サンダーバード博 in 阪神

夏のお台場から今度は冬の大阪。
この27日より年明けの7日まで、大阪阪神百貨本店にて『サンダーバード博 in 阪神』の開催だ。
いささか期間が短いけれど、大阪での大規模なサンダーバード展覧会は、92年の梅田ロフトでの展示以来だから、お久しぶり。きっと、はじめて数々の模型を直に眼にする人も多いでしょうな。むろん、こたびの方がはるかに規模が大きい。
界隈にお住まいでお時間がある方は、どうぞ、お越しを。
詳細はこちらへ。
※ 元旦はお休みです。


サンダーバード』が放映された1966年の頃、ロケットでの人の飛行というのはマーキュリー計画からジェミニ計画へと以降した時期で、超大なサターンロケットはまだ開発途上で、当然に月は未踏の地だった。
サンダーバード』にはそんな時代の背景が色濃く浸透していて、なのでジェフ・トレーシーは"月に最初に出向いたアメリカ人"であり、その5人の息子は、スコット、ヴァージル、ジョン、ゴードン、アラン、いずれもマーキュリー計画のホンモノの飛行士の名があてられて、1つの連想形をなすというアンバイだった。

顧みるに、この時代… テレビの中で毎週、ロケットが、それも人が乗ったのが、打ち上がっていくのを見せてくれた極点が、この『サンダーバード』じゃなかったろうか。
当時の日本では、カラーテレビは100軒に3台あるかないかの普及率(0.3%)だった。
ボクも白黒で見た。


以前にも書いたけど、だから"色"は雑誌のカラーページで知った。
少年サンデーとか少年キングなどの巻頭特集だかで、はじめてサンダーバード2号の緑色をみて、リアルな、それでいて美しい、と思える色合いに、しばし、陶酔めくな境地に運ばれたもんだ。
リアルとは、新品ピカピカじゃない使い古された、あるいは使い慣らされた気配のこと。そこに眼をはった。
外装のパネルごとに絶妙に色が違うという表現に眼が点になる。くわえ、泥がはねた痕跡有り有りな部分表現の精緻にオドロキ桃の木参照サレタシであった。
汚れているのがカッコ良かった…。

なので、イマイのプラモデルのサンダーバード2号を買ったものの、その緑の成形色には、子供ながらズイブンと失望した。
緑色とて色々あるわけだ。ブリティッシュ・グリーンといったカラーがあるなんて知らない時代。
イマイのプラモデルを組み立て、眺め、遊んだものの、その緑にテカッたボディがテレビの中の緑とは違うという抜き差しならない距離の甚大さに、大いに悩んだもんだ。
汚れていなんだ…。
プラモデルなんだから塗ればイイじゃん、というワケにはいかない。
まだ、スプレー式な塗料なんて売ってない。
艶を落とすというワザも、汚し塗装というスベも、素材を含め、まだ日本には浸透していない。
ボディのグリーンを違うグリーンに置き換える方法も論も、小中学生にはなかった…。


はるか後年になって自分も模型の仕事をする中、そのイマイの勝沢会長と銀座だかでご一緒したコトがあるけれど、むろん、「ミドリ色が気にいらなかった」とはボクは云わない。そんな愚痴はもうはるか昔のこと。かのプラモデルでボクが得たものは多い。いっそ、感謝の念が濃い。
プラモデルの黄金時代の話を伺えたのがひたすらに幸いだった。


闊達な人柄とそれゆえに付随した豪語が、時にホラ吹き男爵のそれのようでもあり、当時、彼の側近だった部長だか秘書長だかが同席で心配げに耳をそばだてているのが、可笑しくもあった。
体格同様に、話がどんどん大きくなっていくワケゆえに。
「ブラジルでも放映がはじまってね、それで毎日、3000ヶを出荷だよ」
「ちゃいますチャイマス… 300ケです…」
てな感じで。
けどもその豪快さん豪語録に、かつての60年代、イマイのプラモデルが日本はおろか全世界に向けて、まさに飛ぶがごとくに売れていたことは充分に了解できて、その中心にハデなスタイルの勝沢さんがいたのだな〜と、妙に嬉しくもあった。
いわばこの人が、子供の中の『サンダーバード』の夢のカタチに方向性をあたえてくれたワケで、時にボクのアタマの中じゃ、ジェリー・アンダーソンとこの人の顔がモーフィングして一緒になる。直かにお会いしたのはその1日限りだけども、意外や… この方にボクは影響を受けている。オモチャを仕事にする醍醐味という辺りで濃厚に… というよりも平たくいえば、その精力的な活動エネルギーの発露に。あるいはいささか大袈裟におしゃべりするという辺りに。
やがてイマイは倒産してしまうのだけども、そんなことはどうでもいい。
1人の男として勝沢さんには大きな魅力があった、という次第を申しあげているわけだ。
この人がかつての昔にサンダーバードのプラモデル化を押し進めていなかったら、今、50年も経って、こうして、"サンダーバード博"なんてイベントは成立しえなかったろう… 思う。
いわば彼は、サンダーバードという畑の緑の多樹に水を与え続けた"育ての親"であったと、思ってる。