さらばムギ球

ある種の模型では"電飾"するコトで模型としての効果、模型としての佇まいが格段に上昇するって〜のが、ありますわな。
それはながく、豆球だのムギ球だので成立していたワケだ。
これには随分とお世話になった。
ムギ球というのは、麦の粒みたいなカタチからきた名なのだろうけど、製品によっては使用済みコンドームの先っちょみたいな… と云った方がイメージが近い不細工なカタチのものもあった。
均一じゃない。例えば10ケほど買うと、10ケ共々、先っちょのガラス面のカタチが微妙に違う。
なので、『紅の豚』のポルコが銃弾を1ケ1ケ識別して使えるものとそうでないのを分けてたように、先っちょを、見て、撫でて、コレはアソコに使い、ソレはコチラに使う… てな振り分けをやったもんだ。
豆球もムギ球も電球ゆえ、いわゆる裸電球と同じ発光色。エナメルのクリア系塗料で、ガラス面を青や黄や赤で塗って、何とか目的とする色合いを出そうとしたもんだ。

それがLEDに置き換わった。
80年代後半に登場したLED発光ダイオードが、より小型化され量産化され廉価になって模型の世界にも浸透し出したのは、21世紀になった頃だったと思う。
ムギ球はカタチのみか製品そのものにバラつきが多く、とかく寿命が短かくって、ボクの経験でいえば、とある模型の内部に組み込んだムギ野郎めが、いざ、完成という段階で、フィラメントが切れちゃって、もはや点灯しないという… 悲惨を味わったコトもある。模型内側にそれは閉じ込めてあるんだから、も〜、どうしようもない。
だから、いつ球切れをおこすか判らない怖さが先にたって、またぞろ模型の内部に組み込んだとしても、いつでも点灯、何分も放置… なんちゅ〜コトは出来なかった。
お友達に見せびらかすとか、なんだか"ハレな時"でなきゃ、なかなか点灯させなかった。
その点でLEDは、放熱対策がしっかり可能なら長時間も平気。球切れの確立が少ない。切れないワケじゃないが頻度はマメ球のそれよりはるかに低い。
それに、輝度が違う。わずか3mm程の小さなLEDが、ムギ球を何倍も上廻る明るさで発光する。
今は種々の色もあり、蛍光灯っぽい光を出すことも可能。球状だけでなく、基板と合体させた4角いのもある。
なので、模型の電飾では、これ程にありがたいもんはない。
でも、一方で… 工作の難易度が高い。
電気の流れを制御する"抵抗"が、必需になる。
ムギ球ならば、赤と黒、あるいは青と緑、といった2本のラインが直かにつけられ、並列なり直列なり、工作は容易なものだったんだけど、LEDは電圧を一定に保つための"回路"も作らなきゃいけない。
複数のLEDをつなぐさいは、ラインの長さは同寸できゃいけない… といった制約もある。
今取り組んでいる模型では、40ケに近い微少なライトを組み込むんで、独自な回路も造らにゃいけない。
おまけに、豆球時代のような太い赤や緑の"線"じゃない。ポリウレタン製の、髪の毛より細いラインを使うんだから、注意深くもなきゃいけない。
今回使ったのは、0.12mmというリードライン。そんな細いクセに、電線なのだ。
電流流れる極細線をポリウレタンが覆っているワケだ。


なので、この被膜をばまずはハンダゴテで溶かし、やはりハンダでそれをLEDと結ぶというヤッカイな仕事をしなきゃいけない。手作業でやらなきゃイケナイ。
今は、LED系の品を扱うパーツ屋さんも多岐に渡り、さがせば、そのような面倒をせずとも"市販品"として1ダース程のLEDを輝かせる回路と配線が済んじゃった商品もあるにはあるのだけど… 高い。
仕事として既に予算も確定しているから、ここは当然に支出はおさえニャいかん。
が、一方ではちょっとでも良い仕事はしたい。
自分の満足の終着点と収入というのは、モノ造りで直面するデッカイ問題で、チャールトン・ヘストン主演のミケランジェロを描いた映画『華麗なる激情』にもそのコトが出ていた…。
好んでたった1人でかの大聖堂の天井に挑んだワケじゃない。ミケランジェロ工房としてホントは複数の職人がいるのだけど、収入がそれに見合わない。なのでやむなく、1人での仕事となってるワケだ。

な、ワケで、高額なれど作業容易な品を諦め、最小単位でのパーツを取り寄せて、我が手での作業に邁進する。
髪の毛ほどの電線とLED回路とをチョメチョメ… ハンダヅケする。
書くは容易。されど、作業は根気と集中。21世紀も、何だかつらい。
乾電池じゃなく、AC電源を想定しているんで、全部のラインは1つに集約するから、配線にも苦労を強いられる。
色分けされていないから、どっちがプラスでどっちがマイナスなのか、まったく判別出来ない上に、なにしろ細いから、すぐにラインとラインがこんがらがる。
イライラがつのりますな、これは。
なので、豆球やムギ球時代の大らかな工作具合が、よりそっちの方が、"手に馴染んだ模型工作"感が濃かったよう、思う。
でも、しゃ〜ないじゃないか。だいたい、もはや、ムギ球を入手するコトが困難なのだし、"新たな時代"の中での模型工作なんだし、得られる結果はムギ球の比ではないんだから、しゃ〜ないじゃないか… と自分を鼓舞して、数日かけ、なんとかこの工作、完了。


現状では、模型工作に使える市販LEDの発光部は最小で概ね3mmくらいなもんだ。
たぶん、あと数年もすれば、これが1mmとか0.5mmといったさらに極小なモノが産まれて量産され、廉価で販売されるに違いない…。
それは待望のものなんだろうけど、模型工作の難易度はいっそう峻烈になる、と思う。
う〜〜〜む。痛し痒し… なのではあるけど、フッと、『源氏物語』を思い出した。
今は早稲田大学の九曜文庫蔵になっている、箱に花山天皇の上書きが座った源氏カルタに描かれた人物たちの絵は、なにしろカルタなんだから大きい筈もない。
顔は大きくて1cmに満たない。
しかし眉毛は1本の線じゃない。たしか数10本もの線で構成されていて、これは今の筆使いじゃ描けない。21世紀のボクらが入手可能な筆で描かれてはいないそうじゃないか。
うろ覚えなのだけど、NHKだかの番組でそのコトが紹介されていたよう思う。
今は限りなく絶滅種に近いか、あるいは絶滅した、琵琶湖のある場所にのみ生息していた葦(あし)の穂先を、筆に用いたそうな。
0.5mmにはるかに満たない微少なその毛先が持つ特有な毛細管現象が、絵の具を滲ませず、極々の細密画を描ける要めであったらしい… のだが、その筆を息を殺しに殺して2mmばかしのスペースに何10本もの線を描いた絵師の技巧なくしては、当然に絵は成立しないワケで、たしか番組はこの驚くべき筆のコトを解明して嬉々と紹介してくれてはいたけど、絵師には触れられなかったよう思う。
その筆があったから絵が完成できたか、絵師が巧みゆえ絵が完成したか… そこはタマゴとニワトリの関係みたいなもんで、ここでチャンと思ってなきゃいけないのは、はるか1000年前(安倍晴明花山天皇の頃)に、LEDの結線どこじゃない、もっと細か〜い小さな作業をこなしていた無名の人物がいたというコトだね。
信じがたいような筆はあれども、手元を照らすライトも拡大鏡もない。純然たる手作業。
こういう先人のことを思うと、細いハンダで苦労しましたわ… というのは気恥ずかしい限りということになりそう。