ノア 約束の地


最初に、この映画はまず、神様はいらっしゃる… ということが前提なのである。
どんなスガタなのかコエかは描かれないけども、ノアを含め1部の人間には次々に奇蹟でもってその存在を知らしめる。
よってこの神話中、ノア(ラッセル・クロウ)はその奇蹟がゆえ苦悩しだす。
箱船は、とりあえずノア家族を直近の洪水から救いはしても、それで、
「生きろ、産めよ、育め、栄えろ」
ではなく、あくまで穢れない動物たちを新天地に運ぶ番人であって、家族は生を全うしても、子は作らない。いわば自然淘汰されるべきと… そのように彼は神から命じられたと解釈する。
はるか昔の彼の祖先たるカインのアベル殺し、すなわち兄の弟殺しをダーレン・アロノフスキー監督はここで孫殺しという形でもって再現する。
信仰がノアを狂気な行動に向かわせる。
しかし、誰しも気づくことだけど、その孫殺しを決意する前、既に彼は家族以外の人間をすべて見捨てる冷酷を発揮するわけだから、狂気は孫殺しの決意以前から存在する。
一輪の野の花を摘むことすら慎んだノアに、箱船作りの開始と共に硬い鎧のような狂気は巣くい、善と悪の2分化で割り切れない諸々がそこに萌芽し、ノアは人を殺めることが出来る者に変質していく。

やがて、アララト山の頂き、いまだ水が退ききらないその波際で彼は自家製ワインで呑んだくれる。信仰、すなわち神様と結んだと自身思っている想念について、再考を余儀なくされていく。
酔いつぶれて素っ裸になっているノアは『創世記』に描かれる通りだけど、そこから先は、"原作"とは違うアロノフスキー監督の解釈するところの"作品"ということになる。
超越な結末ではなく、非凡でなく、けれど平凡でもない、いわば、ま〜、そうやって生きていくしかないであろう私達を示唆して、映画は終わる。
ラストのスタッフ・スクロールでかかる曲と歌声は心地良い。


以上な、徹底して重い命題ながら、おかしなことに、豪奢な特撮(CG)がその重みを薄める。
CGのスペクタクルが派手になればなるほど、重みが消される。
が一方でラッセル・クロウのでかい身体のみが、文字通り、存在の"重み"として画中で踏ん張り、そこで映画としてのリアリティが保たれる。
そのでかい彼よりでかく重い舟の糸杉製のドアが結界としての重厚さを醸して、それがまた彼ラッセルの肉体を大きく見せる。
このノア役に、他の男優はまず考えられない。それほどに大きい、厚い胸板、太い腕、チカラ仕事としての肉体が意識されるラッセル・クロウ
数多の優秀な木こりを産んだスペインのバスク地方の、男の身体をボクは、その太さに中にみる。バスクはまたザビエルを含め、数多の宣教師を出した所でもあって…、そこに、すこぶる健康な肉体と脆弱かもしれない精神のバランスの… 類似をみる。
そういう連想が可能なラッセル・クロウの大きな身体。
そして1番に気づかされるのは、実在する神様の整合性なきふるまい。
人を含めたいっさいに対しての、罪に対しての罰と恩赦の、その苛烈。
ノアの父親には1種の神聖をあたえ曾孫を育む母体の創造に手を化させておきながら、もはや用済みと、彼を洪水にのませてしまう非情と過酷。
その神様の意志の在処が判らない…。神様の"強さ"を上廻る"強靱さ"を人は持たない限り"自活"できないともとれるし、そこがこの映画の評価をはかるバロメーターなんだろう。

映画を見終えて席から立ち上がると、ボクら2人以外、館内にだ〜れもいなかったのには驚いた。
「え?」
「あれ〜?」
一瞬、この世にもうボクら2人しかいない… と想像すると、この2人きりなら悪くないぞ… 阿呆みたいにニヤリ笑ったりして、エレベーターで地上に降り立つと、なんだ、"約束の地"は人がいっぱいゾ〜ロゾロなので、チョイとがっかり。
馴染みな店に出向いて、"生"をオーダー。
おでんをつっつき、杯をかさねる。
良き同伴者と店に幸アレ乾杯のサンデー安息日