良い子は廊下でくるわない


この表題。
岡山県南部に住まう人の多くが、"理解"できる方言だ。
じっさい、この表題が掲げられた小学校の教室もあった。
「くるわない」は「狂わない」ではなくって、早いハナシが、騒がないとか暴れないとかいったニュアンスな、『静かにしていなさい』という意味で使われる。
なので、「廊下でくるわない」の標語が壁に貼られたりしてたワケ。
さすがに中年になって、この頼もしき一語を聞くコトは久しく絶えていたのだけども、昨日、仲間内のパーティで久しぶりにコレを聞いて、ちょいとほころんだ。

半田山植物園のすぐ近く。
飲み仲間10数名が集っての内輪な新年パーティ。
酒によく親しんだ者ばかりゆえ、悪酔いする者などいない。
60越えもいれば35っくらい、もいる。
全員が別の仕事につき、妙なしがらみなし。
損得なし。
が、そこはそれ。
やはり、普段と違うシチュエーションの中で羽目をそれなりに外したいのが人情だわ。
普段はBARの止まり木で大人しくしてた連中も、内輪の気さく、気兼ねがない。
よって、アホ〜な子供に戻って、ちょっと戯れる。

すると、誰かが笑いつつ、
「こりゃこりゃ、そこでくるうなよ」
だ。
で、そういいつつ本人も輪に入る。
それで、またボクらはイチダンと、「ぁ〜、仲間よ」な意識をはぐくむ。
関西から、横浜から、単身でここ岡山に来て住んで仕事して、お酒を介して仲間になった人もいて、彼らには、この「くるうな」が、やはり、おかしいらしい。
感覚として判らんではないが… 語感が妙なのでビミョ〜な、らしい。
でもまた、そういった方言の中にいる自分を感じるコトも出来るので、むしろ、方言が放射されるのは嬉しいようだ。
親しみと愛しみが湧いて、自分の足から根が生えるようだ、という。
あるいは、岡山という根が自分の足にからんでからめられてくよう、ともいう。
「それは良いことなの?」
と、問うと、関西も横浜も両方、にやり頷く。

ともあれ、よく呑んで、よくくるった一夜。
蕪村の冬の句にこんなのがあったな。
寒月や 衆徒の群議の 過ぎてのち