チューリップ・バブル

巷のあちこちでこのシーズンに見られるチューリップ。
花をゆったり愛でるほどにボクはお心にゆとりがないけども… それでも色彩には眼がとまる。
レースみたいなフチ飾りのチューリップ。
一瞬、虫に喰われたのか… と思ってしまったがそうじゃない。
いわゆる品種改良の"成果"なんだろうね、このフリルは。

それで昔の騒動を思い出す。
人類史初の経済事件として高名なチューリップ・バブル
時期同じくして、某との電話のさなか、かつての亜公園(明治期の岡山にあった大型娯楽施設)にそのチューリップはあったろうか… というような話になる。
それでチョット調べる気になった。

 …… 以下は概ね誰もが知る事の顛末ながら自分用の備忘録として。

オランダにチューリップの原種が入ったのは1593年だったらしい。
日本はそのとき寛永14年。
といってもスグにピンとこないのが元号だから、徳川家光が3代目の将軍になった頃と書いとこう。
伊達政宗がその前年に亡くなって、いわゆる戦国時代の方々から新たな世代にと国内のリーダーが交代してる時期。
群雄割拠の時代じゃなくって、徳川の血筋がまずは絶対というのが定着した頃。
この年、ドイツの植物学者カルロス・クルシウスがオランダ・ライデン大学の教職者となる。
オランダは当時、貿易で栄える大国。このクルシウスがトルコ界隈より持ち込んだ種子の、栽培研究がオランダのチューリップ文化の原点になる。

オランダにそんな花はなかったのだし、咲けば美しい。
それゆえ20年後の1610年代には富裕階級で植物愛好趣味を持つ人達に珍重され、庭にチューリップを植えるのが流行り出す。生育に時間がかかるけども品種改良の醍醐味もあるもんだから、愛好家達のサロンで球根が高値でやりとりされるようになる。

そこに眼をつけたのが、いわゆる投機家だ。
花なんかにゃまるで興味ないけど、その球根がお金になると見抜いた人達。
チューリップはジャカジャカ増やせない。あくまでも球根が要め。種から球根に育つには5〜7年かかる。
良さげな球根が買い漁られる。
血統書みたいなのを添付して値段をあげる。
売る。
それを買った人が次の人へ転売する。
そうやって球根はどんどん値上がってく。
品種改良によって縦状に2色に色づく花が咲く球根などは、宝石をあしらった豪奢絢爛な木箱におさめられ、大事に金庫にしまわれる。
それを強烈に欲しがる人が出る。
巷じゃ日々刻々、一攫千金で大儲けした人の、いわばサクセス・ストーリーが話題になる。
球根1つが大邸宅と交換されるという驚くべき事も起きる。
(この場合、全財産と球根1つを交換というワケじゃない。複数の邸宅を所有する程のお金持ちが、というセレブなレベルの話)

その様子を眺め、さほどお金がない層も、チューリップに目覚めちゃう。
すぐご近所で儲かった人が出る。邸宅1つという事じゃないけど10円(フロリン)が1000円に換わるのをマノアタリにする。
そうなるとシンボ〜たまらず、ボクちゃんも球根で… というアンバイ。
でもお金はもってない。
そこで登場するのが”先物取引”という新規な売買手段。
"いずれ球根は引き渡される"を前提にした、現物なし実体なしの新取引き。現物は存在せずともお金だけが勝手に流れ出す。
そこいらの居酒屋が副業としてこの取引仲介所を開始して、手形1枚で、「来年春にお支払いします」だの「その決済時に球根をお渡しします」という契約が次々に結ばれる。
契約のための内金というか保証金すら持ってない層の人達は、内金代わりにヤギやブタの家畜やら家具やら何でもを突っ込んだ…。
こうしてオランダ中がチューリップ球根で狂騒曲を奏で出した。人類史初のバブル経済が音をたてて膨れる。皆なが皆な、踊り出す。
鉢泥棒が横行し、大地主の畑に警官が配備されもする。
原産国のトルコからは船いっぱいテンコ盛りで球根がドンドン運び入れられる。

けどもわずか数年後、1637年の2月3日に異変が起きる。
アムステルダム生花市場で球根の買い手がゼロという事態が起きる。
本来ごく1部の富裕な愛好家が買って、育て愛でていたに過ぎないチューリップなのだ。
そこへドドッと幾らお金がつぎ込まれようが、大量の球根が入ろうが、実は本当に売買される球根は数少ないし、そも稀少品種にこそ値打ちがある。
それが、バブルとなって浮かれ出すや、当初の内は花を知らない人でも球根数個で元手の10倍100倍のお金を手に入れられるし… 家財道具を売っ払ってでも球根を手にしようと躍起になるけど、安物の球根までが信じがたい値になっているから… 本来の愛好家たちは呆れかえる。
新品種といわれたものがタマネギだったというような笑えない事例も生じる。
あまりの狂騒に愛想を尽かし、とうとう愛好家たちがソッポをむいた。
「球根買うヒト誰もおらんだ〜」
というワケ。
たちまちオランダ中の生花市場で取引が停まる。
チューリップはまったく売れなくなった。すなわち無価値なものに堕ちた。

