蛇と高松城水攻め


ここ数週、明治時代の岡山のとある施設内の小さな建物について… ある結論を得ようと、割合と熱心に複数の資料的な本にあたって、とどのつまり、どうも自分が想定する結論は得られないのではないかと、
「やっぱり、この結論にゃ無理があるな〜」
な、諦観といささかの落胆と、
「でも、可能性は捨てきれないな〜」
な、ほのかな希望を混ぜ合わせて一憂、前に進めず後ろに退がれず、さてどないしょ〜かと溜息なワケだけど、積み上げたり崩したりを繰り返して一向に片付かない机廻りに苛立ちつつ読み漁った本の中に、自分の調べものとはまったく関係ないけど、思いもしなかった記述に触れて、
「ほほ〜!」
と、唸ったりはした。


今ちょいと話題であるらしい高松城水攻めだ。大河ドラマを観ていないのでどのようにそれが描写されたかは知らないけど… 清水宗治一族郎党の牙城を黒田官兵衛や秀吉達が水で囲って兵糧攻めにした、お馴染みなお話だ。
攻防は1582年の4月にはじまり、6月に終わる。
いまボクが住まっている所から車で40分ほどの場所。

一族および郎従者3000人だか4000人あまりが城というか集落めいた砦に立て籠もっているわけで、女性や子供も多数いる。各侍の嫁や娘や婆さんと… 籠城の半分か1/3は女性だったろうね。
水攻めの開始は5月の頭っころで、後半になって梅雨と重なり、備中高松城は水の中に孤立した。
で、ボクがこたび、新鮮を味わった本の記述というのが… 蛇のことなんだ。


だいたいボクは蛇が苦手で、
「神様、どうか、この世からその存在を抹消してくだされ〜」
真摯に祈りたいくらい、嫌いなのだ。
これが… 東西4キロの幅で水浸し作戦されたのだから、当然に蛇もモグラもムカデも、地に這う生き物いっさい、どこぞ陸地をめざして移動しなきゃ〜いけない。
蛇は蛇で生存しなきゃいけないから… それがどこに向かうかというとポツリ取り残されて床下浸水中の清水一族の城なのだった。
たった1行ながら、そういう記述が本にあって、
「あらま〜」
と、蒙を啓かされたわけだ。
寝所といわず台所といわず、蛇が屋敷内に入ってくる。続々と…。

城といったって平城だからね。今も現存の石垣跡を見るにほんの1mくらい高くなってるだけなんだから、こりゃ浸水しますわ。まして台所は土間だから水は最初にそこから入ってくる。
ゴハンが炊けない。
蛇は蛇で石垣にたどり着いて、ついで梁を伝って這い上がり、部屋のあっちゃこっちゃに入り込む。乾いた場所を探して布団の中に潜り込む…。
それで最初に女性達がノイローゼになった、らしい。


女性でなくとも、これは難儀したろうと心底思ったね〜。
部屋に蛇が入り込んでると思うと、おちおち仮眠もとれないよ。気が休まらない。
ボクなら1日でネをあげる。
あなたは、どうよ? ダイジョウブっすか?


"たかが"水攻めくらいで、なんで清水さんは降伏したんだろうかと密かに長年疑問に思ってたんだけど、あんがい、こういう"事実"が、弱いパンチの連打効果的な決めてだったんじゃなかろうかと… 気づかされたわけ。
さらに想像すれば、秀吉側がそこいらで蛇をかき集めることも出来たろう。
今と違い至るところ山野なのだから、個体数も違うだろう。
200匹や300匹なら近隣くまなく探せば、いや、もっと獲れちゃうだろうし…。
水に放り込めば、毒あるマムシもそうでないのも、やむなく泳いで清水さんちに向かわざるをえない。
うっげ〜。

蛇はよく泳ぐんだ。
10年ほど、旭川で毎夏、カヌーで遊んでたけど、広い川幅をものともせず、蛇が泳いで渡ってるのを何度かボクは目撃しているから… そこは想像じゃなく、知恵として蛇もまた武器たりえるな… と思えてきた。
カヌー仲間に岡田君というのがいて、初期の頃のジャズフェスをよく手伝ってくれたもんだけど、彼も旭川で蛇の川渡りに遭遇。このときはカヌーに随分近いところを泳いでいたらしくって岡田君はオールで叩いてみたそうな。
すると蛇めは大いに反抗してカヌーに登って来そうな勢いをみせたというから、おっかない。岡田君、大いに戦慄したそうな。

偶然接した記述は、高松城水攻めの専門書じゃなくって、岡山県における辞世の句のアレコレを紹介するという本にあって、だから行数を費やしてるワケじゃないけど、眼からウロコだったね、これは。(「岡山の浮世噺」岡山文庫1978年版)

3万の軍勢に囲まれ、さらに水に囲まれての2重苦。蛇の顛末はここまでにして…、そっから先は悲劇じゃあるけれど、その最後のシーンは絵になってるというか、絵にしようと本人らが奮闘しているんだから、今のボクらとは別次元だな。


浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の苔に残してぞ


彼のこの辞世の句をボクは上手なものとは思わないけど、一族郎党の安全保障と交換に… 秀吉側陣営前に舟で漕ぎ出し、秀吉側から贈られた酒をその場で口にし、ついで、舞をひとさし、上記の辞世をササッと記して、兄と2人の重臣計4人で自害してみせるというのは… やはり別次元の勇壮、自己演出の巧みさだ…。
根っこにあるのはカッコ良さ、でしょ。
美しくありたいというところだ。しかも、向かうところは自分の死なんだから、そこが尋常でない。

その"美しく散る"ところと、ニョロニョロの"くちなわ"に総毛立って困っている女性たちを、
「何とかしちゃらにゃ〜おえんで…」
という対比を、ボクはこたび、面白く思ってしまったワケだ。
生理としての人間の情感と、死に至るけども自身を抽象化させて1つの"アート"として自分を作品化させる人間の、このバランス… だね。そこが面白い。
432年前のことじゃあるけれど、蛇はあいかわらず忌み嫌われているのは同じながら… 人のカタチが違うのがね… すごいなと。

近頃は議員が号泣したり、実力さだかでないけどカワイイからま〜いいかで採用の女子をめぐってテンヤワンヤの団体や、野卑なヤジは飛ばせても名のり出る勇気はない連中に席巻されて… グッタリさせられるけど、武士(もののふ)たる清水宗治に昨今の様子をば伝えたら、きっと激憤、いやいっそ、
「そんなコトはありえんだろう? えっ、聞くがその泣いてたり名のらぬ者どもやらやら… 男なんだろ?」
蛇に遭遇するよりヒドク仰天するんじゃなかろうか。そんなの有り得ない、と眉間に皺よせる清水宗治を想像する。


上写真はアンガイとそんな昔バナシも好きだったMIHOちゃんと。
「へび? きゃ〜やめて〜」
屈託ない彼女の嬌声は永遠に甘やかな我が宝だ。
まもなく一周忌。