たそがれ清兵衛とラストサムライと47RONIN

やたら、"見たいモード"に入って久しぶりに『たそがれ清兵衛』を観たら、半分めあたりでDVDがエラーを起こす。クリーニングしても、やはり途中で画面が飛ぶか止まるかで、読み込みできません… となる。
観賞断念が口惜しい。
それでまた1枚、7〜8年ぶりに再購入したんだけど、口惜しさが… かさむな〜。
米国じゃオフィシャルなものが1700円くらいで手に入るが日本だと4000円近いというのは何ででござろう? 高すぎるわい。


たそがれ清兵衛』は映画館の中、ラストの主題歌でかなりガックリし、DVDで再見でもそこは払拭できず、こたび再購入では、ガックリよりも何か腹立たしい気分になったのは数千円の八つ当たりではなくって、やはり、せっかくの映画の余韻を強硬に井上陽水歌謡に引き入れられる理不尽のせいだ。
いささかに良い食事だったと箸を置きかけたらシメにUCCのゲキ甘い缶コーヒーを出されたみたいな、ダイナシの不愉快。
映画そのものには富田勲が目立たぬよう配慮もしたであろう音楽を組み入れて良い効果となっているけども、ラストでもってそれが断ち切られて何だか陽水ワールドになっちまうのはいけない。
山田監督はこの理不尽にやっとこさ『たそがれ…』で気がついたろうか… この映画以降、"主題歌"を用いることはなくなったようだけど、当然だ。 


いまさらだけど…、『たそがれ清兵衛』は喧伝されるホドに秀作であろうか?
ボクはむろん、大好きな映画だ。そうでなくばDVDを買い直したりはしない。
宮沢りえがはじめて尋ねて来たさい、貧乏な夕食に晩酌1本がそえられている所とか、たしかに貧乏だけども個人個人の箱膳でもってかろうじて武士の対面を保っているところとか、朝食の粥をすすった後の茶碗に白湯を入れタクアン1ケで真田が椀を洗いつつそれを呑むというシーンあたりは何度観ても、「うまい!」と絶賛する。
けども正直に云えば、この映画でのクライマックスとなるあの室内での決闘を終えるまでは良かったものの、そこからラストに至る綴り方と演出には、『幸福の黄色いハンカチ』で感じたのと同様、ひどくモノ足りなさを感じる。
せっかくの"映画"なのに、どこかその描写が文章化可能な"小説(もじ)"の範疇とも感じられて、タクアン1ケの白湯を呑むシーンに届かない。
そこで、「?」となるワケだ。
ま〜、それは今となっちゃどうでもいい。
この映画で得られるのは我慢し抜く男への共感だ。何もかも内に秘めてしまわざるを得ない男の、その我慢を継続させる強さに惹かれるんだ。
不器用でもある…。真田広之はそこをうまく演技し、監督もまた… その不器用な男の1人として宮沢りえの心情をうまく映画に出せなかったという2重な不器用をボクはみて、そのモノ足りなさにまた共振もするんだ。
完成度よりも、そのあたりだな、この映画が再購入に価いするのは。


コトの次いでというか、真田広之見たさに、『ラスト サムライ』を再見。『48RONIN』を初見。
日本人にとってチョットしたリトマス試験紙みたいなのが、この2本じゃなかろうか。
「こんなのJAPANじゃない」
と赤変して怒るか、
「ま〜、いいのではないの」
と青変するか、どっちかだ。
ボクの場合、『ラスト サムライ』は青変どころか真っ青になってさらに限りなく透明な青にまで昇華する。半端な日本人が描いたサムライ映画など比較にならない優秀な"日本映画"と見る。
廃刀令を核に滅ぶ文化と新興の文化が衝突するこの映画をボクはいっとき、"ファンタジーの傑作"とさえ云ったけど、今見返すと、さらに点数があがった。
たぶん明治という新時代最大の激変は、その廃刀令神仏分離令の2つだとボクは思ってるし、武士階級ふくめ全階級が影響されたのは後者の神仏分離だったと確信してるけど、そのことはまたあらたに別機会として…。
もちろん真田広之は最高。セリフまったくなしの無言でこれだけの存在力を示した希有は今さらだけど、もっともっと評価されていい。


『47RONIN』は、これはもはや山田風太郎だな。
けっして新しい発想でもなく、かといって古いもんでなく、お祭りの夜店の裸電球の元での賑やかさといかがわしさだ。けどもそのいかがわしさの中に模造に見せかけたダイヤの小片が入ってたりもするかもと逆に疑うような混沌を愉しめる。
この映画はどうも評判ヨロシクないようなので、次回にもう1度、とりあげよっと。