フルムーン


今日は満月なのだった。
朝4時の満月はほぼ真西の、角度でいえば45度くらいの所にいる。今朝は天気が良いので隣家の屋根を黒いシルエットと化させて極めて明るく輝いている。
iステラでもって確認するに、すぐ横サイドにはペルセウスだのカシオペアだのの星々がまたたいているハズなのだけど、明るいから、見えない。
月は今、地球を真ん中に置いて、太陽と真反対の所に位置してる。
平面で申せば、満月は太陽から一番に遠い所にある状態だ。
この満月が定速でほぼ2週間かけて移動すると、いわゆる新月となる。
今度は太陽と地球の真ん中に月が位置するから、当日の月は肉眼で見えない。
これを朔(さく)と音読みし、満ち欠けを繰り返す月のいわばスタートであるから"月立ち"、すなわち"ついたち"と訓読みする。朔と書いて、ついたちと読む次第。
これは11月28日に起きる。
それからまた2週間ばかりかけて移動し、また満月になる。
次の満月は12月の13日だ。
さてと満月の今日の白昼、ボクは車で日生(ひなせ)に出向き、五味の市という市場でエビを一山買った。
同じものをスーパーで見ると白っぽくて、それがこのエビ達の常態だろうと思ってしまいがちだけど、獲られて数時間しか経っていないエビ達は透明度が高い。ボディは半分ほど透いてみえる。
てんこ盛りで1000円。かきあげにすればイイだろう…。ビールがすすむ… と買った。
しまった! 買った直後のエビの一山を写真に撮っておきゃよかった…。
てなワケで次の満月の日は、ボクは何をしているだろう。あなたは何をしてるのだろうか?
ちなみにボクは蕪村の一句がものすごく好きなのだ。
月天心貧しき町を通りけり』
っていうヤツだよ。
春の句ともいわれるし秋とも冬の句ともいわれてるけど、ボクにはこれは冬をまじかにした秋だと思える。
エビのかきあげを夕げに喰った寒村の親子が寝静まっているボロな屋根の上を静かに満月が照らし、ゆっくり東から西へと移動してく… なんど詠みなおしてもイイ雰囲気な句だ。
誰1人、月を見てはいなくって、総じて、薄いせんべい布団にくるまって寝てるんだ。月に感じいってるワケでなく、ひたすらに甘睡に溶けていて、人と月は関係ない。けれど、俯瞰でみると、関係ないんじゃなくって、人の営みと宇宙的な静寂な営みが実に巧妙に編まれていると思えるから… ボクはこれが一押しなのだ。
今から200年以上前、蕪村さんはほぼ間違いないなく、真夜中の1時くらいに屋外にいて、どこぞの村だか町を一望する場所で満月を見たはずだ。寒さを足や首に感じ、ブルルと背を丸めつつ見たはずだ。少なくとも数分は月をあおぎ、明りのない町とを対比として見たはずなのだ。
見た直後にこれを詠んだとはボクには思えない。
寒さは遠慮がないから、たぶん、句を編むどころではない。嘘だと思うなら、やってみなさい。
だから感じたものをフトコロに入れて蕪村さんは室内に戻ったとボクは思う。
その感じた気分を、数日経ってか数年をかけてかで文字として凝縮させたと思うのだけど、蕪村さんの中に"天体としての宇宙"が感覚としてあったとボクは思うから、好きなのだ。
いい句をありがとう、蕪村さん。ビールとかきあげをおごりましょうか… と気どってみたくなる。