グレート・ディベーダー

立て続けに2本。映画をDVDで。
ロン・ハワード監督の『フロスト×ニクソン
デンゼル・ワシントンが監督兼出演の『グレート・ディベーダー』
どちらも、実話を基にしたディベート、単純にいえば討論の話。『グレート・ディベーダー』はその競技の話。
…なのだけど、どうも、その単純にいうところの"討論"と、英語の"ディベート"はいささか違うという感有り。
相手を説得させるワザとしての言葉の紡ぎあいとして、討論といえばそうだし、論争といえばそうだし、しかしまた、紡ぐのではなく、いっそほどいていった末に新たな1本の糸のみにするという感もあるし…。
ディベートという話し合い方法は、あくまでも"公的な主題"に基づく議論なのだそうだから、恋愛のもつれとしてのいがみ合う応酬じゃない。
その"公的"という括りと概念に基づく活用が、難しい。
深いところでの"ディベート"をつい考えてしまう。


ボクら日本人が使う日本語の"議論"や"討論"は明治時代に英語の訳として創られたわけだけど、どうも… 英国や米国における"Debate"の意味する所をバッチリ拾えているかといえば、そうでないらしい…。
ディスカッションとディべードを一緒に煮込んでしまってるようなトコロがあるらしい。
実践としての現状を眺めるに、事実、テレビの中での討論を見たりすると、ただの口論だったり、その延長のケンカだったりするし、数年前のドジョウ首相と当時野党だったアベ党首との国会討論に至っては、「みんなで努力しましょうよ〜」なホームルームにも劣るカケアイだったから、いっそ呆気して眼がパチクリしたけど… 言葉でもって相手を説得していく"舞台"というのは、米国や英国では、やはりどうも一味も二味も違うようなのだ。
だから映画になる。

思い返すと、大統領選でのケネディニクソンの明暗は、史上初めてテレビ中継されたそのディベードで完璧逆転で勝敗が決まったワケだったし、およそ20年後の、そのニクソンとテレビリポーターとのディベードでとうとう本音を晒してしまったニクソンの哀れもそうだった。


直接の眼に見える形での話し合いじゃないけれど、今回の池上彰コラムを朝日新聞誌上に載せるかどうかのせめぎ合いも… 何か近い感じがする。
ちょっと横道にそれるけど、池上氏の、

{ 朝日の記事が間違っていたからといって、「慰安婦」と呼ばれた女性たちがいたことは事実です。これを今後も報道することは大事なことです。でも、新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか。}

は、するどく宜しい帰結だろう。
1番お終いの部分の"国と国の関係であっても"の含み具合には、言葉をどう操っていくかの見本テキストのようなもんで、新聞社への非難だけでない池上流な批評があって、さすがと思われる。


言葉をどう使っていくか… 今回観た2本の映画はいみじくもほぼ同じ頃に創られてる。
『グレート・ディベーダー』が2007年。『フロスト×ニクソン』が2008年。
ほぼ同時期に言葉の重要性を考えさせられる映画が米国で創られているのは興味深い。往々にしてボクはただ奇声を発してるだけのようなところもあるから、こういう映画に接すると、つい立ち止まって… めぐりの悪いアタマをクラクラさせる。


次いでだ。
大統領の陰謀』と『チャイナ・シンドローム』も観る。
どっちもお久しぶりだけど、あれ? 意外と淡々と描いてるな〜。
なんかもっとセンセーショナルな感じが昔はしてたけど、そうじゃなかった。


センセーショナルといえば、またぞろ朝日がらみで話題の"吉田調書"だけど、たぶん1番に大事なのは、唯一、8/30付けの東京新聞が報じた、
「われわれのイメージは東日本壊滅。本当に死んだと思った」
との、氏の発言と思う。
現場にいるからこそ本当の危険が判っていたのだし、その上でそう発言したことの重みを… ホントは検証していただきたく思うわけだ。
記事を書くということと議論としての言葉は、歪みなく主張し続けられるかどうか… も含めて、たぶん一致なもんだろう。
こたび観た『フロスト×ニクソン』にしろ『グレート・ディベーダー』にしろ、意見を衝突させていく話じゃあるけれど、その対立の合間にはただ反撥して非難合戦じゃなくって、対立しつつ噛み合わせるという"方法"の秘密が隠れているようにも思えた。
それが"ディベード"なのかもしれない。

  
ちなみに、『グレート・ディベーダー』の主役デンゼル・ワシントンはクライマックスでは3歩さがって脇にいる…。監督でもあるんだから幾らでもシャシャリ出られるんだけど… そうしなかった。これはなかなか出来ないワザだな〜。