海底二万里と西部劇

近頃、DVDで西部劇を何本も観たのだった。
ハリウッド映画の"西部劇"は概ねで1860年から1890年代にかけてが話の中心だ。
1869年に南北を結ぶ大陸横断鉄道が敷かれ、白人族にとって未開であった北アメリカへの進出がはじまって… 先住民たるインディアンにとっては迷惑を越した非道い時代と… なる。
ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』という物語は1866年にはじまる。
米国での南北戦争が終わるのが1865年だから、”アロナクス教授の手記”はその翌年からのコトになる。
なので西部劇はほぼ同時代のものとして観られるワケだ。

米国全域を鳥の目で眺めると、ちょうど国の真ん中あたりの地域での話が"西部劇"だ。
なので、海とは縁遠いのだけども、その同時代というトコロに興をおぼえ、何本も観ちゃったワケなのだ。
むろんに『海底二万里』は小説だし、DVDで観たのは1940年〜50年代のハリウッド的作り物であるから、いずれも"真実"ではないんだけど、時代という括りの中での共通の呼吸を、観るコトで感じられるかとも思ったのだ。
比較的近年に作られて評価の高い、ケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブス』や『シルバラード』はあえて外し、あえて古い作品達ばっかしをそんな視線で観ると、ちょっとしたパラレルなアナザー・ワールドに足を踏み入れたような面白みも、ある。
海底二万里』という物語を拡大しての、同軸な幹に息吹いた葉や花や実を見るようで、面白いのだった。
たとえば『黄色いリボン』は1876年が舞台だ。
れいの大渦巻から脱出したアロナクス教授はノウチラスの行方が不明と記したワケだけども、『海底二万里』のいわば続編たる『神秘の島』で明かされる通り、その年、ノウチラス号はまだ航海の途上なのだった。
なので、そのあたりの消息をダブらせて『黄色いリボン』を観ると、背景の小道具1つ1つが炯々と息吹いてくる。
この映画で1876年に既に老眼鏡が存在しているコトを知るし、贈り物としての純銀製の懐中時計が存在しているコトも知る。時計は小さくない。退役間際の大尉に扮したジョン・ウエインのでっかい手のひらの上に置かれても、それが大ぶりなモノであるコトが判る。
が一方で、1876年当時に時計の精緻な歯車をそこまで"小さく"出来る技術があるコトも知らされる。

『平原児』では、この頃に現在の紙巻きシガレットが生まれたのが判る。(葉巻は既にあったよ)
大きな外輪線も出てくる。
1936年撮影当時のものを偽装してるだけに思えるから資料的な意味での価値は低いけども、都会と田舎での人の衣装の形や所作の違いはわかって、これまた面白い。
むろんに舞台は物資少なき荒野の彼方なのだから、西部劇映画は諸々な当時の都会的な道具は多くない。けれど、その少なさが劇中での小道具の存在を逆に大きく見せてくれる。
部屋の壁紙、写真立ての形、アルコールランプの形、などなど、19世紀末のカタチの諸々が判って興味深い。
アラン・ラッドの『シェーン』では町が出てくる。
町といっても、ぬかるんだ道ともいえないような路地ぎわに、ホテル兼バー兼ショッピングセンター兼といった小さな店と他に2〜3の家屋が軒を並べるといったささやかさなのだけども、舞台となるその地域に入植して麦を作ってる開拓者らにとっては、それが"町"なのだ…。

なので月に1回程度、家族総出でおめかしし、馬車というか荷車に乗って出かけ、買い物をする。
都会の匂いが満載されたシアーズローバックのカタログを眺めて、陶酔した表情をみせる人や、フタ付きのガラス容器を手にして、
「こんなものが出来たんだ。次にここに来る時は何を見ることやら!」
別の婦人が、やはり驚きを隠せずに呟いたりする。
19世紀末のいわゆる産業革命の波が、そんな西部の田舎にまで波及しつつある状況がちょいと判って、面白い。

米国は移民で成立した国だから、当然に、太平洋側と大西洋側に隣接した地域が、最初に栄える。
南北戦争が終わり、リンカーンが暗殺され、南軍も北軍も、戦闘に従事した若者らの雇用をといたものの、次なる職場を斡旋しなきゃいけない… 大陸を横断する鉄道が開通してワシントン方面とカリフォルニア方面とが結ばれるけど、海に面してはいない大陸の真ん中あたりは未だ手つかずでもあったから、そこへの入植を勧めるコトになる。
未開拓と白人は云うが…、そこにははるか昔からの定住者がいる。
それで軋轢がおきる。
インディアンは非道い眼に遭う。
ベチャ、っといえば、それが西部劇の舞台裏だ。
都市よりも田舎に賭ける者、一攫千金の夢をもった者、都市にくたびれた者、戦争の修羅をくぐった荒れた若者、バカ者、田舎(荒野)にロマンを抱く者、色々個々人な思いを抱いて多くの人が西部に出た。
そうやって何本も観て、共通する感触は、"誇り"だ。
映画で繰り返し紡がれるのは、"誇り"だ。
チープなプライドとしてのそれではなく、純然として無垢な誇り。人としてどう振る舞えばいいか。自身の中にある種のハードルをこさえ、高潔さを多くの人は保とうと務める。
ネモ船長がそうであったように、西部の無名な開拓者もまた誇りを背負っていらっしゃる。
この誇りは、時にいさぎよいカタチで銭、金、マネ〜よりも優先される。
自分はどう生きようとしているかを常に念頭にし、その規範に従って生活していらっしゃる。それは時に高らかな自己犠牲ともなる。
なので、映画を観ていると… 今のボクらが生きてる時代は、この19世紀末に較べて、ずいぶんと見劣りするような気がする。
電気もなければ水道もなく、保安官は2日ほど馬を駆けさせた遠方にしかいない。
当然に苦悩も大きい。
が、それでいて凛々しくいきてらっしゃる。
ネモはその点、科学の粋を極めた船内にあって、電気もあれば浄化された水も飲める。

