化け物見極め 〜ルターは唄う〜

この前、誰かさんと電話で長話になったさい話題が化け物の事になって、
「近頃は多くて困るな。アレもコレもオバケじゃん」
というような事をしゃべってケララと笑ったんじゃあるけど… そうだな〜、ちょっと再定義しておかなきゃいかんなという事で、以下に書いておこっと。


いきなりで恐縮だけど…、
『龍ノ口山のお堂に化け物がいる』
『龍ノ口山のお堂に化け物があった』
以上の2つ、どちらの表現が正しい?
と、そう質問された場合、あなたはどちらを選ぶ?

どちらでもよろしいというのが概ねの解だろうけど、狭義には下側の『あった』が正しかろう。
なぜなら、"いる"というのは生ある消息としての"生き物"を指すから"いる"のであって、まずはそこを関門として、"化け物"を定義しなくっちゃ〜いけないでしょ。
呼吸の有無でもって、分けていこうというワケだ。
息をしているようなら、それはどんな姿であっても生き物だ。


化け物は呼吸しない。
そうすると路傍の石と変わらない。
私達は、
「石がいた」
とは云わない。
よって、「化け物があった」がやはり正しい言葉遣いなのである。


「あいつ、バケモンだぜ」
と云う場合は当然に、化け物じみてるの、たんなる比喩だ。
八岐大蛇も化け物じゃない。
あれはただの異形の大蛇なのだし、8股というなら頭は9つなくては数が合わないけど何故か8つしか頭のない妙な生き物でしかないし、人をばかすタヌキやキツネらは、これも生き物、その特性として化かす事が可能という程度なもんだろう。
そう考えていくと、だんだん化け物が減少していく。

ヤカンや鍋に足がはえて、これが部屋の中や外を駆けているようなら、これは呼吸しないであろうから化け物の正統だ。
お馴染みのお岩さんは、彼女は殺された後に登場しているから当然に呼吸はしていないわけで、なので幽霊のお岩さんは正統な化け物だ。
息もしないの何故に、
「うらめしや〜」
と発声出来るのかは謎として… そういうのは声帯系の学者先生にまかせよう。
幽霊と化け物は別という見解もあって、怨みを抱えたまま没した美人は幽霊となり、そうでないのは化け物になるという… これは区分けじゃなくって差別的な識別なので除外する。
(図は左がお岩さん。右はお菊さん)


水木しげる御大はその幽霊というトコロに着目し、幽霊族という区分を設けてそこに我らが鬼太郎を配置されて、これはなかなかスゴ腕な整理術と思うけども、彼やネズミ男が退治したたくさんの異形には、その幽霊族あり、生き物族あり、正統お化け族ありと… なかなか多様で広範で、そこに焦点をあてると鬼太郎君がいかにグローバルな、"困った時にお願い"的存在かという事もチョット判って、彼の支持率の高さの理由もまた判ろうというもんだ。むろん水木御大の分類法では呼吸ウンヌンは関係はない。幽霊族とはいえ、鬼太郎君はお金がなくってよく惰眠してというか、眠ることぐらいしか楽しみがないというのは周知の通りだろう。彼は呼吸してる。よって当分類法では生き物に属してる。



いささか見極めが難しいのが天狗だ。
どうもこの方々は呼吸をしているようなのだ。さて、では生き物or化け物、どっちやねんとなると… 実は答えは簡単だ。
化け物でもなく生き物でもなく、時に悪さをするのもいるらしいけど、彼らは生き物に限りなく近い神さんの1種だ。
例証としてあげるなら、当初はただの生き物だけど仏に帰依して神さんの眷属になったというのが滋賀は琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)の天狗堂に伝わるオハナシだ。
澁澤龍彦の『ねむり姫』中の小篇『夢ちがえ』ではその消息がかなりゾクゾクするくらい良く描かれていて秀逸だった。
いよいよもって、正統オバケは減少する。
希少価値があがってきた。


