山の彼方の…


金川(地名だ)から宇甘川ぞいを北上する形で落合(地名だ)へと至る県道の途中、山の中の少路を右折し、曲がりくねって、険しくって細い路を辿ってくと、"岡山県のおへそ"と云われる県の中心点に出る。
メジルシがあるワケでなく、観光地でもないけど、岡山県を1つの円にみたてると、だいたい、この辺りじゃな… と、コンパスの針をさす場所。あくまで、だいたいであるが。
そこに人はいず、杉を中心に樹木茂り、ウグイスが鳴いて、空高い。
高原。でも起伏ある山が周囲を覆って高天原とは即座には思えない。
ゆるゆる雲が移動する。

人はいず… と書いたけどホントはちょっと、いる。
よくおごった樹木に隠れるように4〜5軒の人家が点在し、そこから、見慣れぬ車が来てるぞ… と警戒と好奇のまざった視線が届く。
ヒラ(平)という家を中心にフジサワという名の家が点々。
時代をドカ〜ンと遡れば、平家の落ち武者の集落だそう。
平家の滅亡は1185年らしいから、その前後、今から830年ばかり前、家族伴う小さな集団が、兵庫は福原(三ノ宮)方面か、あるいは安芸の宮島方面からか、この山の彼方に逃げのび、樹木を幾つか倒し平地をこさえ、倒した樹木でもって家らしきを造り、細々ながら呼吸の継続を進めたにちがいない。

今でこそ県の中央部、南と北をいわば縫う形で舗装路が整備され金川と落合は結ばれているけれど、はるか以前、そのヒラの一族がやってきた頃合いには道もなく、な〜〜にもない天然自然がなすままの、人が住めるとはとても思えない… であったことはマチガイない。
830年前にそこに分け入ったヒラ何某(なにがし)とその家臣と思われる家族ぐるみの小集団は、零落を嘆きつつも命あることを喜び、がまた命あるゆえに、その極度な零落の恥辱をヒシヒシ肌に感じたにちがいない。


たいへん面白いことにそこからさらに車で10分ばかり北上し、やはり小さな路地に入っていくと、また小規模な集落があって、そこはなんと源氏の落ち武者が開祖という。
わずかな距離を置いて源氏と平家の郎党家族が住まっていたというのは、何ともおかしい。
互いの存在に気づいてからしばらくはパニックになったり大警戒なモードであったろう。けども何年も経って追われることからやや解放された感も募り、さらに50年も経ってしまえば世代が変わり、零落の感覚はもう薄まり、源氏も平家もないただ山中で生き抜いてる人間同士というコトで交流するようにもなったろう。やがて共同でお寺を建てましょうというようなことにもなったろう。

今ボクらは現在の政権に辟易したり危惧したりで、「やってられないわ」とそれこそ落ち武者みたいにどっかの山の中に逃げ込んで現状諸々いっさいを遮断する… なんて〜コトはまったく出来ない徹底した管理社会の中にいる。
その点で物理的にも、源氏平家の時代はまだ自由だった… とはいえる。
国土地理院のマップなんてものはなく、GPSで探知されることもなく、警察機能もたいしたことはない。人跡未踏の地はそこかしこに有ったろうから心機一転なルネサンス創成も出来たわけだ。
なので、上記のヒラさん一族郎党が"逃げ出せた"という点は、微かに羨ましく思わないわけでもない。

800年越えの時間の流れの中、政治的な意味合いでの時代もうつろい、集落は地域に同化して根をはり、いつのまにやらヒラ家は没落して家臣だったらしきな一族の方が頭角してリーダー格になるというアンバイを経て… 数百人規模の大型集落にまで成長したものの… 近年、このおへそな部分は過疎がドド〜ンと進んでる。
ひ〜ふ〜み〜よ〜… もはや10人もいないんじゃないかな?
畑だった場所が草茂り、たちまちにそれは変化して林もあるでヨ〜と木が育ち、それにツタがからみ、いよいよ人が立ち入りにくくなり… 界隈ではイノシシのほかにサルが出没する。
ゆるやかに800年前に戻ってるようでも、ある。


……『宇宙は浪費しない』
という名言があるけれど、それをいまだ身体の感覚としてボクはうまく知覚出来ないから、「はたしてそうなの?」と呟いたりもしつつ、岡山県のおへその界隈に1日たたずんで少なくともチョットは町中のアレコレを忘れる。あるいは逆に町中で感じたものをより濃いものにしたりする。
例えば、憲法のことなど。

「山の彼方の空遠く幸いすむと人はいう」…、同じ管理社会の中にいるならば、逃げ出さず暮らすには、それを感受するためにも、今のそれは遵守すべきとも考える。
米国から押しつけられたと自虐に云う人もあるけど、はたしてそうか? 
発布された時、日本中で喜びが弾けたのは当時の新聞紙面を顧みりゃわかる。
でなくば、戦争終結わずか3年弱、新たな今の憲法が登場して1年と経たぬうち、
「あ〜あ〜、あこがれ〜のハワイ〜〜航路ぅ〜〜♪」
真珠湾攻撃すら忘れた、このノ〜テンキなほどに屈託ない岡晴夫のレコードが大ヒットするわけもない。
キチンとした統計がない時代だったから漠然としてるけど、一説によると100万どころか200万枚が売れたともいう。
思えばこれは、"解放の歌"でもあったろう。
そのヒットの根っこに、当時実は誰だってホントは判ってたけど云えなかった天皇は人間でございの宣言と、もう2度と戦争したくないから鉄砲捨てますの… あらたな憲法の凛々しさと清々しさに解放の昂悦が濃く強く馴染んだよう、ボクは思う。
『平和に馴染む』
この一語が妙に今、胸のうちで高鳴る。