アフタートーク・続き

昨夕に、このブログにシティミュージアムのことを記した後、OH氏のブログを開いてみると、あれま〜、同じような記述、すなわち、"晴れ男"についての言及があったんで、少しばかりクスクス笑って、ついで、彼の方がおよそ早くに更新をしているようであるから、マネたと… 思われても何だし… でも、面白いよね、こういうのを"文化の同時性"と云うのだね。
どこが文化やらよく判らんし、そんなたいそうなもんじゃないけど、とにかく、"同時に類似"な記述があるというトコロが面白い。

スクリーンを見つつの演奏ゆえ首が痛くなってる、と書かれてるんで、手元に今朝方届いた写真を見てみると、
「なるほどッ、ホンマに…」
概ね90度くらいは首を曲げての演奏だったのだニャ、と感心した。2時間ぶっ通しで弾いていただいたワケじゃないけど、始終、背後のスクリーンに眼を向けていたのだから、首の筋に負荷かけ続けの2時間だった次第。

至極あたりまえながら、鍵盤を見遣って懸命に弾くといったレベルな人ではないから、眼で鍵盤と指を追う必要はまったくないんだろうけど、即興交じりでのこの90度くらいな首曲げ演奏は、後に尾をひくシンドサがあったんでござろう。
こっちは… ただしゃべるだけゆえ楽勝で首は痛くも痒くもない。
いやはや、ありがたい。ご苦労さんでした。

昨日のブログには書かなかったけど、実はボクは音楽がわかっていない。
種々の音色に何故にボクの身体は反応し、気づくと足を揺すってたり首をユラユラさせているのかの、その原理というか科学がよくわかっていない。
今回のプロローグ部で拍子木の音が五線譜に記入出来る"記号"たる音であるということを紹介したつもりじゃあるけれど、かなり… 個人的にはモノ足りていないんだ。
うまく、その波長がもたらしているところの"科学"を説明出来ていないんだ…。
よって、モノ足りないわけだ。


ついで… 明治になって、西洋音階たる五線譜というものが"輸入"され、それまでの、歌詞に附箋として"アガル"だの"ややサゲ"だのと書かれてるだけの"楽譜"、口伝でしか伝わらない音階音調であった日本の音、すなわち邦楽が、五線譜の導入でもって初めて、一律均衡のサウンド表現が可能になった… というトコロの感触をば、ボクは今1度、身体の感覚として捉え直したいな〜と思ったりしてる。
これはOH氏も洩らしていたけど、五線譜にもまた限界がある。
ピアノにも限度がある。
ドとレの間には、実は無限めく音の幅が存在するのであって、黒い鍵盤1つでシャープだのフラットの中間音をただ1つにしているのは、いわば四捨五入というか… 音がハショラレているワケで… 例えていえば、矢野顕子さんのライブでの歌声は全部を譜には出来ないのだ…。
そこが面白い。
面白いし、そこをもっと知りたいな〜と思う。

知りたいといえば、ボクは明治時代のこの岡山にあった亜公園という大きな娯楽施設に興味を濃く持っているんだけども、その庭先をそぞろ歩く自分を空想したりもする。
そこで耳にする、自然音じゃない、人工の音色がどんなものであったかを思うと、ちょっとワクワクしたりもするんだな。
いささか爺いっぽいけどね。ノスタル爺というニュアンスじゃなくって、明治の音を体感したいんだ。


うまい具合にいい写真がある。
フキダシをつけると…、
Y:「さ〜、しゃ〜ね〜な〜、しゅこ〜しばかし、しゅしゅめて話せばぁ〜」
M:「んも〜、サ行五段活用使えてないじゃん、だいたいその右手、オバケ爺ィじゃあるまいし、ブツクサブツクサ…」
てなアンバイ。
言葉で何ぞを表現する。音楽で何ぞを表現する。
なんだか… 面白い。実に日常的なことなんだけど、それを鏡に映すみたいに眺めようとすると、また違った感じなものが見えそうな気がする。

写真提供のKobaraさん、ありがとう。
さて明日はエイプリル・フール。税が上がるというのは嘘に違いない。