皆既月食

ここまで綺麗に見えたのは30数年ぶりかしら。
その30年ほど前の夜はよく憶えてる。
その頃はベッドが窓のすぐそばにあって、カーテンを開けてりゃ寝転がったまま南天の夜空を見ることが出来た。
その夜はあえて早い時間に寝っ転がり、月を題材にした足穂の『黄漠奇聞』を読んだ。
読みつつチラチラと視線をそよがせて錆びた色合いの月を眺めるといった按配で、なかなかシャレてた。
ただもっとも、『黄漠奇聞』は一人の王が月と対峙して破綻するという奇妙な話ゆえ、戦慄めいた怖さがあって… 30数年経った今も、その怖い感触はなかなか忘れがたい。
ボクが寝っ転がってるその瞬間にも、この地球、太陽、月は静々と動いてるんだとはっきり知覚した気がして、もどかしい不思議を憶えた。

今顧みると、いわば、ボクの"MOON嗜好"の基点となるような感があって、だからこういった天体現象には、どこか怖さを、畏怖めいた物怖じするような所がないと、やや面白くない。
なので、いっそ、この月食に音が伴ったら、どんなにスゴイかと… アホ〜なことを思ったりもする。
早朝のハスの花の開花にはポンと音がする、といった都市伝説めくな感もあるけど、ゴゴゴゴゴッとか、ジジジジジジッとかな音が、月の変化と共に到来したら、かなり怖いのじゃないかしら… と、非科学的空想を愉しむ。
でもって、見かけ上、太陽・月・地球が完全に一直線になった瞬間には、まったく独自特殊な音がしなきゃ〜いけない。
ポンでは間がぬける。
ベンッ、じゃ足りない。
バッビュ〜ン、じゃ漫画だし… いっそのこと人の耳には聴き分け出来ないけども、体感として、重低音な重い重い感触が胸にズッシリ鉛のように轟くのはどうか… などとね。
ただそうなると、決まって… あの法外な名曲『ツアラトゥストラはかく語りき』が『2001年宇宙の旅』の映像と共に頭に浮き上がってくるから、こりゃなかなか迷惑なハナシ。

ただいまジャズフェスのまっさいちゅう。
イベントそのものはついこの前の土曜日(盛況でありました)と今週土曜日の2コマだけど、今週土曜の準備で何かと慌ただしくって落ち着かない。
50人を越えるスタッフの動きをどう掌握するんだ… などと思いつつ幾つかスケジュール的な表を作って、あちゃこちゃに電話して確認など試みるんだけど、ま〜、たいがいこういう時は相手が不在、電話に出ない。それで小さな懸案が後回しの継続となって、それが重なって、気づくと、500円硬貨くらいな重みが肩にチョコンとのって離れない。
そんなアタフタと、無音ながら確実な力学の基での天体の運行と我が身を対比するのも何だけど、何だか自身の卑小を感じて、ちょいと溜息をこぼす今宵。
悠々として急げ
は、開高健の名言だけど、急ぎはすれど、なかなか悠々になれずゆえ。

上の写真。ちょうど飛行機が飛んで来て… 地表の電柱のLED燈が太陽みたいで、なにやら星が直列したような感じがあって、それでパチリ。
いっそ今夜は『2001年宇宙の旅』を観るか…、久しぶりに。
『ツアラトゥストラは…』よりも、シュトラウスの『美しく青きドナウ』をあの映像と共に味わいたいや。
ちなみにこの曲は1867年のパリ万国博覧会で高評価を得て高名になってくのだけど、この年は江戸時代最後の年だよ、幕末だ。
同博覧会には徳川政権も最後の力を振り絞って日本の物産を展示(芸妓も3人送り込んで日本茶を振る舞い、これがパリで大評判。日本ブームになる)してるし、九州の薩摩藩佐賀藩も独自に出展して、いずれが日本の代表かと主催の仏蘭西を困らせてる。
なので、シュトラウス本人が指揮する演奏を何人かの日本のサムライは直にライブで聴いてるはずなんだ。
日本人がほぼ初めて耳にした西洋音階が『美しく青きドナウ』というのは、いいじゃんか。それもフル・オーケストラで。