途端に、破綻。
約束手形は不渡り。(上写真:ある品種の価格推移を物語る当時のチラシ)
皆なその架空の取引に糧を見いだしていたから、さ〜大変。内金は戻らないし来春には何100万も支払う事になっていたりするから、
「払えよ、払えね〜よ」の応酬になる。
あちこちの居酒屋で大騒ぎ。
夜逃げに破産に一家離散の大悲劇。
後、現在も、オランダではチューリップ球根は食用に使われ(主に製菓材料)ているけども、これは糖度が高いからというよりも、このバブル崩壊時に大量に残った球根をやむなく食べた… というコトがはじめとの説もある。

というような大昔の顛末を、ご近所のお庭を見つつ、勝手に写真に撮りつつ、可笑しみと共に思い出す今日この頃なのだった。
事件後数10年はオランダではチューリップは嫌われたらしい。そりゃそうだろう…。
それでも昔これで儲けた人にとっては、夢よもう1度と… いうワケゆえチューリップを造り続け、品種の改良を継続していたようだ。
それが今のオランダのチューリップ輸出大国につながるワケで… ボクが写真に撮ったフリルなのも、その流れのうちの1種なんだろう。


ちなみに、チューリップ・バブルの頃、レンブラントは32〜33歳。裕福な画商家の娘サスキア嬢と結婚して市民権を得て彼女の財産を大いに浪費している盛り。ひょっとして彼も球根を買ったかもしれない…。
かのフェルメールは5歳か6歳の幼児だから、球根買ってないね。
下の写真:レンブラントの『フローラに扮したサスキア』。
頭部の右側で垂れてるのがチューリップ。後にこの絵からレンブランディト(レンブランド系種)と称される。この絵の当時はチューリップを頭に飾ってたのね… 花弁が重いから垂れてるワケだけど。
花の精霊がモチーフだから頭いっぱいに花飾りなんだろうけど、チューリップをこのように使うんだなぁ…。
この絵が描かれたのは、最初に書いたけど日本じゃ3代目の将軍様になった頃だよ。なんかはるか後年の花魁をボクは思い浮かべるね。

思いかえすに日本も江戸時代に… 金魚の飼育で似たような騒動があったな。
元禄6年(1693)というからチューリップ・バブルの100年後だ。
西鶴置土産』には、ワキン1匹が昨日5両今日7両と異様な値上がりがあった事が記されて、その購買層たる富裕な商家をからかってる。
お米1石(1人の人間がほぼ1年で消費する量)が1両弱の時代ゆえ、たしかに異様な値段。
よって翌年に江戸で禁令が出て、市中の金魚が全部没収されたというコトだけど…  アンガイと小さな事までチョッカイ出してたんだね幕府というのは。
ま〜、これを小さい事ととるか大きな事ととるかは… ご意見あるべきな所じゃあるし、社会構造ゆえの富の不均衡がもたらしたごく1部でのバブリ〜な出来事だけど、それを契機に日本から金魚が消えたかといえば、そうじゃない。
「はいはい、ほいじゃ安けりゃイイんでしょ」
てなアンバイで流通し続けて、
「びいどろに金魚の鼻のいきつまり」
だの、
「裏家住みつき出し窓に金魚鉢」
と、しっかり庶民的に"繁殖"しちゃってるんだから、したたかだね〜金魚は、いや、日本人は。

で。
はじめに書いたクエスチョンの解答。
オランダとのみ交易していたお江戸の幕府ゆえ、チューリップも早くから国内に入って来たろうと思ったら、どうもそうじゃない。
オランダ側にこの原因はあるんだろうね… バブル後遺症的な。
日本に運ばれてきたのは江戸時代の末になってで、それもスグに普及しなかった。新潟方面でどうにか球根栽培がはじまって、全国に名が知られるようになるのは明治が終わり、大正時代になってからだそうだから、こりゃ意外。
ずいぶんと… 遅咲きじゃん。


従って、かの亜公園にはチューリップは植わってなかったと、ほぼ、そう結論できる。
1つを立証するには、5つも6つも学ばなきゃいけない。


※ 下写真:亜公園全域模型のうち庭園部分