甚九朗稲荷の朝

やや早くに起きだして甚九朗稲荷に向かう。
ちょっと確認をしたい事があって、写真を何枚か撮ったり足元をジ〜ッと眺めたりした。
亜公園との関わりが極めて高く、ボクはこの稲荷を『亜公園の想い出置き場』と称してるのだけど、そのつながりで最近新たに仮説をたてていて、それでちょっと確認という次第。
街中の、まったく大きくもない、ささやかな稲荷だけど、あんがい人がやってくる。
30分の合間に30人も40人というわけではなく、30分の合間に1人か2人という程度なもんだけども、近所にお住まいの方だろうか、おそらく慣習としてそうやって、お参りされるのだろう。若い人もいる。

岡山市内、上之町のこの稲荷は明治に造られた。
お城のすぐそば。当時も今も1等地。
堀がめぐらされた城と一般とを区分けしたその瀬戸際の場所。
江戸の時代、北之橋という橋がそのお堀にかけられていて、朝夕、番町界隈の侍たちはこの橋を通って登城してた。
番町は1番町から8番町まであってどの屋敷もほぼ面積は同じで100石取り以下の武士たちが住まっていた。なので裕福じゃない。
当初は、もし備前岡山が攻められたさいには、旭川を渡って来る敵に向け1番に出動する武士の集団という役割があった。収入は高くないけど、その役割が彼らの誇りとする所であったようだ。江戸時代に結局戦争はなかったので、江戸勤めの留守居役とか、今でいう外交官的役職の人もけっこういた。
そういう方々が朝と夕に渡った小さな橋。
橋は異名として甚九朗橋といった。
この名の由来については諸説あり、今、稲荷にある説明看板は、ま〜、嘘の1つとボクは確信してるけど、ここには記さない。
で、いつの時分かそのほとりに小さな祠が出来ていた。
その小さな祠を、明治になって、堀が埋められたさい、移転して出来たのが、甚九朗稲荷だった。

江戸時代の上之町は呉服商や家具屋の大店(おおだな)が占有していた。
けれど明治という時代になって、それまでお城の武士階級を相手に悠々と商売していた大店はたちまち商いの対象者を失い、収入がとだえる。
眼の前マッシロ。「うっそ〜!」てな状況になった。
やむなく、多くは店を閉め敷地を分譲して売ったり貸したりした。
そこへ入居したのが若くてやる気のある連中だ。もはや身分なんて〜ものはない、4畳半程度のスペースを借りてこうもり傘の販売と修繕といった、新たな時代の担い手だ。
意外と当たったのがハンカチ屋さん。フリルのついたハンカチーフは西洋そのものじゃないかと、明治の岡女(オカジョ-岡山の女性だね))は皆さんお小遣いを工面した。買って流行の先端を手にいれた。でももったいないから汗は手拭いでふいた。
じゃ〜ドコで使うんだ? といえば見合いの席で何気に持ってるのを見せるといった、いわば勝負パンツの役割ビッグなハンカチーフ。明治のヤング岡山人はフリルで脳髄フニャリでござんした。
このフリルにゾッコンの影響は今も続き、ワコールだかセシールだかが80年代に調査した統計によればオカジョの下着フリル率は東京に次ぐ勢いだとか…。ま、それは余談。


そのハンカチ販売をふくめ、上之町に入居して来た若い商店主たちが、甚九朗稲荷を創ったんだ。
云うならば、町起こしのためのイベント空間の創成だ。
イベントを催して人が集えば自ずと各商店も潤う… という次第で、ベチャ〜ッといえば、稲荷という"神さん"は口実に用いられた。おそらくいっぱい呑みながらワイワイと話し合って、
「オモチロそ〜じゃん、やろ〜やろ〜」
と決まったのであろう。だいたい、そんなもんだ。


けども神域がそうやって構築された途端、それが"勝手に"機能しだしたのだから、ホントにオモチロイ。
江戸期を通して他の町内に較べて圧倒的に上之町は火事が少なかった。それを口実に、甚九朗稲荷は火除けの神を祀る神社と、そう称したんだけど、これがヒットした。
あやかりたい… と参詣する人が急増した。
そこで若き商店主たちはさらに人を集めようと、また集まっていっぱい呑みながら、第2段、第3段の面白いイベントを考えた。
7月の24、25日のお祭りを創設し、上之町の全商店が協賛。いずれの店も店内に工夫をこらした"ダシ"を造って披露した。マネキンを使った時事ネタのディオラマとか世界の有名な風景、たとえばナイアガラ瀑布といった景観をディオラマ仕立てで見せる。しかもそれはホンマに水を使って滝を表現してる…。
これが大評判になる。
若い奴らが面白いコトしてるぜと、上之町の名は周辺に浸透していく。
当然に上之町のヤング・オーナー達はさらに勢いづく。大枚はたいてダンジリをこえさ、上之町以外の場所にまで賑やかに練り歩いて、甚九朗稲荷を中心にした上之町の際立ちをアピールした。
大正時代にはそのお祭の"ダシ"見物のため、臨時列車まで増発されるというトンデモなスケールにまで増長した。
けど、今はもう、そんな賑わいの中央点だったコトなど嘘のよう。実に静かなもんで、林家彦六の落語「ぞろぞろ」に出て来る正一太郎の衰退しちまったお稲荷さんみたいな感もなくはない。


