かつてみた怖い映画たち 〜ポルターガイスト/エイリアン〜

いまさらな感なきにしにあらずながら、70〜80年代の、当時誰もが観てコレは傑作と頷いた映画を、続けて観た。
翻ってみるに、それらに接してからボクはもう30年くらい、チャンと再見していないのだった。
タイトルを口にするのもアホらしいくらいに今や名作の殿堂に鎮座しちゃってるんで、そんなんだから余計、再見の機会を失っていた映画たち…。
ジョーズ
ポルターガイスト
『エイリアン』
『エイリアン2』
と、誰でも知ってんじゃんな作品たち。
ボクはどうも多くの人が圧倒的多数で支持しちゃうと、フ〜〜ン、途端に興味を示せなくなってしまう悪癖があって…、だからサッカーにもプロ野球にもまるで興味がもてないワケじゃあるけど、時流はさておき… あらためて、上記を観てみるに、記憶違いをしている所が何カ所もあって、まず、それに面食らった。
30年ほどのうちに思い込みが刻み込まれてしまっていたというか、シーンが頭の中で組み替えられてるんで、
「おんや〜?」
なのだった。


例えば『ポルターガイスト』の中で、ステーキ肉が鉄板の中でオバケになっちゃうと… ボクの頭の中ではあんがい克明に刻んでいたシーンが、実際はちゃうチャウ。
ステーキ肉はキッチンのタイルの上を張って、そこで気色の悪い変化(へんげ)を起こすのだった。
今はない岡山グランド劇場で観、ついでレーザーディスクを買って観… 以後接したことのなかったこの映画。『スターウォーズ』のちょいと後に封切られたよう、これまた勝手に記憶が時系列を構築していたようで、そうじゃなくって続編たる『スターウォーズ・帝國の逆襲』の後、1982年作品なのだった。
これは頭の中を再整理しておかなきゃいけない。

新たな発見もある。
ほぼ30年ぶりに観てみると、『ポルターガイスト』は4人の女性キャラクターで全体の骨組が作られていたと、気づかされる。
例の金髪の幼女はその内の1人じゃあるけれど、我が記憶の中ではこの子供を異界に奪われた母親役のジョベス・ウイリアムと背丈が小さくて太ってる霊媒師の、この女性2名が柱だと思っていたけど、再見するに、その霊媒師を招いた女性心理科学者が実はすこぶるよい、大きな柱となるキャラクターというのを発見して、
「ま〜」
と、またちょっと感嘆した。
高慢に見えた彼女が彼女の知見をはるかに上廻る怪異に接してからの、素直な心情の吐露と仕草がこの映画の奥行きをググッと深めているのに気づかされた。
怪異を実体験後に手がブルブル慄えている描写。その後にウイスキーの小瓶を取り出したさいの羞恥の表情。そして娘を奪われかけている若いジョベス・ウイリアムの辛さにピッタリと寄り添おうとする、いわば、ジョベスのマザーという心的役割での演技と演出を、これはいまさら誉めたってしゃ〜ないけども、再見するに価いしたキャラクターということになるんじゃなかろうか。自身の中の恐怖を懸命に押さえ、より深刻な立場にいるジョベスに寄り添おうとする勇気の所がすこぶるな見せ場なのだ。
そして例の霊媒師にバトンが渡される。
血縁とかじゃないけども、図式ばっていえば、娘、その母、さらにその母(学者)、そして曾祖母(霊媒師)と… この世代のまったく違う4女が建物としての頑丈な柱になっていて、よく観りゃ何だか男達は頼りない壁と屋根でしかなくって、これは女を描いた映画といって、いいのだった。


男がいささか頼りないという点で『エイリアン』と『エイリアン2』も同様で、これに関しちゃ今更いうべきことは多くない。
70年代の終わりから80年代にかけて、男女の描き方に変化があったというか、転換期の時代であったというか… それも今となっちゃどうでもいいコトだけど、発端はたぶん『スターウォーズ』のレイア姫なんだろう。
恋しか頭にないシンデレラや男を待って眠り続ける類いの姫さんとは一線を画し、レーザーガンをブッ放して活路を開いてく"生きる上での逞しさ"をみせたわけで、もちろん、もはや恋にうつつを抜かしてるだけじゃ姫も暮らしていけなくなったのが、70年代の終わりから80年代はじめというコトにもなる。
元気印の女性はそれまでもむろん数多登場はしていたけど、あくまで1種のマイノリティ、厄介な色合いが滲む"じゃじゃ馬"として扱われていたよう思える。
レイアにはまだその"じゃじゃ馬"の片鱗はあるけれど、『エイリアン』のリプリーにはもうそれがない。
転換期という意味では、このリプリーこそがルネサンスの先導者なのかもしれない。
そも恐怖映画において、はじめて、彼女は泣き叫ばないヒロインなのだから、この1点のみでもまったく新しかったんだし、火急時の決断において男より優る存在として描かれた最初の事例なのでもあるまいか。ヒロインながら彼女は恋をせず、やむなくながら常に闘い続け、かつ母たるが何かを示そうとする3層のバネをもって垣根をヒョイと飛んだ、一線を画した新しい女性だった。
バーグマンの丸みでもなく、デートリッヒの細い鋭角な顎でもなく、シガニー・ウィーバーのあのやや角ばった顔の輪郭は、まったく新しい"意志"だった。


