Say,"Kiss Me."

映画『ブレードランナー』の主人公デッカードの室内には大きな盆栽があって、それは凡庸なただの装飾ではなくって、画中にストレートに描かれているわけではないけれどもデッカードが1人グラスを傾けつつ、小さな剪定ばさみで葉をつついているはずの、すなわち、彼の孤独な生活を浮き上がらせる小道具として大事なものだった。
映画で使われたそれはかなりの大型で、枝ぶり良く葉ぶり良くの、キチリと手が入った、プロが作った高額なものであったろうと感じるし、事実、そうだったろう。



忘年会第2弾は、自転車つながりの連中とのパーティ。
今年は趣向を変え、盆栽を観賞するという粋(イキ)を含める。
谷本玉山氏の作品。
丹念な小宇宙は盆栽に造詣深くないボクにも、カッコ良いと思わせてくれる。
模型のように一夜で創れるものではない性質の、その時間の痕跡と、その痕跡を枝葉の中には見せまいとする作者のとのせめぎ合いが盆栽の醍醐味とすれば、これほどに面倒な"造作物"は他にない。
今の映画で常套のいわゆるコンピュータ・グラフィックスと構図が似てる。
如何に手をかけ如何に自然にみせるかという、いわば作者をとことん消去しなきゃ成立しない作品なのだ。
こたび、ボクらのパーティの背景として置かれた玉山氏の盆栽は、そんな次第をからめた上で、1つのキャラクターとして"ふるまって"くれたよう思う。
もちろんこのキャラクターは不動で、はしゃいだりしないけども、場に静観と重厚を加えてくれた。
素晴らしい!



そのスモール・ワールドを並べ、かつ男たちが料理を担当というホーム・パーティ。
普段はおバカで間抜けな発言を繰り返す連中がキッチンで真顔に、励む。

ブレードランナー』にもチラリとキッチンのシーンがあった。
レイチェルがはじめてデッカードのアパートに来たさい、デッカードはシンクにたまりにたまっている汚れた食器に、羞恥の色を滲ませ、洗い物をはじめる。
ハリソン・フォードは実にその色合いをうまく演技して、彼の数多の作品の中でも筆頭に置いていい名演とボクは思っているんだけど、こたびのホームパーティには、そんなシングル・シンクな男子の悲哀は、当然ない。



中央は玉山氏の出来の良い子息(いやホントに!)。
手際もよく続々と調理しては、片っぱしから女子に食べられていく。
… というのはいささかオーバーだけども、ともかく旨いもんだから皆な箸がよく動いた。よく呑んだ。
誰ぞが用意してくれた過去10年ほどのツーリング時の写真に、皆な、懐かしい、愛しい感慨をわかせ、もはや2度と共にペダルを廻せない人を思って涙ぐみそうになるのをグギュッとのんで、それでまた笑い、呑んで食べる。
お皿をカラッポにする。グラスを揺らす。



ブレードランナー』にそんなパーティ・シーンがあってデッカード刑事が笑ってたら、きっと興醒めだ。
でもまた一方で主人公はこんなパーティをきっと希求していたろうとは、思う。
それは彼がパティ・ルイスの酒場で見せた表情に出ているし、彼の部屋のピアノの上のおびただしい写真や小さなグッズに色濃く反映されていて、人恋しさの募りが実に痛ましい。
孤独の空虚を埋めるがための写真やグッズや楽譜たち。
そこで唐突に登場するユニコーンの疾走に人は眼を奪われ、それの意味する所を考え、あげくリドリー・スコット監督自身がその辺りの空気を読み取って、後年、「デッカードレプリカント説」に荷担していっそうに人を煙に巻く。
スコットはそもエンターティメントな人。
「あ〜そうですか」
と、こちらがそれに頷く必要はない。
人の孤独、人の餓(かつ)え… その鬱屈を耐えているデッカードには、痛ましさと共に共感すべくな哀しみ色があって、それが『ブレードランナー』に深い奥行きを加えてた。



 

デッカードはピアノを持っていても弾けはしない。
グラスを手に彼が単音を弾(はじ)いているシーンは、レイチェルがそのピアノでメロデイを奏で出すシーンとリンクする。
そこで彼の中の孤独が衝動としての欲望に転じ、レプリカントたるレイチェルに向かう。自身が引き起こしたその衝動の実態に、デッカードは次のステップとしての愛の萌芽を兆させる…。
人間じゃない、モノとして、動くフィギュアとしてレイチェルに迫り寄ったものの、その行為によって疼きの下方からフィギュアではないホンモノの他者、ホンモノの女の温みを見いだしてしまったデッカードの心の変容。
獣めいた情欲の後に愛を"学んでしまった"デッカードのその形に同情を禁じ得ないけども、映画『ブレードランナー』の要めとなるのは、その辺りなのだ。
あるいはこうも取れる。
ピアノを奏でたレイチェルはその場で髪をとき、デッカードを受け入れようともする。けどもいざ彼がその気になるや、彼女自身学習した覚えのない、いわば対処すべくを知らない少女の"感性"が一挙に頭角して、結局その場を逃げようとする。
そのフセンはきちりと描かれていて、例のフォークドカンプフ検査機だかでの質疑の中で、彼女の記憶の中にある幼児体験としての男性の前でハダカになることへの恐怖の情につながってもいて、あんがいと丹念にリドリー・スコット監督はその辺りの心理描写を紡いでる。
そして、逃げようとするそれをデッカードが阻止して強行な、あの、
Say,"Kiss me."
へとつながるラブシーンとなるのだけども、それはレイチェルの中の"人間"、"女"を、デッカードが学習させようとした、いささかにスパルタンで一方的な愛、人造人間じゃなくってただの人間になれとの父性的な匂いすらある愛だったのかもしれないし、デッカード自身、そうすることで自身の殻からの脱却を計ろうとした… とも考えられる。
そこに、"複雑な人間"としてのデッカード、あるいはレイチェルを監督は描こうとしたともいえる。

ともあれ、この映画の中の人間は誰もが孤立して独りぼっちだった。
折り紙を作る警官ガフもまた、そうだろう。最後のシーンの銀紙のユニコーンは彼もデッカードと同類同格の孤独者なれども、デッカードと同じくに、幻の一角獣がそなえ持つ浄化作用としての効能、すなわちここでは、"人とのつながりを求めてる"を吐露したものだと解してもいいし、いっそ、『ブレードランナー』の登場者はすべからず全員がレプリカントだったかも知れないとも思ってみるのもいいだろう。

パーティは何度やっても楽しいように、映画もまた、何度観たって楽しく想像をふくらませるコトが出来る"場"だ。



さてと宴も終盤、林檎のパイ。
これのみ女性の作。
「唯一、わたしが出来る料理」
と、作ってくれた女医ははにかむけど、とても美味しかった。
日常この手のものを口にしないから余計に、酸味と甘味とほのかなシナモン味と柔らかさにちょっと、うたれるような所があって嬉しさが加味された。

そしてこの夜の思わぬサップライズは… 大きな水煮缶を頂戴したこと。
その存在は知っていたけども自分用途の、すなわち真夜中だか朝方の1人っきりのフードには高すぎる、贅沢過ぎる缶ゆえに、買えないのだった。
が、それを貰ってしまったわけなのだから、さぁ、嬉しや困ったぞと。
七人の侍』の高名なセリフ風にいえば、
「この1缶… 無駄にはしませんぞ」
有り難く押し戴くというアンバイなのだった。