下関にて 〜ホタルの里〜


山口県の県道は岡山県のそれとガードの色が違う。
黄色だ。
理由は知らない。
知らないけど、「ぁあ〜、今、山口にいるのだ」の感を濃く染めてくれる。


その山口は下関に、仲間とKOBAちゃん運転の車で出向く。
最晩年となった年にいみじくもMIHOちゃんが吐露した、「ホタルが好き」。
没後、彼女の故郷が山口県下有数の"ホタルの里"であったと知る。
それで、下関は豊田町へと駆ける。
彼女が眼に映した原風景の中の、その光点を、見に出向く。



ホタル・ミュージアムという立派な施設があるくらいで、毎年"ホタル祭"もあって、ボクらが出向いた前日、豊田町には3万の人出があったそう。
ボクらは、ホタル見学の川船もある祭の中心となる河川ではなく、そこから数分の場所、MIHOちゃん実家すぐ裏手を流れる支流を眺める。



乱舞する程にホタルがいるのは、清らかな水があって、それゆえ自然がよく残っている環境だから… というのはマチガイだ。
人間の眼が美しいと感じる、その情緒を廃して厳密にいえば、ホタル多数が乱舞するのは、ある種の生体バランスが崩れた結果だという。1地域1場所での群雄割拠に泳ぐ光は… それは自然のバランスが崩れた刹那の光景だ。
なぜなら、多数のホタルが束の間ながら生の光を発するまでには、やはり多数のエサとなるカワニナが必要なのだし、それは通常ナチュラルな自然界に多々いるものでもない。
カワニナが多数生まれる環境というのは主として人間が作ったタンボなのだ。
まず川があり、そのそばにタンボが大きくあって水のはけも良くって、が、また同時に水は時に水たまりとしてトロリンと留まってるのも良くって… という場合にカワニナは大量に生じ、ホタルもまた多数が生まれて育つ。
やがて成虫になり、産卵の場を求めてホタルは川へ出る。
なのでベッチャリいえば、人間が作った水田が近辺になかったら、ホタルは必ずしも群れて舞ったりしない。
いささか大袈裟にいえば、縄文時代にはホタルがいっぱいの光景はなく、それは弥生期の稲作のはじまりと共に現出した光景なのだ。
それで、
「へ〜、勉強になるね〜このブログ…」
知識の摂取にビックリしつつ、一方じゃ、
「でも、よ〜〜」
口ごもるような、肯定はしても即には頷けない感触をお腹の底に涌かすのが… ま〜、人間というもんだ。
ただともあれ、群れなすホタルは必ずしも"自然が残ってる証し"ではなくって、人間が作った田園環境に適合したゆえの結果、"大量発生"する… という事実は知っておいて損はない。
ホタル群舞は農業の水管理と深く結合し、ホタルいっぱいの美しさ=天然、ではないのだ。



豊田町はなるほど田園地帯。アチラにコチラに田が拡がる。というか、タンボとタンボの合間に浮島のように人家がある。
遠景に幾重の山。緩からず険しからず。
眼が緑に洗われる。
前回ここに来たさいは気づかなかったけど、こうして再訪、周辺を眺めるに、屋根瓦の色が大きく違うものの、ボクの生まれた津山に似ていないこともない。
昭和の半ば、かつては津山もホタルが群れた。
ちょっと窓をあけた隙に1〜2匹が室内に入り、カヤをはって寝床入りしたら、カヤの外張りにとまってポワ〜ンと光ってたりした。
そして、あのホタル特有の匂いがして、それは決してイヤな体臭じゃなくって、眠りに落ちる前の子供のボクを、なごませ、眠りを誘ってくれもした。


むろん、もうそんな光景は味わえない。匂いも味わえない。
ここ豊田町でも、かつての勢い、MIHOちゃんのお父さんいわくの、
「川にベルトのように光が…」
は、もう遠い昔日のことのようではある。
「川沿いにコンビニが出来ただけでホタルが減った」
と、MIHOちゃんの弟さんもいう。
が…、それでも、自宅から歩いて10メートルだかの場所でホタルを眺めることが出来る醍醐味は、こたび探訪したボクら数人には驚きに満ちた感動だった。
なにより闇が濃い。
その闇の中の光の明滅は、数は減少したとはいえ、時間を忘れる幻想を誘ってくれた。



ホタルの奇妙なところは逃げないことかも… 知れない。
人の気配にさほど動じない。
それで時に、不思議な驚きをもたらしたりする。
そういう意味のことを暗くなる前、会食後にMIHOちゃんの家族の口からこぼれていたが… こたび、まさにそうだった。


見物し、さて戻ろうとしたその刹那、1匹がボクらのそばにやってきた。
暗い堤に茂る樹木を越え、わざわざそばにやってきた。全員を見廻した。
ついで、悦ちゃんの右足にとまり、ついでボクのアタマの上を舞い、やがてMIHOちゃんの弟さんの愛児、まだヨチヨチあるきなKAHOちゃんの足元におり、しばしそこを動かなかった。
人の顔の判断が出来ない暗闇の中でのその小さな光点の振る舞いは、もうそれだけで驚愕めいた情感を兆させてくれた。
即座に誰も口にしなかったけども… その光にMIHOちゃんと再会… を重ねるのはアタリマエだった。
愛しさに鼻先がツーンとした。
あまりの出来すぎの振る舞いに、たとえば映画の1シーンとしてこの光景を脚本にしたら、きっと、
「そりゃ情緒過ぎる。ダメだよ」
と、却下されるであろう程の出来すぎた"演出"なのだったが、しかし、これは現実、また余計、大きな情感がうずくのだった。
この1匹と会う旅だった… そうカッコづけたくなる程の価値ある光だった。



ホタルの光を撮影するようなカメラをボクは持っていない。なのでホタルの写真は1枚も撮れなかったけど、それでいい。 
ボクは… 自宅縁側で膝を抱え、それに魅入っている幼いMIHOちゃんを想像する。
といってボクは幼い頃の彼女の顔カタチを知らないから、想像の中の幼い彼女は大人の顔だ。
そこも愛おしい。


闇の中のたくさんの小さな光点には、距離の目測を失わせてくれ、どこか夢幻な奥行き、どこか宇宙とその星々といった感もあって、きっと彼女もまた幼い頃にそれを幻視したに違いない。
ごく近いのに、そこに遠くの消息を感知して、それでいっそ縁側でうずくまり、
「何っ? この変な感じは…」
前方の無数の光点を魅入ったに違いない。
幾度か深呼吸してホタルたちの匂いを愉しんだかもしれない。

総じて彼女は魅入る人だった。人に対してもモノに対しても、じっと見詰める人だった。
だから時に、じっと見詰められて、こちらがドキドキして勘違いするような事もなくはなかった…。
その原点がこのホタルかしら…。
いや、きっとそうだ。
あの数秒に渡るじっと見詰める眼差しの底には、ホタルがあったのだ… そう思いたい。
それには、はかなきものへの慈しみも含まれる。
あげく、逆にこちらがそれに引かれ、それこそホタルを見るような不思議をおぼえる感触。
そう勝手に思ってチョイと暗天を見上げると、上方から、
「はいはいっ、勝手に決めちゃってイイよ〜〜」
彼女の弾んだ元気な声を、またまた、きくようだ。
ともあれ、実家そばの川で、ボクらはMIHOちゃんと再会した。科学で顕せない公式の中でボクらは、会えた。



遅い時間、豊田町から下関駅前に移動。ホテルで靴をぬぎ、ボクらは当然に乾杯した。
もう12時を廻った頃だったかもしれないけど、出前をとって宴席とした。
再会を祝した。