ちょうどその頃にゃ、というかチョイ前には、例えばロックの世界ではグラムな化粧男どもが跋扈して既存の男の価値が値下がりした時期でもあって、一方で英国じゃ、まさに『エイリアン2』が大ヒットしている1986年、女性ボーカリストのクリッシー・ハインドを中央に配したプリテンダーズが細身の身体と相反する"オトコっぷり"でハギレ良い歌声とギターでもってこれまた大ヒットという… 映画と音楽の中の主役の顔カタチに似通う所もあって、ボクは当時その化粧っけに満ちた男やそれと対比なハインドのカタチを面白がって眺めてもいて、これは何じゃろね? 男女均等が広範に拡がっての特化した事象でもあるようだし、それで括れるもんでもないし… でも結局は今の時代に連なってるんだから、ワケがわからないまま変化が面白かった。


女をどう扱うか? あるいは男をどう扱うか?
およそ今から30年先の映画の中で、そこはどう描かれるんだろうか… 30数年前の映画たちを観て、どのような女性像を見せてくれるのか期待と一抹の不安を混ぜ合わせる。


ジェームス・キャメロンは『ランボ−2/怒りの脱出』と『エイリアン2』と『ターミネーター』の脚本を同時進行で書き、『エイリアン2』撮影中に『ターミネーター』の公開と… メチャにガンバッていたのを今回あらためて知った。
でもって、クィーン・エイリアンはギーガーのデザインじゃなくってキャメロン自身の創案だということも、今になってやっと知った。
ついこの前に亡くなったギーガーは本作にまったく加わっていなかったんだな。
「あらま〜」
と、また意外だったんで眼をパチクリさせた。
実は、このクィーンのスガタカタチも描かれ方もボクは好んでいない。
これが登場した途端、得体ないまさに宇宙的スケールでの恐怖があったエイリアンが妙に地球的規模なスケールにダウンサイズされ、すなわち、理解出来ちゃう生き物に成り下がったよう思えてしかたないんだ。
かつて高名な作家が、ライオンはライオンという名をあたえられた瞬間に魔性を失って単なる凶暴な獣になったという意味のことを云ってたよう思うが、それに似通う感触をボクはクィーンに抱く。

キャメロンが母子愛情物語に話を持ってってしまったのを悪いとは思わないし、方向として間違っていなくって、ラストでリプリーにかわいいニュート嬢が「マザー!」と抱きついたところでもってリドリー・スコットの『エイリアン』でのコンピュータ・"マザー"と糸が繫がって、そこはリドリーすら意識しなかった母性を主旋律として混ぜ込んだジェームス・キャメロン監督の秀逸さに乾杯! とも思っちゃいるけど、エイリアンのその存在そのものが謎で意味不明の恐怖でなくなっちゃったコトはかなり惜しいなぁ、と…。
これは映画公開後28年経って今回ようやく再見した今も変わらない感想だ。

たぶんボクは、理解不能な極度の断絶との遭遇に期待し過ぎてるんだろう。恐がりなくせに深淵をみたい思いが強すぎるだろう。
だから彼の『アビス』にも『アバター』も嫌いじゃないけど、いささかの失望もまた味わってしまったのは、深海の"エイリアン"も衛星パンドラの世界も、結局は理解出来る範疇に収まった事物でしかなかったのじゃないかと… 思い返すんだ。わけても『アバター』はネィティブなアメリカ・インディオへのオマージュだと、いわばイメージの置き換え可能な、逆にいえば借り物なイメージだったといったら過言かしら…。
ちょうど1年前の今頃だったか、NHKが見せてくれた深海のダイオウイカのあの映像にボクがひどく過剰に戦慄したのは… たぶん、そんな事情あってのことなのかもしれない。
ダイオウイカの巨大な眼はいったい何を"見て"いるのか…、おそらくその眼には撮影している深海艇が映ってはいたろうが、ボクには、"人が紡ぐ物語性"を遙かに凌駕した未知な視線だったんだ。同じ地球に住まいながら日常的接点を持たないダイオウイカとの距離の甚大に、
「うわ〜っ! 何これっ!?」
と、詠嘆して語彙としては一致しないけども、何物にも置きかえられない存在として、そこにエイリアンをボクは見たわけだ。