ヨーダ爺さん

このお盆に従兄がやってきて、「もう1〜2年は持つような感じ」と話してたのだけど、その矢先、従兄の母さんがなくなってしまった。
従兄の母さんは我が母の姉だ。
久しく患っていて、けれど、アンガイと丈夫な感じもあって、それで「もう1〜2年は」の発言だったワケ。
展開の急にガックリきたけど仕方ない…。
94歳。
ホールで葬儀とあいなった。
近頃の葬儀は演出が際立っていて猛烈にいやらしい。
泣かそうとする司会の言葉と音楽がうざったくて、場にいるのが痛い。
親族に提出させた写真とコメントを元にチャチャッとお涙頂戴の"映像作品"までが作られて、それを見せられたりもする。
葬式商売。実にいやらしい。
その"映像作品"に提供された写真をデカデカと映されると、否応もなく、懐かしさがお湯のように沸いたりもするからいっそうに腹立たしい。
が、そうやって喚起された思い出もまた事実でもあるんで、腹立たしいのと悲しいのとがゴッチャになって批判の矛先は方向を失ってしまったりもする…。
写真の中に、母達の父親の写真がチラリと登場する。
我が爺さん。
ボクが小学校の低学年の頃になくなったから、随分久しい。
身体が大きな人だったが老人ゆえ皮膚が垂れ、耳が異様にデカク、頭髪はない。
口やかましい人で、室内で孫たるボクらが騒々しくするや、すぐに叱られたもんだ。
なので、なんだかダークサイドなヨーダみたいな怖い感触だけが子供のボクには植えられたけれど… 明治の人だった。
津山で最初に自転車に乗った人であり、最初に洋服店を作った人と記憶されている。
県北の上斎原という所にスキーを持ち込んだ最初の人でもあって、後に我が親族を含むグループがそこにスキー場の礎を作ったりもしたようである。
ボクにはダークサイドなヨーダと映っていたけれど、実の彼は夫婦で手をつないで津山市内を歩いていたそうで、たぶん、それは大正時代のことであったろうと推測出来るけど、今では考えにくいが当時では、たぶん、画期的なふるまいであったろうとは… 思える。
その爺さんの写真がチラリと葬儀場のスクリーンに出てた。
あざとい演出に組み敷かれた不快も当然にあるけれど、鮮烈さのあるフイをつかれて、ちょっと、あわてて眼をそらした。
子供のボクには口やかましいただの爺さんとしか思えなかったけれども、今こうして自分もかなりの年齢に達してみると… 爺さんの輪郭は瑞々しさをおびてくる。
かつての昔に津山は水害に見舞われ、ゆえに爺さんの若い頃の写真はすべて流出した。
ガラス乾板に映された写真が多々あったそうである。
ガラス乾板の写真は、ずいぶんと高額だったはずだが、なので、知る範囲、彼の写真は晩年間際の老人のものしかない…。
惜しいなあ、と思う。
写真機やら洋服やら自転車やらスキーやら、手をつないだりと… ちょっとした放蕩ものであったろうともコッソリ思ったりすると、何やらいっそうにヨーダ爺さんがフレッシュになる。
カッコいいじゃんか。
でもって… そのヨーダ爺さんの子たる我が叔母がなくなったという次第なのだ。
そうやって時代がうつろい、世代が変わっていくのだけども… つくづく惜しまれる。水害で失われた写真たちが残っていればと、強く惜しむ。
あれば、猛烈に見たいし… きっと諸々な発見もあったと思えるし。