華麗なる激情

大勢の客で賑わう中、クレームを頂戴した居酒屋の主は1杯自ら啜るや、熟成未達なワインが入った巨大な樽を、
「酢っぱい葡萄酒は捨てろ」
と叩き壊す。床に駄目なワインをぶちまける。
その姿勢と言葉がクレームを発した画家本人に衝撃をあたえる。教皇の命じるまま描きかけていた十二使徒の絵を壊し、彼はまったく新たなフレスコ画を描こうとしだす。
自ら構想した自信の企画を破棄された教皇は大いに怒る。けれど画家を解職はしない。画家は画家でその情熱と現実の狭間でいっそうの苦悩を背負う。


1965年の映画『華麗なる激情』が今も新鮮に映えるのは、20mを越える高さとテニスコート3枚分以上の広さを持ったシスティーナ礼拝堂の内部を、そのままセットとしてそっくり造り上げているからだろう。
そこに役者を配し、あの有名な、
「いつ出来る?」
「完成したら」
の禅問答めいた応酬を1つのレンズでとらえて、その文字通りな上下の関係を、追われる側が上にいて、命じた側が下にいるという妙な逆立ち構造をビジュアルとして示してくれた。

礼拝堂の高みでの絵画製作の困難さを描くには、やはりその高さが断固に必要と監督キャロル・リードは思ったに違いないし、ミサを執り行う場での作業足場が教皇庁と画家の軋轢としてドラマになると目論んだ狙いもあたってる。
予算費やしただけの結果は在り在りと画面に出て、だからこの映画は古びの速度が遅い。実物大コピーが実物同寸でもって機能して、画家が抱えた困難の度合いが手にとれる。

天井一面に、ただの1本の筆でもって絵を描いた人はそう、いない。
ボクはベッドに寝っ転がって頭を枕にピタリとつけたまま、天井側に向けたノートに鉛筆で字を書くことをするけど、数分が限度。メモ程度なことしか書けない上に文字も歪む。
なので、ミケランジェロのしんどさは、ちょっと形容できない類いの御苦労だったはず。穂先に浸透するよりも顔料は筆の反対側に流れ落ちるし、手はとてもだるい…。
そこをいささかオーバーアクションにチャールトン・ヘストンは天井にへばりついて、うまく演じてる。
近年のヴァチカンが総力をあげ、1981年から1994年まで足かけ14年も費やしたシスティーナの絵画修復作業は、ビックリ仰天の再発見を世界に発信したけど、のけぞって頭を頭上にもたげた作業は1日3時間が限界だったと、それ以上は集中力がもたないと、修復を記録した本にはある。

手元を照らす電気仕掛けのランプもある現代人をして3時間しかもたなくって数年かかったのを、ミケランジェロは揺らぐ蝋燭灯りの元、概ねただ1人で完了させたのだから、今さらながら、愕然とさせられる。
近年の修復作業は礼拝堂をしめきって、全域をカバーする足場を組めたけど、ミケランジェロの場合はそうじゃない。部分が出来上がると、曲面が深い天井に合わせてまた足場をいちから組み直さなきゃいけない…。


その苦労を演じるにはヘストンはうってつけ。『十戒』にしろ『ベンハー』にしろ、この人はマゾっぽさ100パーセントで開花する。
けれど何といってもこの映画を永遠のものにしているのは、教皇ユリウス2世を演じたレックス・ハリスンだろう。いや…、レックス・ハリスンを通してのユリウス2世という存在だろう。
ミケランジェロという芸術家的職人を使って天井画を創った「教皇ユリウス2世というアーチスト」といっても大袈裟でない感も受けて、そこを確認すべくまた再見をしたくなる。

ルネサンス期というのは実に判りにくい。
ミケランジェロが格闘している合間にも、ダヴィンチがいる、ラファエロがいる、ティツィアーノがいる、ブラマンテはシスティーナのすぐそばで聖ピエトロ大聖堂を組み立て… 何かそこいら中がスーパースターだらけ。
その一方で、イタリア地域は群雄割拠な小国に分散し、同盟したり、いがみ合ったり、ローマ教皇庁も権威はあっても1地域を治める程度な小ささにまで収縮して、だからこの映画でも紛争と戦争が常態として描かれ、ユリウス2世は剣をとる。
昨日のお友達関係は今日は解消で戦争をするというアンバイで、そこら中が煮えて沸き立ってる。
よくぞそのような状況下で続々と今に残る名作が産まれたもんだとひたすら感心するけど、そのような時代だからこそ"華麗"でビックリな絵画や彫刻を産まねば人の眼は教会から離れようとするばかりなのだったろう。だからまさにルネサンス、復興への思いの集約がみてとれるというワケだけど、画家も建築家も1つの国に固定されず、あんがい自在に右往左往、国を行き来できる。そこもまたルネサンスの特徴なんだろう。
だから余計に判りにくい。


