手の痕跡


とある展示物の納品が迫っている。
なのでその一環として、カッターナイフで小さな小さなパーツのディティールをくり抜いている。
この作業の軽減にと、かつて何人かの方々に、カッティングマシンを勧められたことがある。
でも導入する気はない。
なるほど、それは利便で精巧にカタチをくり抜いてはくれるのだろうけれど、面白みがチッともない。
お江戸や明治の時代の浮世絵の制作過程に思いを運ぶと、その感が余計に昂ぶる。
国吉や広重の描いたイラストを版木に写し取る職人の呼吸をボクは好もしく思う。
たとえば彼ら職人は歌川芳春の小さなサインも見事に写し取る。彼が画中に書き添えた流麗な文字の羅列も見事にサクラの平板に写し取る。
当然に、版画ゆえそれは反転しているワケで、作業における御苦労は途方もないもんだったろうと感じるのだけども、一方で彼らはそれを苦労などとはコレっぽっちも浮かべなかったろ〜な… とも感じる。
絵師の手の痕跡をサクラの木に彫師が手で忠実に彫りこみ、それを刷師が巧みに刷る過程も好もしい。
明治になって写真術が導入されると、絵師も彫師も刷師もがいっそうに発奮し、写真なるものに対抗すべくワザをいっそうに研ぐ…。
なので、この頃のボクは江戸のそれよりも明治期の版画に強い興味を惹かれている次第なのだけども、それはさておき… デジタルな機械化は、その全てが"造形"に適しているとは、ボクには到底思えない。
Macでボクは作図してプリントするけれども、それをペーパーモデルとして切り抜く作業というか行為は、断固、手で行いたい。
なぜなら、そこに"模型作り"の醍醐味があるワケで。
カッティングマシンは精妙にカットしてくれるだろうが、それはいささか『スジ』が違うのだ… と、ボクは思っているから、おのが手でシコシコする。
ペーパーに刷られたカタチに沿って刃を動かしている時の、自分というカタチも面白く感じている。
座禅して心を無かにするというのがあるけれど、何かそれに似通う感触もある。
手の先に集中しつつも、頭の中では、何やらまったく関係のない事柄が浮いたりする。
それを消去させる気はない。
むしろ、その想念をボクは楽しんでいる。
浮き上がった邪念や妄想や空想や追想や、時に秀逸に思えるフレーズの煌めきや唾念やらやらが、きっと絶妙に反映しつつ1つの作品に昇ってく感覚を、ボクはおぼえるから、この手による作業が好きなのだ。
当然に、時には、面倒に思うこともあって、
「ぁあああ、ジャマくせ〜」
カッターナイフを投げ出して、シガレットをくわえ、プ〜〜〜ッと自分を煙に巻くこともあるけども。