ご承知の通り、菅原道真は没した後で怨霊となった。それを化け物と云ってしまうのはまったく気の毒だし、口が裂けたりツノが生えたりの異形でなく、姿もカタチもないまま眷属引き寄せ、その眷属めらが時に雷をうたせるなどして御所の清涼殿で死傷者をもたらしたりとアレコレ祟っていったから、後に天神さんと怖れられ祀られていくのはもっともだけど、彼のレコードはオバケ・コーナーにやはり置くのがいいようだ。ただ、出来るだけ… 神さん族のコーナーに限りなく近い場所へ。
まずは怖れられたけど、属性を変えて新生して復活した現在はお勉強の神さんとして今度はあがめられている… この希有を復興という意味合いでのルネサンスと云わずして何と呼ぼうかと、ちょっと思ったりさせられる存在なのがこの菅原道真だ。



話し次いでに云うと、マルティン・ルターって宗教改革の人がいるよね。カトリックから離れたプロテスタントの元祖となる偉い人の1人… ではあるんだろうし、じっさい彼の肖像画を見るに… 若い頃のそれには、干からびたパンと酸っぱいワインくらいしか胃におさめなかったろうと思える理念高らかに燃やしてるって感じの闘志が絵に映しとられているようで、悪くない。
しかし晩年に近い頃の肖像画にみる彼は、でっぷり肥えて、とてものコト偉い人に見えなくって、ともすれば堕落したブタの猪八戒に似通う化け物の醜怪さをおぼえるのは、わたしだけなのかしら?
そのような膨れたカタチになるには… いささか上等ふくよかな赤や脂質豊かなビーフの大量摂取が考えられる。それなくしてどうやって肥えるのか?
おまけに眼の光彩が、宗教家のそれでなくロシアの大統領のような政治屋っぽい猜疑と虎視眈々な策略色にしか映えないのはどうしたワケか。
顔カタチで人を判断しちゃ〜いけないけども、なんだかず〜〜っとそう感じて現在に至ってるんでルターさんにゃ申しワケないけど、聖職者として1番最初に結婚した人という所も加味されて、ど〜もこの人のイメージが変な俗物な感じに定着してしまってる。いきおい、化け物話に混ぜちゃうというのも失礼じゃあるけど…。


しかしこのルターさんがその肥満した顔と身体で、ワケの判らないラテン語のみで合唱されていた彼が住まうドイツの教会音楽を何とかしなきゃ… と思い立ち、自ら作詞作曲した平易なドイツ語での賛美歌を自らリュートを奏でつつ歌って普及に努めたという事実は、なんだかシンガーソングライターの元祖のようであり、お硬い教会内を新たなライブ感で満たし、そのグルーヴィ〜さでもって追っかけのフアンをつくっていって、それが宗教改革の底辺を拡大させたような感もあって、いわばクラシック全盛のさなかのロックンローラーだかパンク野郎めいた、ディランやビートルズ以上の革新をやってのけたようにも思えて、そこは鮮烈が際立つ。
それで…、今に伝わるレコードもCDもないから、一体どんな声の人だったんかな、あんがい甘い声音かもなと思ったりする。
けどまたやはり、その顔、その肥満姿には、"教会ライブ"後の打ち上げで甘いもん辛いもん色々お肉たっぷり食べてなきゃそ〜はならんわいな… 次の教会への道中も徒歩じゃなく馬にひかせた乗り物での悠々だろ? 成功者が陥るべく所に位置してるような、わだかまるような、やはり"化け"が進行してるような、妙なクエスチョンが浮くんだった。
もちろん一方で、太って二重顎をさらした肥え太ったアリノママの肖像画を拒否して美化したスリムな美形として画家に強いたりしなかったところには、ルターの、
人間らしくありたいな・人間なんだからな… 
開高健サントリーCMじゃ〜ないけど、正直な匂いも嗅げないことはない。この油彩を承認したところに、化け物にはならないぞと踏みとどまった生き物としてのツッパリも感じられないことはない。人間とは危ういものなり… と、そう自身の姿でうったえているのかもしれない。