次ぎにどうするか…

50年後には核融合でもって電気がおこされる世の中になっているだろうと、思う。
核分裂核融合とではまったく違うワケで、どっちが良いか、と問えば、当然に核融合だ。
小さな太陽に等しい。
核分裂では、ものすごくヤッカイな廃棄物がたえず出て、それを何10年も何100年も完全に管理しなきゃいけない。
ボクが出したものすごく害悪なゴミを、ボクの子が、ボクの孫が、彼らが大人になった後もズッと厳重に管理しなくちゃいけない。
しかも、ボクの子はボクの子で害悪なゴミを出し、孫の世代は世代でやはり害悪なゴミを出し続けるから、危険度はどんどん増していく。
このゴミは放っておくと何10年何100年の単位でもって発熱したがり、発熱するや咳をするようにして悪しきなモノを吐き出し続ける。
それゆえ水で冷やさなきゃならない。何10年も何100年も水を循環させなきゃいけない。
「ダイジョウブ。キッチリ管理しますから」
は、たぶん、そうならない…。
それは管理というよりは、いっそ"養って"るようなものなのだ。
このたびの地震がその養育の自信を粉砕した。
"TVシリーズ「 From The Earth To The Moon」の第2話"最初の悲劇"は、アポロ1号の事故を描いて秀逸だった。

リバティベル7の飛行士ガス・グリソムと米国初の宇宙遊泳をはたしたエド・ホワイトとまだ宇宙に出たことはないけど有望な新人で笑顔が綺麗だったロジャー・チャフィーが訓練中のアポロ1号の中で焼死した痛ましい事故…。宇宙空間ではなく、地上で事故が起きた衝撃は大きい。
事故調査の過程が実話に基づいたドラマとして描かれる。
クライマックスとして公聴会のシーンがおかれる。
NASAを糾弾するもの、宇宙船を設計製作したグラマン社を非難するもの、アポロ計画を中止させようとするもの、などなど、負の電荷が飛びかう場と化した。
そんな公聴会の中で、フランク・ボーマン宇宙飛行士が証言者として立ち、
「想像力の欠落が原因だ」
と、いう。
「地上での訓練ゆえ安全だと誰もが勝手に思い決めていた。むしろ、そこに危険があるというコトすら意識していなかった。開くのが簡単ではないドアで締め切った空間に純粋酸素を満たせば、そこがどれほどに危険な場になっているか… 誰も想像しなかった」
「だからNASAも悪い。宇宙船を設計製作したグラマン社も悪い。そして、わたしたち飛行士も悪いのです」
と、告げる。
事故の原因の根本を"想像力の欠落"においたこのドラマは実に秀逸だった。
その教訓は、あらゆる科学の現場で濃く発揮されなきゃいけない性質のものだ。
当然に、今回のフクシマは、その教訓が浸透していない事例のさいたるものだ。
"危険の想定"と"かかる経費の重み"を天秤にかけ、バランスをとるべく危険を低く低く見積もりし、万が一の備えすらも"ダイジョウブですから"の根拠なき言質でもって怠っていたワケゆえにの、今のテンヤワンヤだ…。
このテンデワヤはまた繰り返される可能性が高い。
応急処置としての"取りあえずの復旧"が繰り返されていき、根本はまた忘れられ、あるいは忘れたフリをして、少しばかりの改善でもって平静がいずれ装われる。
明治時代に導入の東と西の、デシベル数の違う互換性のない発電根本を見直さないままのように。
けれども、孫の孫の代まで延々と続く危険ゴミの管理を、1秒たりとも怠れない状態を抱え続けなきゃいけないのだし、放っておくと高い熱を出してヤッカイなものを放射し出す廃棄物は日々増加するのだから、普通にボンヤリ考えても、どっかでほころびが出ることは容易に想像が出来るのだ。
わたし達の孫の孫の世代までが、わたし達の出したヤッカイなゴミを管理し続けるという構図のおかしさ。
前記の通り、管理というより、これは、
"養育"だ。
たえず、片時も忘れずに、水をやらなきゃいけないゴミをわたし達は飼い続け、かつそれを増やしてく…。
アポロ13号」の事故は、なんとか無事に3飛行士が帰ってこられ、その帰還のための膨大な努力は今も高々に賞賛される栄誉を勝ち取ったけれど、事故の原因は、小さなミスの重なりだった。
しかも、このミスは、誰をも責められないような性質をもった対応の上での過ちであって、それがここでもまた"想定を上回る"、"想像をこえた"事態となってハラハラドキドキを引き起こしてしまったのだから… ナンギなのだ。
3人を助けた着陸船は本来は地球に戻ってこないものだった。それが戻って来て、切り離され、燃えつつ解体しつつ海に消えた。着陸船には小さな原子力発電の装置があって、これは消滅せず、ニュージランド北東の深海に沈下して今も微量な放射線を出している。おさまるのは2000年先だ。

