地動説のアユモドキ 〜善の演者〜

常々にボクは形式的なアレコレを嫌うタチで、わけても儀式的色彩が濃いことに拒絶な反応を起こしやすくって… そういう次第あってたぶんこうして自営業をやって、多く人と交わらないカタチの中に住まっているんだと自分を解釈しているのだけども、それが随分に、時に、非礼なことに連なるようでもある。
およそ9時間ほど前に書かれた友人のブログの、御母堂のかつての写真を見た瞬間に、その非礼のさいたるを無自覚にやってしまった自分に気づいてしまう。


たまたまに電話すると、「実はお通夜なのだ」と受話器の向こうの声があり、それで、かなり動揺したのは事実だけども、そのあと、自分は何をしていたろうか、とふりかえる。


電報をうつなり葬儀に顔を出すなり… ダンコ出来たはずなのに何もしなかったのは上記のごときタチゆえにとも思うけど、も少し考えてみれば、ボクの見解は地動説でしかなくって、現実の地球は太陽を周回し、太陽はまた別な大系の中で軌道を進んでいるという天動説としてのものの見方じゃないわけだ。
友人と書きつつ、その友の最大につらい時にそばに居てあげていない… これは友人失格以外のなにもんでもなかろう。
いや、もちろん、肉親でもないし変な関係でもないんだから、ボクがそばに居てあげる… というのはまったく…
実におこがましい。
居てもこれっぽっちの役にも立たないけれど… せめて、何か、何かを、出来たはずなのに何もしなかったことを、ボクは悔やんでいるんだ。
あまりに心が冷えちゃいないか…。


ブログに載る御母堂の写真は綺麗だ。
我が友の心の中にある母の姿はそこにあるのだと悟って、うたれた。
しばし、黙して眺めた…。
「いいね」というボタンが不快でたまらなかった。


たまさか我が母を自宅介護というカタチとなって数週間め。
数時間おきのトイレへの促しと同行に、早や、面倒をおぼえている自分もいて、だから、我が母のその老いたる姿に苦々しい感触すら持っている自分の中の冷暗を… それはそれなりに感じてはいたけれど、友のブログにある通り、人のカタチは今この瞬間にだけあるワケもない。
友のマザ〜同様、こちら我がマザ〜とて、美しい時はあった… はず。
そこも忘れてた。
いっそ、電話しなかったら、な〜にも知らないままに後日に、
「ありゃま〜、そうだったのかぁ」
ということになっていたろうに、知っているのに何もしなかったんだから、弁解しようもない。
そも、弁解もイイワケもあくまで地動説的見方なんだから、いっそタチが悪い。
そう思うとひどく鬱屈する。


友の御母堂がICUに運ばれた頃はボクは津山方面でもって、同行者に男女の違いを語り、呵々大笑していた。そして、彼女が去年夏に書いた寓話的な男女相違を物語る掌編『善の演者』についての評をしゃべってた。
もちろん、それはそんなもんだろう。ある人が笑っている同時刻にある人は泣く…。
問題は、そのことを知った後に自身がどうしたかだ。


岡山にはアユモドキという魚がいる。
水面から見ると表面の模様も似、サッと動き、いっけんアユに見える… ということでその名がついたという説もあるが、実体はドジョウだ。
その説にあてはめると、ボクはそのモドキ… に類する、表層を装うだけの者のようだ。ここには紹介できないけど、先の『善の演者』の題材がごとく…。
いやいや… 上記は、アユモドキに失礼というもんだ。勝手にそんな名をあたえられて迷惑千万のはず。
自身の母を医療者たる自身でみとった友の苦悩と苦痛… その深淵に言葉がない。
数日前の津山洋学資料館でもって日本の医療の"ことはじめ"を見聞したばかりゆえ、余計、強く感じてしまった。
すまない。ただただすまない。
善を演じふるうことも出来ない多層の悲しみに萎れている。