ユスラウメ3Kg

さてと、いきなり宣伝。
『おかやまリビング新聞』の別刷『IMPRESSION_SENIOR CLUB_』6月号に、ちょっくら、岡山市内上之町の明治の頃を紹介させてもらってるんで… ご笑覧を。
「岡山今昔再発見 街ぶら散歩」という1ページ記事だよ。
フリーペーパーなのでト〜ゼン無料で読めます。

で、ハナシはコロリ変わるけど… 近頃、「里山資本主義」なる本を買って読んでみるに、さほど目新しい事は書かれていなかった。
アレコレの事例としての紹介はお初で新鮮ながら、自然と共に活きるという部分において、基本として…、
「あれ? あたりまえのコトじゃんか」
という感想がわくきりなのだった。
だから本文中たびたび出てくる"眼からウロコ"という感じを植えてもらえなかった。

すでに60年代末から70年代の頃の米国発として「ホール・アース・カタログ」や「地球の上に生きる」といった本が出て、わけてもアリシア・ベイ=ローレルの「地球の…」はその全ページ手描きの"手作業な感覚"が、人と自然の共生を柱とした"活き方案内"の具体例でもあったから、やや今更にという感触が拭えない。
こたびの「里山資本主義」から、21世紀的NOWな発信として日本の風土に見合うアレコレの根やら芽がいっそう生えてくればとも思うけど、本というカタチとしてこの「里山資本主義」はデザインも装幀もいっこうにオモシロクない。
タイトルにはボクら人間が避けちゃ通れない処での意味合いもあって良くも悪くもストレートな表現としてこれは認められるし、1つの経済白書と思えば、丸く収まる感もあるけれど、ビジネス・ハウツーな趣き大な装幀や構成は残念に思う。
"マネーに依存しない"というトコロは大いに共感するけれど、要は日差しの下で草を刈っているさいの気分のトコロが今1つリアルに響かないんだ。

つい先日、雨が降り出す前にと… 2時間ばかりかけて、ユスラウメを一気に収穫した。
春先にフクロミ病というヤッカイな病いにかかったものの、病んだ部分を剪定したり葉をむしったりを繰り返してる内、実がふくらみ、紅くなった。
今年はダメかもと諦め半分、いや実際は完全に切り倒さなきゃいけないかもと… そんな暗澹も拡がっていたゆえ、実りはいささか嬉しい誤算。
気分はコロリと変わる。

病んだ枝をずいぶんと伐採し続けたから、去年の半分くらいの収穫かしらと思ったけど、意外やほぼ昨年並み。
多少減ったけど、およそ3キロ、採れた。

樹木は… 強いね。
そう実感させられると同時に、こまめな剪定が役だったのかもと密かに思ったりもする。
またぞろジャムにする以外に活用法を知らないけど、例えば、果実酒はさておき、干し葡萄みたいな乾燥系なモノが出来ないかしら? と、想像だけはする。
想像というのはメチャでハチャな方が面白いから、御飯に混ぜたらどんなでしょ? とか、お醤油で煮込めばどないでしょ? とか、湯船に山と浮かせてサクラウメ風呂はどうすか〜? とかとか、ちぎっては投げ、投げてはちぎるみたいな空想を羽ばたかせちゃ… 失速するのをオモシロがる。

ボクは縄文時代に、なんだか憧れみたいな気分をおぼえて久しい。
縄文時代というのはザックリした括りでいえば1万年も続くのだけど、その中でも1千年続いた"文化"もあったという所に痺れる。
電気もなにもありゃしないけど、自宅周辺に栗の林をこさえてこれを主食に喰うに困らず、山菜採れ放題、川にいけばお魚獲れ放題… これを1千年を超える長きに渡って持続させていたという事実が、うらやましい。
1千年ですぞ!
青森の三内丸山遺跡が物語るのが、それだわさ。
携帯電話の電磁波も原子力の悪しき放射に怯えることもなく、空気はうまいや、ヤッホ〜♪ なのだから医者がいなくって寿命が短いなんて〜のは、どうでもいいことだ。
長生きが目的じゃなくって、毎日の充実がポイントだ。

縄文の時代にユスラウメがあったかどうかは知らないけれど、ひょっとして、その時代にこれがあったら、方々はけっこう、創意工夫して、いっそうに美味しく食べる方法を見いだしてたかもしれない。
あいにく、それは今に伝わってないけど、当時の、栗の木の表皮だかで編み上げたポシェットといったオシャレ小物を持ってたり使ったりの人達に、
「自然とどうお付き合いを?」
などと問えば、きっと…、
「アホなこと聞くなよ」
哄笑されそうだ。
里山? なにが主義だよ、ハッハッハ」
大いに笑われそうな予感がする。

で……、一昨年、去年と、まったく同じ時期、同じ方法、同じお鍋で、またぞろジャムを創りはじめている。
この1年に1度きりの同じ事の繰り返しがたぶん、大事なところなんだろう。
「悠々と急げ」
は、かの開高健の名句じゃあるけれど、ここは、
「悠々煮つつアクをとれ」
と、いう次第なのだ。
写真は煮立て前のシュガーとのコンニチワ〜の図。たかが知れた家庭菜園の実りじゃあるけれど、"主義"以前の物作りな作業を歓びたい。