毎日トマト朝夕キュウリ

規模ささやかな家庭菜園であっても、過剰は発生する。
どういうことか?

たとえば春も半ばにキュウリとトマトの小さな苗を買う。
1ポッド60円くらいで安いもんだし、でも1本のみじゃ、枯れたり根腐れの怖れもあるから、少なくとも2つ買う。120円づつ払う。
土に移植。これが枯れずスックスック両方とも成長する。
梅雨期の終わりから7月にかけてと、この2本×2種からキュウリとトマトが採れはじめる。




採れるのはイイけど… 量が問題、すなわち過剰の発生というワケなのだ。
昨日キュウリが3本か4本採れたら、もう翌々日の朝には3本、というように倍増しちゃって、気がつくと… 1ダースほどが常態でキッチンにあるから… ジワジワとうんざり数値があがるのだった。
これにナスがくわわり、うんざり3重奏。
個々べつに嫌いじゃ〜ないけど、毎日は食滞する。



なのでホントは家庭菜園の場合は苗は1本でイイとは思ってるんだけど、枯れるリスクを思うと最低2本… というのがここ数年の悩みというワケじゃないけど、ちょっと立ち止まってアタマをひねるような… モンダイだ。



しかしまた一方で、採れ採れの収穫を眺めると、絵画としての静物画が否応にもアタマにわいてくる。
以前、このブログで高橋由一の「鴨図」や「鮭」について触れ、ついこの前、その「鴨図」のホンモノがある山口県に出向いたさいにはそれをコッソリ強く意識したのじゃあるけど、もし高橋由一なら、キュウリにトマト、これをどう描くだろうと… ひそかに思って愉しんだ。



剣道に打ち込んでいた武士の由一が剣を絵筆に変え、幕末から明治にかけて、油絵具もキャンバス地を扱う画材屋なんぞはムロンありもしない時代にあってオイルペイントにのめっていく彼を21世紀の現在に置くことはバカげてるけど… でもキュウリの緑やトマトの赤、その形…、かつて高階秀爾が『日本近代美術史論』の中で喝破した、彼の迫真の写実が西欧絵画の写実伝統とはまったく異なる"非西欧的感受性"という1点から、いっそう想像の葉を茂らせるに、おそらくキュウリは恐ろしい程に克明に描かれつつも驚くほどに平坦なモノとして描かれるだろうと思えて、そこにまたあの「花魁」同様な、超現実的な、違和感を大いに伴う、けど1度観たらもう忘れられないのビジュアルを見せてくれるのではないか… と期待を寄せるのだった。



「鮭」にも「鴨図」にもおいしさを感じないのと同様、「花魁」に色っぽさを感じないのと同様、キュウリやトマトもまた高橋由一の筆では、おいしい瑞々しさなんぞは描かれないと思うのだ。
では何が描かれるか?
言葉で解けてしまえば絵画は言葉以下だし、言葉で解こうと絵画をみなきゃ絵画はまた成立もしない… こういう矛盾を含め、さ〜、そこを考えるのが愉しみというもんだ。
キュウリがたくさん採れたんで、こんなことを書いてるけど… めんど〜だなあ、ボクって。


その高橋由一がまだ存命だった明治の半ば、来日中の画家というか結局ラフカディオ・ハーン同様に日本女性と結婚した漫画家のビゴーは、当時の日本を外の眼でしたたかに描いて秀逸なんだけど…、ここに載せる絵なんかは、いみじくも21世紀の今に似た空気があって、すこぶる怖い。
これはビゴーが日本で発行していた『TÔBAÊ』に掲載の1枚。



タイトルは『口を封じられたジャーナリスト』。
すわらされているのは東京日々、毎日、郵便報知といった新聞社の記者。窓から覗いているのはビゴー本人らしい。官憲が手にしてるのは当時高まりつつあった自由民権運動を報じた新聞。
時の政権の、気にいらない報道機関への威圧。
ま〜、あれこれは云うまい。またぞろ同じが繰り替えされつつあるというコトの恐怖が1888年に既に描かれているというだけのコト… さほどキュウリとは関係はないけど絵の同時代ということでチョット一言した。


ビゴーの絵と由一の絵は当然に住処が違うし、由一は風刺画を志したわけもないけども、画家"個人"が何をホントに描き出そうとしているのか、ビゴーのそれは一瞥が勝負でもあるようだし、由一のはそうでない。彼の絵は平坦さを感じる反面、妙にアレコレを考えさせられ、その奇妙なフラットさ加減の中に何かがひそんでる… よう思えてしかたない。そこに政治はたぶんないにしろ、内なる光景が描かれているようだとは感じる。
オイルペイントという洋式を採用しつつ、彼は一向に、欧米に追従しない。描こうとしたのは、さ〜?



そこで酒井忠康は、『覚書 幕末・明治の美術』で由一の「鮭」を中心にアレコレ考察してくれて多少のヒントをあたえてくれ、
「あの鮭はどこの川で獲れたか」
と実にうまく脱線したりもして論文ではないエッセー的魅力も発揮されてらっしゃって、いっそうボクの脱線路線ぎみな生き方にプラス・アルファな何かを植えてくれたりもして、硬さよりも柔らかな指向の面白みを増加させてくれるけど… ま〜、ボクは描かれてもいないキュウリやトマトを、いま、考える。
このキュウリに政治は反映しないし、そうであって欲しくもないけど、そうやって明治の黎明期の画家に仮託させて、この夏のキュウリやらトマト達をどう記憶に位置づけようかと、考える。
たぶんに、それは「静止画」的光景が1番によかろうと。
iPhoneでスナップ撮影しただけじゃ〜ダメなのだ、この小さな菜園での収穫を物語るには…。
それで大袈裟に高橋由一をひっぱりだしてるわけ。
一夏の庭の想い出ポロポロを永遠にするためには、絵画という手法がイイなというハナシ。