狭い家の鴨と蛇

今年はじめての芝居。
角ひろみ作品。演出に泊篤志(とまりあつし)。
今回は本番をふくめ、ちょっとだけの仕事モードでもあったので、本番前日のゲネも観た。
(ゲネというのは、本番とまったく同じ進行で全てを進める最終の予行演習で、本番以上に役者さんを含めスタッフ全員が非常にピリピリした空気に包まれる… んだよ)


ロビー一面に汚く積み上げられ転げていたりの夥しいダンボール箱
舞台空間もしかり。
いわば、それは水害の後… という情景だ。

3.11の大災害以来、そこをテーマとした何本かを去年も観たけど、こたびもやはり。
『狭い家の鴨と蛇』。
鴨長明の「方丈記」を1本の縦糸とし、横糸として、この"災害少なき岡山"での予期しなかった水害という架空の事態でもっての人の情動が編み込まれる。
重いテーマ。
が、意外や笑えるシーンが多々あって、それは客のいないゲネでもそうだったし、ましてや本公演の満席状態でもそうだった。
感想としてもう少し短くなれば… とも思うのは、終盤での鴨長明自身のことと、水害にあって妻を失っている男の、悲痛を通り越した時点でのおかしみと凝縮されてもはや鉱物化してしまった苦痛が醸すカタチとが、似通う波長で組み重なって、鴨長明が住まった4畳ほどの部屋と男の部屋とが、そこを演劇的に、実に演劇的にうまくオーバーラップさせて、紙製の小船が1つ、ユラユラユラという所にクライマックスがあるべきを、その後もまだ10分近く芝居が続いたので、ちょっとガッカリしたのだった。
そこのシーンが非常に良かったゆえ、その後はもう余計に思えてしかたなかった。
およそ800年前の平安期、鴨長明が当時の幾つもの天災に見舞われた果てに、50を過ぎて記した「方丈記」に着目した角ひとみの眼の鋭さというか、アンテナの広さに驚かされたし、"方丈"、すなわち、概ねで4畳ばかりの狭い空間に物語りを凝縮させていく手腕にもまた、大きな才能を感じて感服するんだけども、多少、その狭きな4畳にアレコレを入れすぎ… と感じてしまった。

が。
以上はどうでもよいことなのだ。
部分の良さやら悪さやら時間の長短やら、どうでもよいことなのだ。
要はこの芝居でもって、"災害に遭遇した人"にどう寄り添えられるか、あらためて感じて考えるコトが出来ればいいのだ。
演劇というカタチを通して、そこをどう自分で見詰められるかというトコロがきっと要めなのだ。
その意味で演劇や音楽を創作している人は、たぶん、3.11から逃げられない。
3.11は今もって現在進行形なのだし…。
なので創作者たる彼あるいは彼女は、まことしやかに善を語るもいいし、祈りでもよし… なのだけども、表現すればするほどに、何事か大事なことが手からこぼれ落ちていくのではないか?
角ひろみは、800年前「方丈記」を書きつつ鴨長明がそのこぼれていくのを実は感じ取っていたのではないか? と疑問を呈しているよう思えるし、それは彼女自身が、この作品を書きつつ感じてしまった"こぼれ"なのかもしれない。
彼女は自身の中に鴨長明の苦悶と決意と逃避… などなどを共鳴させたであろうとも思える。
「ゆく河の流れは絶えずしても、しかも、元の水にあらず」
ではじまる「方丈記」の、この一文にすでに長明の諦観と未練と口惜しさがあるよう、思う。
何事かがこぼれるもんだから… それでよりいっそうに"表現"に向かわざるを得ないという奇妙な循環。
光明を求めて掘れば掘るほどに… おぼろに明かりが見えるようでいて、明かりはいつまでも距離ある向こうにあるといったもどかしさ。
"表現者"の苦痛や苦闘やらを垣間見たような気もする。鴨長明は無論のこと、角ひろみもまた、絶対に格闘したはずなのだ、自身と。
"観客"として眺めているだけのボクは、とても楽な所にいる…。


本公演終了時、思いがけない人に出会って… 嬉しかった。前日に岡山入りしていたらしく、ボクがこの芝居の場にいることを某MAMAから聴いてもいたらしい。
彼は岡山市民会館を今後どうするかの運営実行委員の1人で、前日に会議があったらしいのだけど、そこの経緯はともあれ、予期もしていなかったので、とても嬉しかった、な。