ピレネーの城

もう1ヶ月で、あの日が来る。
あの日というのは3月の11日。
早いような、遅いような…、人によって感じ方は諸々だろうけども、どこかに刺さって抜けなくなったトゲのような感触を持っている人は、きっと、多いと思う。
3月11日のみが特別なのではなくって、その翌日から今日に至るまでの11カ月に、どこか違和をおぼえ抱えたままに日々を過ごしているような感じなのではあるまいか。
そこでだ…。
この不穏にからまった感触をカタチにしてみよう、と自分に課題を出し、ア〜でもないコ〜でもないとまさぐって、たどりついたのが、こんなカタチ。

絵としての「ピレネーの城」は、マグリッドがこれを描いて発表して後、イメージは増幅され拡大され続けて、今はやや図柄としては"古風"でさえあるのだけども、イメージがコピーされて色々なアートやら映画の中でこだましていると思えば、やはり、これしかない。
ボク自身が絵を描くという行為よりはるかに、この複写と加工による行為が、もっとも"今"だろうと思うから、これを使う。
カッコいいとかではなく、"今"というカタチの中には、著作権という難問も含まれる。
他人のマワシで相撲をとる、というだけではなくって、そこには今という時代の、コピーと加工を後押しする技術がある。
実際、この作業の過程ではマグリットの時代にはない、アルファ・チャンネルという色分解とマスキング処理でもって、ボクはオリジナルの構成要素をバラバラにし、海は海、空は空、巨岩は巨岩にと、再構築して歩を進めている。
波は、あの津波を想起する。
青い空と雲は、津波が来ようと来まいが、地球が回転して翌日が来ることを示すけども、浮遊した巨岩とそこの城は、原子力という不安定なもので発電して暮らしてる我々が置かれた… このままでイイのかよくないのかな、不穏の図象といったところだろう。
そして、その上で、この形、物体としてのiPhone用のスタンド/ドッグ。
iPhoneを産んだS・ジョブスがなくなったのもまた大きな衝撃であり痛みだった。激震と津波の年の終わり頃にやってきたもう1つの鬱屈がこれだった…。
だから、このiPhoneを乗せるスタンド/ドッグは、聖なるメモリアルとしてのイコンであり墓碑である。
かつ、イコンでありつつ実用なもの…。
Illustrator CSとPhotoShop CSとプリンターとペーパーで作る。

工作を進めていく内に、昨年の諸々を思い返した。昂ぶる愉しさもあったけど、根底では未体験な領域を突きつけられてど〜返答し、ど〜振る舞ってよいか判らず終いな1年だった。
それを、卓上のささやかなカタチにすることで、昨年の輪郭が少し自身に刻まれて、視力が0.2くらい復活してくれたような、足元が少し固まったような感じもする。
もちろん、それはほんの少しなのであって、いかんせん、自分は未だ不穏で不安定で不当なピレネー城に囚われていて逃げようもないのだけども。
そんな次第あって、最初はこのスタンドの背面には宙に浮いた巨岩の後ろ姿を描いていたのだけども… それは消去した。実体があるようでないコトを立体物の中に意味づけた。見えているものが全てではないという気分も混ぜて…。この環境に馴染んじゃいけないと自身に警句を発しつつ。
ともあれ…、置かれた場所と気持ちを、今という感触を、自分の日常でもっとも使って過ごしている環境の中で1つのカタチにしてみると、こうなった… という次第だ。