その判りにくさは映画にも反映され、大掛かりな戦争シーンも登場し、種々にたなびく旗の色にお国を判別するビジュアルがあるのだろうけど、誰と教皇が戦っているのか判別しにくい。
けどもそこは映画の欠点じゃない。それっくらいに判りにくい時世という次第なのだから黙してそこは眺めてりゃいい。
この戦闘シーンだけでも予算が半端でないとよく判る大俯瞰での人の動きが、かなりリアルな醍醐味として伝わってくる。
駄目なのは、『華麗なる激情』という邦題だ。

絵を描けと依頼した教皇とやむなくも受諾した画家の間に激情はあるけれど、華麗なんぞ微塵もない。あるのは苛烈なぶつかりであって、憎しみの1歩手前での絵画をはさんでの相互理解せんとする努力… を踏まえれば、原題を直訳しての、"苦悶と歓喜"とでも断固つけるべきだった。
史実としてのユリウス2世は天井画が完成して僅か4ヶ月後に没しているから、そこに至るまでの画家に絵を描かせる苦闘を勘案すれば、華麗などは微塵もなく、消えかける蝋燭みたいな己のが身を抱え、ただもう待って待って待っての気苦労に消耗し、けどもまた期待の炎だけ燃やし続けているという壮烈な修羅なのだから… タイトルはあまりに凡庸、工夫も苦労もない。
ま〜、それも今となっちゃ、どうでもよろしい。


ボクはこの映画を中学校の体育館で全生徒集合でもって観た。観たというか、観せられた… という方がいいな。
その時はさほど感銘はなかったけど、そりゃ仕方ない。教育の一環だか文部省指定だか何だか知らないけど、興味ないものを無理強いられたって、ありがたくない。まして体育館の板張りは足元から冷気があがるばかりで、とても2時間越えの映画鑑賞の場ではなかった。


いま多少に歳をとって再見するに、この映画にはもう一人、影の登場者がいて、いうまでもない、神さんだ。その媒体となるキリストだ。
この神さんに、教皇ミケランジェロも雁字搦めに縛られて、いわば世界はその"神の縛り"の中にある。
この縛りこそが甘美の元だし苦悩の元でもあるけど、転じて我が国の宗教界を見廻すと、そこが一神教との違いの最たるもので、空海も誰も、縛られているのではなくって、どう縛られたいかを模索し続けたといったら、おこがましいか…。

ミケランジェロがシスティーナに描いた「楽園追放」の図は、いうまでもなく左側が禁断の果実をアダムとエヴァが盗み取ったシーンで、蛇がからまるその樹木の右側では2人が楽園を追い立てられるという連続絵巻な構造になってる。
旧約によるところの、
「地はあなたのために呪われ、あなたは生涯苦しんで地から食べ物をとる」
という次第で2人はエデンを放り出されるわけだけども、この宣告はベチャリといえば、罰としての労働を意味するワケだ。
額に汗する労働は美しく喜びであるというのがこの日本の基本感覚だけど、キリスト世界の基本は、労働しなきゃいけないのは科せられた罰だからなのだった。
そこを踏まえれば何故にヨーロッパの人達がバカンスでもって数週間も労働から遠ざかろうとするのかが良く判ろうというもんだ。


ボクは多神な仏教を好んでるから一神教に帰依しない… んだけど、己れを知るには隣りの奧さんの風呂を覗けじゃなくって、こういう映画の光を浴びるのもまたイイもんだ。
なぜ人は祈ったり、またそのためのサンクチュアリ(聖域)を設けたがるのか… そんなクエスチョンの解答がストレートにあるワケはないけども、泡のように浮遊するヒントの幾つかがこの映画にはあるような気がする。

ところで、いささかおかしな事だけど、ボクがこの映画を再見したくなるのは、絵が完成してめでたしめでたし〜を味わいたいからじゃなくって、ミケランジェロに絵を完成させて欲しくない… みたいな妙な、描いてる時が1番にイイじゃ〜ないか、いっそこの映画の中では永劫に絵に向き合い、ユリウスはユリウスでこちらも永劫に頭上20mを仰いじゃ、
「いつ出来る?」
と、問い続けて欲しいからなのだ。
完成は終わりでもあって、モノ創りの人間にとってはたぶん喜びよりも寂しい感触の方が常々多かったりするもんで、それでそんな風に。