下関にて 〜赤間神宮〜


秋篠宮家の佳子さんの公務スタート地点となった下関は赤間神宮
はじめて訪ねてみるに、なるほど写真で見ていた通り、なかなかの竜宮城っぷり。
安徳天皇をまつるこの神宮は関門海峡を見渡す位置に置かれ、参道は海に向かう。
今は国道9号線がそれを横切る形でとおっているけど、ま〜、信号もあって、参道そのものが断ち切られているわけではない。



戦前の空襲で焼かれる以前の写真をみると、太い松が幾つも茂り、当然に国道はなく、海はより近くで、参道は水天門(今の竜宮とは形は違う)と海をまっしぐらで結んでいる。
門と参道こそが、この陵の要めといっていい。
もっぱら、5月の先帝祭のあの花魁のパレードでここはすっかり名を馳せているけど、海と門が直線で結ばれたこの構造は、創建当初は人を対象にしないものだったと容易に想像出来る。
訪れるのは壇ノ浦合戦に敗れた海にいる霊だ。




海ぎわの石段最上部に碇が置かれているのは、これは安徳と共に海に身を投げた平家大将・知盛(とももり)を暗示する。碇に身体をくくりつけての入水。
皇室と源氏側は幼帝をはじめにそれら方々の怨霊化を怖れ、海に向けて神宮(御影堂)と道を造った。
幼い天皇と守護した平家の者々の怨みを充満した魂は、海からあがり、そのまま参道をゆき、水天の楼門をくぐって本宮で禊ぎされ、今はさほどめだたないけどもう1つの帰り道たる参道をくだって、また海にかえる。
全体がそう構造されていて、
「なにとぞ鎮まりください」
の、気に満ちている。
(偶然というか、それを知らぬまま、ボクらはその道順で参拝し、もう一方の急斜な参道をくだって社から出た)



ボクは多くの神社を訪ね歩いたわけじゃないけど、ここは格段に、"怨霊鎮め"が意識され、その空気に満ちていると感じた。
拝殿に向かって左ぎわの、苔むした平家一門の墓の数々の不気味は、その手前に配された芳一の木像によって、いわば1つの不気味空間の最上だと、
☆マークを5つ
つけてもいい。
名を刻んだだけの石塔の数々には、容易に近寄れない怖い気が今も充満していて… 正直なハナシ、そこに足を入れるに勇気を要した。小泉八雲の小説よりもはるかに、怖い。



芳一がこの赤間神宮の僧だったのを、うかつにもボクは、まったく忘れてた。
明治になるまでこの国は神仏習合、神社と寺は合体して機能し、芳一はこの陵内、阿弥陀寺の僧だった。
実在したか創作の人物かどうかはさておき、天皇と共に平家が海で滅んだ直後より、その怨霊化にいかに源氏勢力が怯えたかは… 「耳なし芳一の話」でよくわかる。
源平合戦の最大功労者たる義経の悲劇は、幼い安徳を奪えなかったどころか死なせてしまったことにスタートする。源氏側自身の怨霊鎮めの方便として彼は抹消されたと… そう解釈してもいい。



ボクは宗教的人間ではないのだけど、たまさか我が地元岡山のかつての娯楽施設「亜公園」のグランドデザインとして、菅原道真伝説が用いられたことを知っているがゆえ、余計、
「怨霊とは何じゃろか?」
と、興をもつ。


そのニュアンスでこの神宮界隈をみると、境内から海を眺めた途端にボクはある種の憤りを禁じ得なかった。
海沿いに高層のマンションが複数、今まさに、建造されつつある。
それらは、赤間神宮の、海(壇ノ浦)への視界を奪いとってしまう壁となる。
早や既に、関門橋側の海がこのマンション群で見えなくなっているんだ。
海鎮めの神社の存在意義すら奪ってしまう、これは下劣といっていい。
なので、
「なんとも罰当たりな…」
の感想が浮くのだった。



他県に出向いてそう腹をたててもしかたないけど、景観をだい無しにするという以上に、それら高層マンションは"神域破壊"が著しい。
儲けてナンボの土建風土化がいかにも醜悪。悲しい。
あえて意地悪くいうが… 安徳天皇と平家の霊は一同そろって、やがて入居するであろう、これらマンションの住民の枕辺に夜ごと出没していい。


と、書きつつも、先帝祭の賑わいにも不思議をおぼえる。
元来は怨霊鎮めでスタートした神域にいつの頃からか平家の末裔らしきが集い、やがてそれが華やかであったろう宮廷内の女官たちの往来を再現する催しとなり、転じて江戸時代には遊女のパレードとなり、ふと気がつくとこの境内に特設架橋される花道パレードそのものが下関の無形文化財になっているといった変遷に、人のたくましさというか、怨霊化を見事に転じさせての華美の競演… にしちゃえる、いつまでもグズグズしない〈根ッコは陽性〉と、何でもかんでもを転換してしまえる日本人の〈大らかな能力〉を、かすかに感じないでもない。