MONO語り-01

ごく限られたスペースしか持ちあわせがナイに関わらずモノはどんどん増えるワケで、さりとて、何ぞを捨てるというわけにもいかない…。

最近、LPレコードをiTunesに送り込む作業を、1日1〜2枚のペースでやってるけども、これとて、ではLPはもう不要かといえば、そうでない。

もはやドーナツをターンテーブルにのっけることはないだろうけど、ジャケットはスキャンしてデータ化して、事足りるモノじゃない。

大きさ、質感、重み、紙の匂い、などなどなそれのみが発する"モノ"の滋味を別な媒体に置きかえられない。

なので結局、周辺に置かれることになる。


ここ数年で1番にたまったのはDVD。

ボクがTV受信機を持っていないのを知ってる福山の愛すべき友人が、月に1度、郵パックの大箱や中箱で、アレやコレ、米国製TVドラマを筆頭に"ボクが好みそうな映像"を録画して宅急便で送ってくれていて… これが、たまりにたまった。

観るべきは観ちゃいるが、半分以上は、未だプラスチックケースからただの1度も取り出したことがない。

そも… 本心じゃ興味のないものも含まれる。

しかし興味がないといっても、興味というのは何時に萌芽するか判ったもんじゃない。

この瞬間には不要でも、来年に「お、アレって確か…」と何ぞ起きるやもしれずだし、1度観たTVドラマも、見終えて捨てるという次第もない。

60年代のTVドラマ『逃亡者』を観るに、リチャード・キンブル先生は毎回別な職業に就いて逃走生活を送ってるわけだけども、たとえば雑貨屋で仕事の場合、自ずとその雑貨が棚の商品として並んでいて、そこに60年代の顕著な特徴を見ることが出来る。

田舎の小さな町のドラッグ・ストアの棚に、マーキュリー・ロケットの玩具が幾つも並んでいたりして、こういう光景がボクを射る。

さすがに全120話(40数枚)もあるから、未だ数本しか観てはいないけど、50年昔の米国の日常を、それが映画のセットであったとしても、1つの考証材料として"掲示"されているもんだから、捨てられない。

それゆえ、滞積する。

なんせDVDは同じフォーマットなんだから、どれがナニでどれがアレかも判らないようなアンバイになる。それに、もはや、置き場に苦労する状態だ。


というコトで、勇をふるって整理にのりだし、100均とかヤマダ電機なんぞで整理用DVDケースを買い込んで、移し替え作業を開始。

これが容易でない。

ドラマのみでなくドキュメンタリーものやらやらジャンルもまた多岐に渡るから、1枚1枚、分別しなきゃいけない。

そうして、12枚とか36枚とか96枚とか120枚とかの収納ケースに入れ直してく。


面倒…。

ま〜、でも、これでかなり片付く。

1枚ごとのプラスチックケースがなくなって、まとめて1つのケースに収めるんだからケースの肉厚×枚数分スッキリはするのだから、空間として1/3に凝縮出来るなと予想して、喜んだりもする。

分別してケースに入れ、ケースによっては新たなラベルを造って貼り込んだりすると、新規な風が吹くような裕福感も生まれる。

狭い空間しか所有していない悲哀をおぼえつつも、この少し片付いた富裕な情感は、なかなかイイ。


かのビル・ゲイツの自宅は、その敷地が、聞くところによれば、1辺12キロだそうだ。

12キロ×12キロくらい、だそうだ。
「えっ?」

というコトは、それは岡山市中心部がすっぽり入ってしまう空間なわけだ、よ…。
「ありゃま〜」

思えば、ジョージ・ルーカス宅もメチャに広かったね。

たしか門から自宅まで車で30分かかったハズ。
だから、その広大な敷地内でインディ・ジョーンズの野外ロケとかもやれちゃってるワケだ。(ショーン・コネリーと共演の『最後の聖戦』でのナチスとのバイクでの攻防戦などなど)。

ご両者ともに、だから、DVDの置き場に困ってケースの入れ替え作業なんちゅ〜チマチマした作業にとっかかる必要はゴザンセンわな。

そういう事にエネルギーを使う必要がナイわけだ。

羨ましいね。

貧して鈍することのない米国の土地の広大さを思い知らされる。大陸的な視座というのは、そういう環境からでしか産まれないんだろね。
例えば、見よこのオモチャの大きさ。

GIジョーをそのまま乗せられるマーキュリーカプセル。こんなサイズのおもちゃは島国では企画も通せない、ぜ。
羨ましいけど、しゃ〜ない。

このミクロな現実を決して卑小とは思わず、卑屈の情は払拭させて受け入れなきゃいかん。

セッセとケースからDVDを取り出し、やっと1mほどスペースが出来たと、ウサギじゃないよと視野広きな感触をもたなきゃいかん。

狭さの中に刷新有り、ビル・ゲイツはこの感触は味わえね〜だろうと喜んで… ビールで乾杯(自分に)くらいな勢いでなきゃイカン。



10年ほど前だったか、『「捨てる!」技術』という本がベストセラーになって、要はモノを捨てないことを美徳とした従来の価値観はマチガイで、モノはどんどん捨てろと進めた本なんだけど、これに立花隆が猛烈に反撥して、かなり激烈にこの本をたたいたコトがあったな。

それは実に正論で、「モノの量だけ潜在的可能性がある」と氏は前置きして、"人はその持っているモノとともに、そのモノに喚起されるカタチでポテンシャルな過去と未来を記憶と記録という形で同時にひきずっているのである。人間存在というのは、そのような時空と次元(リアルとポテンシャル)を越えた広がりとしてある。その意味で、そのようなモノもその人の1部なのだ"、と記されて今もって、これは不動なマトをえた正論とボクは思ってる。

だから今回、多数のDVDをケースからケースに入れ替える作業をやりつつ(今も進行形)、モノあっての自分というカタチを改めて感じる次第。

俯瞰でみれば、狭き室内にてモノを右から左へちょっと移動させた程度なことなんだけど、この移動時に、意外な発見もあって、それも面白い。

英国王のスピーチ』が3本もあった!

うち1本は、こりゃ某女から借りた… 彼女の私物じゃんか〜。

というような… 本来の"整理"の発揮だ。


というワケでまだ年末の大掃除にゃ早いけど、多少なりと身辺を整理(捨てるという意味でなく)してる今日この頃。

『精神医学と看護』という本だったか、精神疾患ある方にホウキを渡して掃除をさせると、脳が落ち着くという記述があったよう思うけど… 然り。

どう作用し、どう効果アリかは不明だけども、解放感と一緒に、事実ちょっと落ち着きも感じられて、それもイイ。

お風呂からあがって次第に身体が湿気から抜け出る時の、一新感のそよぎに似てる。