現実の大きさ

自宅の窓ガラスの向こうに見えてる電信柱を見上げつつ、久々に、負けたといいましょうか、思い知らされたといいましょうか…  その電信柱を越える高さの波を想像して、そこで思考をこわばらせています。
金曜の夜と翌土曜の夜は、二夜連続で芝居を観るというコトになっていて、金曜のそれは7人ほどの若い役者による群像劇。土曜のそれはパントマイム・パフォーマンス。
どちらもけっして悪いものではないし、水準を超えた良性なスピリッツに満ちてもいたのだけども… テレビで見てしまった東日本の災禍の映像を前にすると、色も香りもが失せます。
ステージ上の熱演は熱演なれども、電信柱の高みを越える黒い波の勢いには完全に負けます。
スケール違いの迫力といいましょうか… 1/150のNゲージ・スケールの鉄道模型の横に、1/87のHOスケールの精緻な模型を置かれたような、大きさがもたらす太刀打ち出来ない強靱さに打ちのめされるのです。
芝居の中で演じられた人の狂騒、人の面白み、人の情動… いっさいが軽々に、波にさらわれるのです。
黄色い帽子の園児の群れに成人した関取が1人現れて、その巨大さとパワーでもって園児らをなぎ倒し蹴散らし、しかも関取は園児の群れに遭遇したといった自覚などは皆無のまま、高々と哄笑しつつ風のように去っていったような… ルールとか規範とかモラルとか、あるいは1/150とか1/87といった"ワク"なきスケール…。
そのスケール外の遠大に打ちのめされるのです。
土地を買い、そこをオレのモノとして飾りたて、オール電化だと喜んだりデジタルだ〜と誇示してみても、結局は大きなお饅頭の上。それも表面の薄皮の上。
お饅頭そのものがチビッと振動しただけで、薄皮はめくれ、やぶけ、ふくれ、はじけ… るワケなのだから、人間は本当にはかないもんです。
けども、はかなさを思って悲嘆している場合でも今はないワケで、今はもう1人でも、あの映画「ディ・アフター・トゥモロー」同様に、救出に専念しなきゃいけませんね…。
さきほど、地震が生じてから51時間が経過したようです。
多くの人が動けないままに救出を待っているはず。
1人でも多く助かればと願います。