60年代のオモチャたち

にべもない云い方だけど、ボクは1960年代あたりのオモチャが好きなのだ。
でもって、ちょうど今、その60年代のとある諸々を模型化という仕事をしているんで… ついでというコトではなくって、当時の空気を身辺に感じようと思って、アレコレ引っ張り出してみた。
今回はその60年代のミニチュアカーを幾つか。

概ね1/42〜1/43サイズ。10cmに満たない実に小さな車たち。
亜鉛合金製のボディ。いわゆるダイキャストモデルだね。
手のひらに収まるサイズながらズシリ重く、結果として、車の重量感が伝わってくる模型。
集めているワケではなく、ただかねてより好感を持ち続けていたという次第なんだけど、今はもう造り出せない味があって、そこがイイのだ。
技術が進むと、実際には失われるものもある。
この失われ加減が、"時代性"というか、"時代の味"なんだろうと思う。



60年代というのは、世界中を巻き込んだ第二次大戦が終わってたった15年後のこと。
次の争いが萌芽しつつも若干の安定もあり、技術は進み、あるいは、この10年のうちに月に行くのだという巨大な命題の元で否応もなく技術は進まざるをえなくなったりと、1日24時間という単位がやや不足に思われだした、いわば人の生活の速度があがり、それが生活の中の諸々にジンワリと浸透しだす頃のこと。変化の激しい時期だったと顧みる。
明るい未来と暗い未来の、この2つの予測が激しくユラユラ揺れ、それがある種のダイナミックな脈動にもなったような… 今と変わらぬ愚弄と愚考、善意と偽善、楽観と暗澹、華麗と汚濁が入り交じり、エレキのギターに痺れて感電し、女子のスカートが縮んで男子の髪が伸びてった時代。


当時のミニカーに触れて1番に感じるのは、金属ゆえ、冷たいこと。
鋳造が肉厚なのだ。悪く云えばボッテリしてる。
だから熱伝導を持ち出すまでもなく、冷えた状態の持続がいい。
この冷たさが手応えとしての車の感触をすごく伝えてくれる。冷たいがゆえ逆に嬉しい温かみを、感じるワケだ。
だからある意味では、この時代のミニカーは冬の方がよいのだ。愛でる時期、賞味の時期に高低差がある。いわば模型に季節があるワケだ。
現在造られている、同じ素材、同じサイズのミニカーには、この冷たさの持続がない。鋳造技術が進んでより細やかなモールドを表現出来るようになったけど、厚みが薄いんだ。
だから冷たさが持続しない。



60年代中頃のミニチュアカーは、意外や、サスペンションがついている。
このギミックを最初に仕込んだのはフランスのSOLIDO(ソリド)というメーカー。
亜鉛の薄板をバネに応用しているだけだけど、その機構は外部からは見えなくって、ルーフを上から押してやるとボディが緩く沈み、緩く復帰する。
この重めなクッション効果が、重量物としての車の感触をよく伝えてくれる。今も一部のミニチュアではこれが採用されているけれど、プラスチックが多用されたボディでは、材質からくる重み感覚は望みようがない。


当時のミニカーにはライト部分に人造宝石を嵌めこんだものがあって、これなどはまったく今は消失した"表現"で、それゆえ、逆に今ながめると、新鮮で不思議な魅惑を感じる。
小さなスケールゆえにこれは出来るワザだし、TOYである事への居直りでもあるけれど、人造宝石を使うことでライトの存在、目映さが暗示されて秀逸だ。
上の写真。フォルクスワーゲンの手前の淡いグリーンの車。英国CORGI(コーギー)社製クライスラー・ギア。
米国車なれどイタリアン・テーストな高雅さを醸すこの車の特性を、本作は良く伝えている。室内に、この写真では判りにくいけど、犬が座っているという演出も冴える。この犬は英国王室がかっているコーギーという種類。
で、車のライトが人造宝石。


右のルーフブラックなミニは英国DINKY(デンキー)社製。左のミニ・ピックアップは英国SPOT-ON(スポット・オン)製。
いずれもフロントのライトが人造宝石。
模造のダイヤというより多面体のガラス加工品というのがホントはふさわしいけど、小さなミニチュアカーゆえ、良く似合う。
本物をいかに本物っぽく模型にするかというコトにもエネルギーは使われているけれど、これらの例ではむしろ、本物の縮小再現にあたって、本物ではないカタチでの本物へのアプローチといった、"模型だから可能"な方法が指向されていて、これはとても良く成功していた、と思う。