昭和20年の空襲で甚九朗稲荷は焼かれて灰と化した。高額で造ったという立派なダンジリも焼夷弾で燃やされた。
稲荷境内の現在の拝殿とその後ろにある本殿は、戦争が終わって再建されたものだ。
イラストレータで作図したので、お見せししよう。

拝殿は後ろがちょっと飛び出ていて、この飛び出たところが幣殿にあたる。神さんへの供物を置く場所だ。
本殿は、本殿と呼ぶにはおこがましいようなささやかな規模。あんまりお金がかけられなかった気配が濃厚だ。

一方で、復興時に植樹された拝殿両サイドの樹木はよく育って、いまや神域にいかにもふさわしい巨木に育ってる。
もう20年も経たぬ内、大きくなり過ぎて多少は伐採しなきゃイカンぞというようなくらいな勢いで、本殿付近は昼なお暗いという感じな、いよいよな神性を帯びる筈だ。
明治のスタート時を思えば、この"神がかって"いく按配は、面白いと同時に不思議でもあるし、また好もしくもあって、神主さんが常駐する社格でもないし、小さくて豪奢でもなんでもないけど、街中の"変わらないポイント"となってるようには感じる。


小ぶりな本殿のすぐ後ろに、今は活用待ちでひょっとして取り壊されてまた新たな何かになるかもな旧後楽館高校の建物がそびえているけど、高校になる前はそれは農政局だった。その前は県会議事堂であり、図書館であり… そして、それ以前は亜公園だった。運営機関があまりに短く、今や忘れられた娯楽施設ながら、亜公園はほぼ日本で最初のテーマパークだった。
現在の後楽館高校旧校舎の場所には亜公園の管松楼や管梅楼といった料亭があって大いに賑わった。亜公園内には券番所という芸妓斡旋の設備もあったんで、小唄の師匠はんに三味線のお姉さんなどなど宴会には持ってこ〜いなのだった。
だから夕刻ともなれば甚九朗稲荷には料亭からの三味線の音が聞こえていた筈。今よりはるかに… 賑やかな環境でもあったんだ。

参道の右手は今はオリエント美術館だけど、以前は石造りの勧業銀行だった。石造りだから空襲に耐え昭和の40年代まで使われた。銀行が駅前に移転して、そんなんだから文化財として保存しようという声があがり、市民の声は二分されたけど、結局壊し、現在の美術館が建った。

銀行になる前は、明治の末年から大正13年まで、そこは岡山電気軌道の本社と車庫だった。甚九朗稲荷側からは車庫の赤煉瓦が拝殿の赤色と共に2層のレッドカラーとしてよく映えていた筈。
で、それ以前はといえば、剣道場だった。江戸時代末期では県下最大の道場だったから稲荷の境内にいれば、竹刀のぶつかる朝稽古の音と、
「えいや〜と〜」
な赤銅スズノスケ君らの気合い声がよく響いていた筈だ。
明治となり、剣道がすたれ、板張りの道場はそのまま電気軌道の事務所になったワケだけど、甚九朗稲荷の周辺はそうやって目まぐるしく変化して、ただ甚九朗稲荷のみが甚九朗稲荷で有り続けているというのが、なんだかやはり面白い。
逆にいえば、あまりに周囲が変わり過ぎてるワケなのだ。四季の変化じゃないから、落ち着きがないったらアリャ〜しないのだ。

とはいえ、その甚九朗稲荷にも変化があって、今ボクはそこを探ってるという次第なのだった。うつろいの中での変わったものと変わっていないものを見極めようという作業の一環。
全国レベルでワオ〜〜!、ってなものじゃなく、あくまで1地域のものでしかないけど、なんだかそこが大切だ。
地域があって世界があるという次第。

空襲で焼かれる前までの拝殿と本殿は今のものより1廻り大きい。カタチもちょっと違う。『亜公園の想い出置き場』と最初に書いたけど、何を隠そう、拝殿と本殿はその亜公園内にあった「天満宮」そのものかも知れない… という仮説の上で、ま〜、それを模型で再構築して考証してみようと、いまヤッてるわけね。それで朝の早くに稲荷へGOなのだった。
資料はほぼ皆無。空襲はカタチだけでなく記憶も焼いてしまった。明治を生きた人ももう界隈にいない。
けれど実に幸いかな、現在の拝殿と本殿の足元をよ〜く見ると、戦前の礎石や家屋縄張りの跡が残っているんだ。
それを参考にというワケなのだった。
おそらく、いま、この甚九朗稲荷は新たな"神話期"を迎えようとしてる。