聊斎志異

本来は劇的な程に面白い筈の科学探究の世界が、高らかに昇るでなく、地を這いずってグッチャラケでもって双方が争い出してるのをみると、黒澤の『羅生門』や瞿祐の『剪燈新話』の「牡丹灯籠」(←園朝のじゃないよ)の怪異な話なんぞに似通ってきて、どこか魑魅魍魎の跋扈が想起される。
いや、もちろんこの場合、双方、跋扈する気持ちはなかった筈だけども、1個人対組織という図式の渦中において学研の高尚は削がれ、地位に名誉に誇りに意地に女に男にと世俗な色にいっさいが混ざり合って、まこと… うざったい。
1頭の幼いが我の強き狐に大勢の賢者が振り廻されたのか、あるいは逆に、1頭を大勢で屠ろうとしているのか… さらにそれを報道がかき廻して火の手を大きくしているのか、傍観のこちらまでが地底の蠢きに巻き込まれそうで… 不機嫌になる。


6〜7年前だか、大活字版と銘打って、柴田天馬翻訳による『聊斎志異』が出たので、ボクは角川文庫の小さい活字に難儀するよりもと… 本を乗り換えた。
柴田翻訳は中国漢文の滋味を日本語に活写すべく、漢字とルビの使いが圧倒的に独自でしかもそれがカッコよく、いまちょっとページを開いて適当に行を引き写しても、
「程朗がもしも貴い官になったら、あたし眸子を抉去くわ!」
と記して、
(ていさんがもしもえらいやくにんになったら、あたしメダマをくりぬくわ!)
とか、
「汝家の祝儀はなあに?」
と記して、
(あんたとこのオイワイはなあに?)
とか、
「其命也夫其命也夫」
に、
(これがうんめいなのか)
とあてたり、
「窮奢欲供奉せる」
に、
(ぜいたくをつくさせる)
などなど口語体なルビをうって漢文と日本語を巧妙に架け橋してくれていて、『聊斎志異』は多々に翻訳本はあるけど、その頂点に柴田版はあるとボクはこっそり思ってる。物語の醍醐味に加えて文字読みの面白みがあってすこぶる気持ちがよい。

云うまでもなくボクは… 杉浦茂のマンガ版も大好きじゃあるし、蒲松齢(ほしょうれい)作品をはじめに中国の幻想譚を実によく読み込んでる諸星大二郎のマンガ、わけても『諸怪志異』をこよなく愛してもいるけど、この数日、池上医院で処方してもらった風邪薬をのんでお布団に潜り込み、久方ぶりに柴田版のでっかい本『聊斎志異』のページをめくって、怪異奇ッ怪な妖怪譚掌編を拾い読むにつれ… これはおよそ400年前の作ながら、こたびの万能細胞騒動に似通う色と匂いを感じてしまうのだった。
500篇に近いこの掌編の束では、事の運ばれよう、流れようが、如何にも騒々しく突飛がゆえに物語として大変に面白いのだけど、常に核となるのは個々人の資質や振る舞いからくるヤッカイだから、そこがおかしい。また哀しい。
想念が執念になって怨念になっていく過程の常軌の逸っしかた、いわば科学の剥げ方に、類性をおぼえる。
知ることが増すたびに自分で諸々判断しなきゃいけない、そこの面倒さもおぼえつつ、ボクが今回感じるのは… 要は、銃声ならぬ獣性が咆哮して、妖衣をまとって跋扈舞々…、400年前と変わらない人間の姿カタチの中の、おかしみがからんだ恥ずかしさだ。
国技館の土俵にいるべきが、そこいらの保育園の砂場で幼き者を囲んで真剣になってるような… その軋轢の過程において万能細胞ならぬ妖異な暗黒を生成しているような、なんともはやな、きまり悪さをおぼえるんだ。
未熟を核に物語が渦をまきだして翻弄される… 『聊斎志異』をライブで読まされてるような感じにつながって、実に気恥ずかしい。

ボクはキューブリックの『博士の異常な愛情』を想い出す。物語ではなくタイトルの、
"Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb"、
"博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか"の、この長いタイトルを想い出す。
連動して、「百鬼夜行」を想い出す。
室町時代の『百鬼夜行絵巻』画中の、鍋やらヤカンやら鏡やら太鼓やらのオバケが、"付喪神記(つくもがみき)"の絵解きであると喝破し、けれどその化け物どもは夜明け前に出現するがゆえに日の出が間近く、跳梁跋扈の時間は僅かだった事に注視して、平安の昔には心底激烈に怖れられた妖怪に属した諸々が室町期にあっては、畏怖や脅威が薄れ、よってホントは怖い筈な化け物どもが奇妙に戯画的な絵となったのではと推察したのは明治生まれの花田清輝だったけど、その花田の眼には、こたびの騒動は… どう映るだろうか。妖異として映えないか。それとも、
「そんなことはどうでもいいのだ」
と、きつく叱咤されるだけだろうか。