キリンが乗った車… こういうテーストは今は幼児向きの玩具でもあんまり見られないじゃないかしら?
今とは違ってサーカスはエンターティメントなショーとして花形の1つだったから、こんな模型も成立していたワケだけど、ここにも失われた味が垣間見える。
リアルでなくとも充分に大人も愉しめるカタチになっている。
いい感じ、と思いませんか?
これも英国コーギー製。
60年代のコーギー社はミニカー専門のメーカーながら従業員3000人を抱える大手だったらしいから、大規模。
当時、ミニカーがいかに需要あるものであったかが、この職員数で判るよね。


手前。悲惨な状態になってるのはトヨペット・クラウン。MODEL PETという日本のメーカー製。
これほどのボロになっても捨てられない…。もはや、遺跡みたいなもんだからね。

なぜ、こうもボロになったかといえば、60年代後期にはじまる我が国の怪獣ブームだ。
ウルトラマン』とかのおかげで、ある時、家庭内に怪獣模型も入って来ましてな… いわばこやつめらの餌食となって投げて飛ばされ、ガツンガツン、モンスターに転ばされてコ〜〜なった。
ちなみにこのクラウンはミニカーの純国産品として初のもので、資料を眺めるに発売開始が昭和34年の11月とある。だから、1959年が日本のミニカーのスタートといってもイイじゃないかしら。


国産ついでに…、失敗した製品も、ある。
この米沢玩具製(ダイヤペットというブランド名だった)HONDA-N360は、明らかにバランスが悪い。
フロント・ピラーの傾斜がきつすぎるし、全体のバランスが絶妙にあやしい。同じダイヤペットのフォルクスワーゲン(上の写真)が秀逸なだけに、何だかめだつ。サイズが他に較べて1廻りデカ過ぎるのも難点。
でも、やはり、今となっては愛おしい味がある。

こうやって、ドアやらボンネットを開けて、モッツアGT(イタリアのPOLY TOYポリトーイ製)と並べると… ううむ、やはりデカいの〜、窓枠デカ過ぎだよな〜、などとこぼせるトコロもまたイイのだし、同社のワーゲンが出来が良いのに、何でかしら? とアレコレ考える素材にもなってくれる。

フォルクスワーゲンは手本となるミニカーが既に海外で幾つも出ていたからかな? 
マネたりイイとこを見極められたね… でも、N-360は初の試みだよね… とか、模倣からオリジナルへの模索と、変遷が偲ばれるんだ。
だからかえって、味わい深い。
もちろん、これは"今となっては"というコトじゃあるけれど、ドアの建て付けが悪くて、チャンと閉じない辺りも、かえって新鮮だったりする。


60年代のスポーティな車たち。
人造宝石のミニとフォードGT(40)。右手前はフランスはSOLIDOのアルフォロメオ・ジュリアTZ。その奥はコーギー製のフェラーリ250ルマン仕様。

いいなぁ、この4台。
4台いずれもが豊富なエピソードを持つ。
例えばフォードGTは、これはフェラーリ社の買収に失敗したフォードが、ならば己のが手でフェラーリを越えてやると奮闘し、概ね60年代の10年を費やしてやっとルマンでフェラーリを打ち負かしたモデル。ジュリアTZはルマン以外でのツーリングカーレースの常勝の花形でありダントツに早い車。ミニの37番はモンテカルロ・ラリーの優勝車。



手元に鎮座するジュリアTZはデカールが歪んでる。きっとデカール貼り係のパートのマドモアゼルだかママンだかが、「いいじゃん、これくらい…」てな感じで大らかに仕事をしてくれていたんだろう…。人の手が垣間見えるミニカーだ。
1時間くらい眺めていても飽きないなボクは。
今なら、1500円でお釣りももらえるラジコンのフェラーリなんぞが幾らでも買えるし、それの方がはるかに精密でもあるんだけど… じゃ、それを1時間も眺められるかというと… そうでもないんであって、じゃ、何でダイキャストで肉厚の古い模型は、お酒舐めつつ、アッチから眺めたりコッチから眺めたり、ちょっと触って直ぐに磨いてみたりして気がつくともう1時間近くになる… てなことになるんだろうか?
思い入れが強いし濃ゆいのもあるけれど、何かこの両者の狭間には眼に見えない違いがある… そこを理解して言葉をあたえたいんだけど、まだそれが何だかはよく判りませぬ。"時代の味"だけじゃないね…。
これはもう10歳くらい歳をとらないとダメなのかな?
ちなみに、こういう1時間は女の子とは共有できませんな。
「いいだろ? これっ」
「いいけど… で、どうしたんよ? あたしゃ退屈なのよ」
……1人でやるもんです。
ともあれ、ボクはノスタルジーとして眺めてるんではなくって、どこか、これら金属のミニカーに尽きない新鮮を感じている事は確か…。

というワケでミニカー次回に続く。わっ♡(^_^;