が、誇り、自身を律するという点は共通だ。
たぶんに今、一番にボクらが忘れているのが、この"誇り"と思えてくる。
映画を観ていると、そこが目映く輝く。
無論に嘘話なれども、登場する悪人にすら個々人、規範がある。
ゲィリー・クーパーの『真昼の決闘』では悪人が兄貴分たる人物の到着を駅で待つシーンがあって、ハーモニカを吹いて時間を潰してるのだけど、婦人が通りかかるとチャンと帽子をとって会釈したりする。
礼節が活き、それなりのルールをもっている。
それもまた眩しい。
誇り、誠実、約束、気品… そういった単語がまだチャンとあって機能していた時代に、思える。
法が根を下ろしていない地ゆえ余計に、きっと、そういった気概があったのだろう。混沌であってはならぬ、といった意志があって、それが誇りにつながり、力強い。
だから、大人が大人の顔をしている。
という次第で、背景となる諸々な小道具に興味を抱いて観ちゃった西部劇から、そんな感想がわいてしまったのだった。
必ずしもトゥル〜な事実を映したものではないと承知しつつも、映画の中央に端っこに左右にと登場する、人の精神の気概のシャンとした背筋の伸び方に感心させられる。
この開拓者達の精神がたぶんに悪しきな方向に根付いて、米国での銃の規制が思うようにいかないというコトにもつながるんだろうけども、少なくとも、いさぎよく、誇りあるハートを持った方々が多々いたであろうと思うと、目映さをまたおぼえる。
今となっては、19世紀末のそんな精神のカタチは、遠い。"そうであって欲しいな"、ってなファンタジーに見えるホドに。

指パッチン。親指と中指でパッチンと音をつくるアレ。
このまえ、どこぞの高校生の"演技"をTVで観たけど、1秒間にな〜んと12回鳴らす。
こりゃ凄い。嘘と思うならスグに演ってみなさいや。
出来ないよ、そんなん。
それで、ちょっと思い出した。
映画史の中での語り草になっている『シェーン』のアラン・ラッドの最初の射撃シーン。
ジョーイ少年の前で空き缶を撃つシーンだね。
腰のフォルダーから抜いて撃つまでの速度があまりに早かったので高名になるのだけど… 実は驚きはまだチャンと伝わっていないぞ。
このシーンはわずか2秒ほどながら、アラン・ラッドは1発撃ったんじゃないのだ。
実は2連射しているのだ。
分解的に説明すると、
1) 抜く
2) 狙う と同時に引き金を引きっぱなしにする
3) 左手の甲で撃鉄をたたく(これで発射)
4) 左手での撃鉄連打(シリンダーが廻ってまた弾が発射される)
こうなるワケだ。
両手を使うちょっと特殊な撃ち方。これがわずか2秒ほどの間のコトなので、連射にも見えないワケ…。
ギターを弾く人の指の先が硬いように、シェーンの場合も、当然に甲が硬くなっていると思わねばイカン。
ヤワな手では、この撃ち方は出来ない。
「シェーン死亡説」とかいうショボな観方があるけど、一番に肝心なのは、やはりこの左手を用いた射撃の速度だとボクは思う。
彼はその大事な左手側ないしはその近くに被弾され、なので左手ブラリで馬で去っていく…。
一流のガンマンとして彼はもうその独自な早撃ちが出来なくなってる… というコトを暗示するラストなのだ、あれは。
「シェ〜ン、カミンバ〜〜ック」
とジョーイが叫ぶけど、もはやガンマンとしての彼の基本は崩れて元には戻れない。
劇中、銃の扱いとそれへのスタンスをシェーンがたびたび再三にジョーイに語るのは、この伏線なのだ。
馬上の左手ダラ〜リはその後のシェーンの、銃なしでの生活が暗示されているワケだし、なによりもだ、"良き人物"をラストで死なせるコトは120%、ありえないのだ。なぜなら、シェーンの死はアメリカン・スピリッツの死を意味してしまうのだ。
なので、シェーンは馬上で死んでる… といった推測はやはり浅くって… 死んだのは"暴力装置としての銃"であって、荒れた開拓時代の終わりと新時代の到来がここに明示されているのだと解釈をすると、この映画の魅惑はいっそうに深くなる。
監督ジョージ・スティーヴンスの気概が判ってくる。
ちょっと余談が長くなりましたな (^^)