パッションフルーツ移動


半年前の昨年11月5日。実家の庭でおごったパッションフルーツをやや小ぶりに剪定し、家屋内に収納。冬ごもりを開始させたのだった。
南国産まれで南国風土の中で生きるパッションフルーツは、岡山の冬場をたえられない。地温がマイナスになるようではとても生きながらえない。
そんなしだいゆえ室内に入れてやり、厳冬の1月や2月は朝の4時くらいから暖房まで入れてやるという、いたれりな保護。
おかげで光熱費がかさんだけど、ま〜、それでも、枯らせて悲しむよりイイではないか。過保護ではなく、生育不可能の厳冬を越えさせたいがための方策。
マイナスなんかにはならない沖縄方面でさえ、パッションフルーツは冬は休眠状態で引き籠もる。よほどに寒さが苦手なのだ。
植物全般の、籠もる我慢の良い子チャンという機能は、オモシロイ。
思えば…、引き籠もる、というのは最近は悪しきなイメージで常に語られがちだけど、自然界ではそれは悪しきでなくって、生存の叡智なのだった。

で、時間が流れる。
半年が過ぎて、さすがに5月。もう地温はマイナスになったりしない。
日中の気温が概ねで15度くらいになればパッションフルーツは籠もりモードから起きだして眠ったふりをやめ、ツルを伸ばし出す。
室内でそういう状態を呈しだしたので、やっこらさ… 外に出し、庭に穴堀り、鉢ごとに土に埋めてやった。
この鉢ごとというのが、はたして良いコトなのかいけないコトなのか定かでないけど、鉢底の穴から根を外に出して活着すればしめたもの。
またこの11月にはアウターからインナーへを繰り返すことになろうから、ま〜、こちらの都合と風土の関係を思ってそのようにしているまで…。


昨年はずいぶんと良く葉をひろげツルを延ばしたから、今回、2鉢をやや距離を置いて設置。いわゆるグリーンカーテンを演出出来るかもとの… 希望もあり。
室内に置いていた期間、ちょいとイタズラに取り付けたペコちゃんも一緒に外に出し、しばし、このままにしておこう。

いみじくも、先日の朝日新聞だかで「経済成長時代から安定への時代」を探るべきとして、
原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするからです」
社会学者の見田宗介氏が経済最優先に警鐘し、そう語っているけど、植物の四季を眺めれば、何も社会学の先生に教わらなくとも、そのあたりのサジ加減はボクにでも判ってくる。
見田氏の、
「リスク社会を乗り越える方法はある。それは、われわれの価値観と社会のシステムを、そのような方向に展開することです」
に賛同。要は、経済価値での上昇を尺度の筆頭にした今の社会構造を変えるべきとの提言だ。
冬期の植物の"引き籠もり"にこれを当てはめると… 学ぶべきコトがでっかいや。年中右肩上がりの上昇成長というのは幻想だ。無理矢理だ。常でない。
時に"引き籠もる"ようなアンバイもおぼえなきゃイケナイ。


昨年はフクロミ病という病気にかかってしまったユスラウメは、今年もそのきらいがややあったものの、病気っぽい感じな実を早めに取っ払ってやったせいか、大いに生育中。
日光の下で多数の実をつけ、紅く染まりつつある。
あと1週間もすればけっこうな色彩になるであろう。まったくもって小さくてささやかな愉しみなのじゃ〜あるけど… ま〜、そこも大事なのだ。
ユスラウメはスーパーで容易に手に入るわけでもないけど、買っても、たぶん数百円程度なもの。
でも、それを数百円と思わず、コイン換算じゃ〜なくって、愛おしむことが大事と、そう思うわけだ。
むろん、ユスラウメも冬眠する。いっさい葉を落とし、ガイコツみたいな姿で冬を過ごす… 見た眼は大変よろしくない。
でも、それがナチュラルって〜もんだ。停滞ではない。人間の尺度でいうスローライフとも違う。たぶんに植物も樹木も自身がスローモーに生きてるとは思っちゃいないんだから。
いっそそのガイコツめくな姿こそが"永らえる経済活動"を含む「生きる」ポイントかもと思うと、スマートに生きるなんて〜のはどういうコトかしらと再定義しなきゃいけないようで、アレコレ何だか… 面白い。