庭池の金魚たち

実家の小さな庭池。
金魚がいる。
が、この初春に何かの理由で全滅。
すぐに新たなのを熱帯魚屋で買い入れるも、また直ぐ全滅。
なにか良からぬ汚染が池にあるとみて、水をば全てバケツでかいだし、数日乾かし、また熱帯魚屋で数匹を求める。
高額な観賞魚なんて、まったく興味なし。
大型の肉食系熱帯魚用のエサたる金魚。
熱帯魚屋の小さな水槽でギュ〜ギュ〜詰めになってる。
これを買い求める。
なので、病気がちなのも多い。
感染症を持ったのを池に入れると他の微生物まで全滅したりする。
1匹わずか25円そこら。
数匹を買い、しばし、バケツの中で薬品づけにする。
メチレンブルーという水溶液が予防薬ケン治療薬。
これに2日ほど入れておく。メチレンブルーは青インクのような色。
金魚が青黒く染まって、何やら気の毒だけど仕方ない。
で、しばし様子を見てから池へ放つ。

池の汚染が除去されたか、あるいはこのお薬が効いたか… やたら元気。
眼元やエラ部分が蒼黒く染まっていたのも数日で回復。
旺盛に泳ぎ、大きくなり、ついで性欲も旺盛になったか… ホテイアオイの根にタマゴを産んだようだ。
7匹だか8匹、小さな子を目撃。
それも同時期じゃない。
気がつかなかったが、サイズを見るに、複数月の合間に何度か産まれてる感じ。
思えば今年は、忙しさにかまけて水換えとかの管理をやってなかった。
ま、それが幸いして子らが産まれ育つ環境だったとも考えられるけど。


この池はオーバーフローの対策は出来ているけれど、濾過機能はない。底に諸々が沈殿する。
よって当然、金魚を飼えば金魚のウンコがたまる。
なんせ食欲旺盛。
水温が高いほど食欲も増加する。
食べた倍の量の排泄をしてるんじゃね〜のか、と思えるほど… 淡いミドリ色のウンコが沈殿する。
日差しが強い夏ゆえ水温も上昇。沈殿物の腐敗も早い。
自ずと水が汚れる。
従来、春、夏、秋にかけては2ヶ月に1度くらいの割合で水の総入れ替えをやってた。
バケツでくみ出し、底面を洗い、新たな水を入れる。
でも、こたびは小さな子らがいて、ヘタに水をくみ出そうなら、誤って子らを捨てかねない…。
なので仕方ない。
灯油用のペコペコを使って、底のウンコを吸い出す。
くみ取り、だ。
熱帯魚用の大型のや電動式なのもあるけど、あえて、このペコペコで吸い出すのがオモシロイ。
ほぼ毎日やってる内に、金魚どももこれに馴れ、親も子もがジャレてくる。
1度、子の1匹を誤って吸い取った。
あわてて元に戻してやったが、しばらくボ〜ッと子はしてた。
心配したけど、次ぎの日にはもう、昨日のように、吸い口によってきてジャレている。かなりこいつはアタマが悪いなとも感じるけど、安堵もする。

しばし、池のそばにしゃがんでペコペコペコやってミドリ色の汚れを抜き取る作業。
蚊にくわれつつ、日差しで汗にまみれつつも、水の中の生きものという存在がやはりオモシロイ。
実は昔から泳ぐ魚を見ていると見飽きないというヘキがある。
なので『海底二万里』を筆頭に、魚が出てくる物語が好きなんじゃあるけれど。



金魚は江戸時代にすごく流行った。庭池がなくともタライで飼える。
"紅いベベ着たか〜わ〜ゆ〜い〜金魚〜"と謡われるくらいに、色彩としての赤が生活の中の1つの光点として目映かったろうと、思う。
夏場はとくに涼しい感じもあるし。
大和郡山界隈を中心に全国に養魚場があって、そこで仕入れた金魚が売られてく。
1748年に『金魚養玩草』という激烈にマニアックかつ本格的な飼育ノウハウ本が出て大ベストセラーになっている。
なんといっても、これを書いた泉州堺の人の40年に渡る飼育経験に基づくという"裏付け"があるので、版を重ねるどころか、加筆修正されてタイトルも替えられた贋作というか類似本が日本中に出現したというから、金魚フィーバーだ。
今のように人工のエサがあるわけじゃなし、エサは天然に限られる。なので、"みじんこ屋"なる商売もあったとのこと。


昨年だったか、カナダだかどっかの大きな湖に逃げ込んで野生化した金魚の写真が新聞に載ってたことがある。
それがもうビックリなくらいにでかかった。写真にみる限り、もとより大きくなるタイプのランチュウの1種と思えたけども、日本のように四季の寒暖がなく、年中に水温が高い上にエサも潤沢にあったから… 男の腕4本くらいの太さになったんだろうか?
ちょっと判らないけど、ともあれ、金魚も環境次第でメチャに大きくなるもんなのだなと感心した。


実家の小さな庭池の金魚どもは、冬は厳寒のみぎり、凍える寒さをひたすら耐えて春を待つ。その間はほとんど、お食事をしないようであるし、実際、底に潜んで出てこない。
そのような環境なので巨大化しないであろうし、して欲しくもないけど、こういった庭池1つあると、けっこう学んじゃうコトもある。
水面にアメンボ〜が複数いる。
水中にタニシがいる。
(タニシというのは淡水にいる貝だよ)
これらはボクが買ってきたもんじゃない。
たぶん、タニシは近隣の川辺で泥をついばんだ鳥が我が庭池でフンしちゃったんだ。
その中に未消化のままのミクロなタニシの幼虫(というのかな?)があったんだろう… と思う。
アメンボ〜もそうか?
そう思うと、この人造池(その昔に父がこれを作り、彼の没後にボクがサイズを半分に作り替えて今に至る)は単体で存在してるんではなく、風に運ばれ鳥に運ばれるなどして、外界とつながってるというコトになる。
ここに水がございます、とは広言していないのにカエルもやってきて、ゲコゲコ鳴く。
いったい、このカエル(複数)はどこからわいてきたんだ? と訝しみつつも、自然における連鎖、円環、循環、などなど… よく耳にする事柄が庭池にも起きていると感じると、なにやら嬉しい小さなどよめきをおぼえる。
純然たるナチュラリストじゃないし、カエルは苦手なボク… なのだけど、庭池と接することでなにやらかろうじて、我が輩も地球の生命体の一員でござい… とは口に出来るような気がする。
そういう見識でもって、では、どう人間は生きるべきなのか… というよ〜なコトは、ポンプをペコペコしてる時には考えない。
「よ〜し! 今日はこの40センチ四方のウンチを全部吸い出すゾ〜ン」
てな目的と達成への邁進に終始しちゃってるのだった。
つい目的をもってしまう、というのは人間の本能から出てくるものなのか、それとも別途なものなのか、そのあたり、
「あ〜たらは如何なもんでしょう?」
ペコペコにジャレてくる金魚どもに問うてみるも、応答なし。