砂場の砂より多くの神さん

3月になってお正月の話をするのも何だけど、明治神宮とか伊勢神宮とかに、たった3日で300万を超える人が参詣するというのは、やはりトンデモないこったろうと思う。
イスラム教ワールドではメッカへの巡礼に1000万の人が集うという事をながらくボクは、いささかの奇異な眼で眺めてた節があるけれど、よく考えるまでもなく、その数からいって、いっそよっぽど日本の正月の誰しも皆な神社へGO!、の方が奇異だろうと思う。
だって、明治神宮と伊勢神社だけでなく全国津々浦々の神社がそうだよ。
ほぼ国民の全部概ねが神社詣でをしているんだから1000万人どころじゃなくって1億ちかいか越えてるかというトンデモ動員なお参りだ。
日本の外からこの光景をみたら、これはもう大変な神道立国という感じじゃあるまいか。
しかもその中には、例えばこの岡山を例にすると、最上稲荷というのがあって毎年だいたい60万人がたった3日の間に詣でちゃうのだけど、巨大な鳥居もあって稲荷の名なのに実は神社じゃない。
ここは日蓮宗のお寺さんで神社じゃないんだけど、60万人がお辞儀をしに正月に出向くんだから、一神教世界の方は、
神道なの? 仏教なの?」
不可解だろう。

しかもさらに突っ込んで、仮に、お正月に、神社に詣でた人にインタビューして、
「あなたの神さん、何て〜の?」
と、問えば…、きっと多くが、そこに祀られている神さんが何なのかは知らなかったりで、さらには、
「ぇええ?!」
当惑あらわに、場合により、
「わたしって〜、どっちかといえば〜、無宗教かも〜♡」
ってな解答になるよう思う。
こりゃ不思議を通り越してまったくヘンテコだ。まず海外じゃ認めてもらえない。


でも、このヘンテコをボクは嫌いじゃない。
ま〜、ボクは無宗教じゃなくって薄い皮膜のように仏教に軸足を置いていて、死んでしまえば浄土真宗の一員として葬送されるんだけど… でもいっぽう神社にも詣でて御賽銭を投げ入れて祈願したりの自分を極めて無自覚に受け入れてるし、浄土真宗のお寺さんもそれを非難したり怒ったりしない。
だからたぶん、一神教世界にいる人から見ると、どうにも解せないアヤフヤ、掴みようがないと見えるだろうけど、どっこい、そのアヤフヤがよろしいのだ。
だってシャ〜ない、明治になるまでは神社と仏教はゴッタ煮のお鍋みたいな状態だったのだし、神と仏を分けたのは明治政府の号令によってだから、だから、神も仏にもお辞儀して敬う歴史の方がはるかに長かったんだから、この感覚的習癖はそう簡単に二分化できるようなもんじゃ〜ない…。
けどもまた、そのことをしっかりと考えてもいないのは、いささか迂闊という事なのかもしれないので、最近は多少、ベンキョ〜するようにはなっている。

たまさか前回の講演で岡山神社権禰宜(神官です)さんとご一緒してトークショーをしたので、余計、神社ってナ〜ニ? の感が大きい。


この権禰宜(ごんねぎ)の久山氏は面白い。代々からの神社家に産まれた反撥があって大学はキリスト教系だった。米国で仕事についた。ヨーロッパを自転車で放浪もした。その上で今、代々を引き継ぐべく岡山神社にいる。彼もまた神社ってナ〜ニを無論ボクなんぞよりはるかに思慮深く考えつつある。この先どういう色に染まっていくのかとボクは期待色な興味をもつ。
そういうある種の特殊なポジションゆえに色々な人が彼の廻りで明滅する。今と明治がボクの中ではダブッてみえだしている。
かつて明治の時代、神社の力が大きくなって廃仏毀釈というムチャもあった時代。その岡山神社の真ん前に登場した「亜公園」。その成立時に岡山神社がどう関わっていたかをボクは最近考えているのだけど、ま、そこは… また今度に話すとして。
その権禰宜の久山氏が山陽新聞夕刊にいまエッセーを連載(2月と3月の金曜)していて、一昨日の号で、ちょっくらボクにも触れてくれてるんで… ここに紹介しておく。


※ レナード・ニモイの訃報。残念だ。
バルカン星人と地球人の血をひくがゆえ異質だったミスター・スポックと、その異質に困惑しつつも異質を呑み込むカーク船長との、相互理解しようと努めるカタチが番組の面白さだった。今の世に通じる大事なところだね、そこが。