを越えていたりする。放っておくと1階の窓脇に植えたそれが2階の窓の上の方にまで伸びちゃったりするくらいの勢いだ。
アサガオの事をアサガオの花として認識したのは小学校の4年だか3年の頃だと思うけど、以来40年を越える歳月を経て、つい最近に、ボクはアサガオの真実を知ることとなってちょっと眼を洗われたんだよ。
恥を晒しちゃうようだけど、ボクはズ〜〜ッと、アサガオの花というのは一輪が咲いたり開いたりを繰り返しているもんだと思い込んでいたんだ。朝に開き、昼にはもう閉じて翌朝にまた開く… を日々繰り返しているのがアサガオだと思い決めていたんだよ。
ところがだ。
これが違うのだった。
アサガオの花の寿命はたったの一日だけなのだった。
朝に咲き、昼にはもう命運が尽きているのだった。
大輪となったその花の下に、実は、明日の花の蕾が、その横手には翌々日の蕾がと… 躍動するエンジンのピストン運動のように、たえず蕾が生成されているのだった。
このことをボクはこの前、老いたる我が母に教わったのである。

実家の庭先に母が植えたアサガオを眺めている時に、そういったことを口頭で教わったのである。
むろん… その後に母の小言というか苦言が続くことになる。
「おまえはそのトシになるまで、こんなコトも知らんかったんか… やれやれ」
に、はじまり、
「そんなこっちゃから、アレコレうまくいかんのじゃ」
と、続くんだからたまらない。
知らなかったことは知らなかったワケでどう云われようと二の句はないものの、一輪のアサガオの鮮烈に眼を丸くしているそばで人生の訓戒まで聞こうとは思っていないんで、
「オ〜、マイガッ…」
と、ボクはアメリカ人のように首をすくめて両手の平を左右に大きく開いてジェスチャーし、腰が大いに曲がっている80代半ばの我がマミ〜を一瞥するのだったけど、ともあれ、アサガオの日々の逞しい生成の営みには大きく感服するのだった。
連綿と続々と日々をうっちゃっていく確実かつ堅実な営みに、ちょっと息をのまされるのである。
それでちょっと観察する気になって、夜明け前から庭先に出でてアサガオを眺めたら、感銘が一段と濃くなったのだった。
夜明け前、アサガオの蕾は陽が登る方向に向けて、いっせいにその鎌首を高らかにもたげ出す。まるで、宇宙の暗渠に向けて飛び立つ直前のアポロ・サターンのように、神々しい屹立を見せ、カウントダウンを開始する。実際、その形はロケットのようなのだから面白い。
東の空が淡い茜色を交えて明るくなり出すと開花をはじめ、早朝6時の低い位置ながらんも眩い日差しを浴びるころにはしっかりとした大輪となっているから、素晴らしい。
「う〜ん、見事や、天晴れだ!」
と、拍手したくなる。
昼前の11時頃には大輪は力尽きてうなだれ出し、午後のうだるような日差しの元では萎んで醜いような姿になるのだけれど、その後ろ、その側面では、翌朝の発射を待つロケットのようにして次の蕾がむくむくと目覚めつつあるのだった。何か、強く、何事かを示唆されるような按配がそこにはあるのだった。