ともあれ前記の通りに、いずれボクらはそんな難儀な核分裂方式から核融合方式の発電に向かうだろうと思われる。
当然ながら核融合は、分裂のそれに比しては、圧倒的に安全度が高い。
ウランやらプルトニウムが原材料ではなく、燃料は海水から抽出される重水素だから、生い立ちが違う。
これでの発電中にはやはり中性子などが出るし、使った炉は放射能汚染もされるけど、燃料の水素は完全に燃えて消滅するからゴミは出ない。逆にいえば、完全に燃えないと核融合しない。
未だに開発中で実用化されていないのは、これが点火させるに難しい技術だからだ。
例えるなら、1ケの電球を作るのに何億もかかり、その明るさも20ワットの小さな灯火程度でしかないというのが現状の開発の前線だ。
逆に、これは消すことは容易だ。ごく僅かな不具合でもスグに消えてしまうから、苦労のポイントはその燃焼の継続に置かれる。だから安全な停止という意味では核分裂のそれとは比較にならない。
余談ながら、ご存じ、ジュール・ヴェルヌの「ノーチラス号」はこの核融合炉で動く潜水艦だ。ヴェルヌは当然に核融合を知らないからその辺りのニュアンスは小説中ではやや誤魔化してある。電池として用いるナトリウムの生成で話を膨らませるにとどめていらっしゃる。
されど、海水をエネルギー源にした動力の発想は核融合のそれにピタリと一致する。
さてと。もちろんに、想定外な事態は核融合の発電にも起きるに違いない。
けれどもそれは、今の核分裂がもたらしたフクシマのようなカタチではない。
というワケで… 分裂から融合のそれに切り替わるのを願う。
そも今は、核分裂へのアレルギーがある。
科学の知見が「ダイジョウブでやんす」と云ってみたとて、他人が使ったというだけの理由で便座を拭き清めたがる、知らず潔癖症な体質になってる日本人には、科学は脆い言葉でしかなくって、ただもう、
「気持ちワリ〜〜っ!」
が濃く染みつきだしている。
「狼はいませんよ〜。狼は喰いつきませんよ〜、だいじょうぶ〜」
と、いくらお役人が行っても、狼はすでに野に放たれた。
「これっくらいならダイジョウブです」
という論評はあくまでも対処としてのそれであって、根本としての、なぜ狼が野に出たの? 誰が狼を育てたの? を問わねば、アレルギーの治療にもならない。誰も納得しない。
原子力の専門家がダイジョウブを力説すればするほどに、イソップの童話のように、信じてもらえない嘘話に堕していく。原子力の専門家は原子力を糧に給料をとっているから原子力を否定しない… 危機を過小にとらえていると、畑の中のおばさんがいう言葉の方が輝きだす。
では… どうすりゃいい?
世界一の地震大国の日本は、ゆえに、あえて、現在の核分裂方式からの脱却を世界に向けて宣言し、水素による融合方式への転換を高らかに謳うのがよろしかろう。
化石燃料は枯渇するし、風力や太陽光エネルギーは良いけれども容量は局地的なのだから… 電気を求めるなら、小さな太陽たる核融合炉を作るしか手はない。
かつてケネディが指導者としての蛮勇をふるいたたせ、
「10年以内に月に行くんだ!」
と、宣言したように。
そして、それを実行したように。
「10年以内に水素による核融合発電を行うんだ。それは容易じゃない。が、容易じゃないからこそやるんだ」
と。
むろん、その10年の合間は今の原子炉たちを使っての発電をやむなくも続けなきゃいけないけれども、ともあれ、決意すること。
技術確立を待つのではなく、それを実行にうつすこと。
ケネデイが宣言した時には、ロケットはおろか、月がどのような環境かも、技術も知識も何もなかった… いわばアホみたいな夢想でもあったけど、宣言の通りに国中が一丸となって実現化したわけだ。
そういった蛮勇をこそ、ボクは求めたい。いずれ50年先には核融合が出来るであろうではなく、それをさらに引き寄せることを日本が率先してやってみるんだ。
50年を10年に圧縮するには当然にお金もかかるさ。人材もいるさ。
次ぎの方向を示唆するには、なにより決意がいるさ。
有りや無しや?