小泉八雲の卵焼き

この岡山の天神町に「亜公園」という大規模な娯楽施設が登場するのは今から124年前の明治24年仏蘭西ではジュール・ヴェルヌが『十五少年漂流記』を出版して一息いれ、セーヌ川に浮かせた自艇サン・ミッシェル2世号の中で、次作の『悪魔の発明』の構想を練っていた。
その頃、ラフカディオ・ハーンは鳥取の松江で教壇に立ち、日本をルポするエッセーを幾つか編みかけていた。
その内の1つ、彼の『日本の面影』を読むと、顕らかにボクらが忘れている日本があって、読み返すたび、新鮮を浴びる。
高望まず、ほどほどに、自然と共に活きる… 市井の方々が幾人も出てくる。


1週間ほど前、ミュージアムがらみの会合があって、酒席の雑談となった時に、その『日本の面影』に収録の「神々の国の首都」をボクは持ち出し、早朝の松江のアチコチに響く柏手(かしわで)の音の透明な聡明さを讃えた。
それを記したハーンを賞賛した。
早朝の太陽に向けて人は皆な、4回、柏手をうって黙礼をする。
宍道湖に連なる橋上で、路地の一角で、寺の石段の傍らで… 方々で、パンパンパン… の音がする。
その凛々とした光景をハーンは活写して、21世紀のボクをうったと… そう告げて笑った。


すると、
「いや〜、忘れてた!」
同席のK先生が大いに反応し、某県の彼の実家の朝を思い出した。
実家の敷地内に祠(小さな小さな神社)があり、そこにイノイチバン、朝炊きたての御飯が小さな椀に入れられ運ばれる。
それから、幾つか、柏手がうたれる。
それがK先生実家の、朝のスタートだった、そうな。
この風習は彼が中学生の頃にはもう廃れたようだけど、少なくとも、昭和の30年代半ばす頃まではあったようである。
そこでボクは密かに、
「なんとも惜しいハナシだな」
と感想した。



昨年あたりから徐々にラフカディオ・ハーンを読み直していたけれど、この前、下関の赤間神社に詣でてから、それが加増した。
この写真は竜宮を見てる人とこっちを見てる人を、マイケル・J・フォックスがバック・トゥ・ザ・フューチャーして眺めてる… という妙な構図だけど、ここはいわずと、「耳なし芳一」発祥の地。実に簡単にボクは感化をされた。



ハーンのフィルターと筆圧は、なんとも頼もしい。
良性な硬水をのんで胃を整調されるようなあんばいがなくはない。
良き日本を大いに紹介しつつ、彼は「文明開化の音がする」に浮かれて次第にその良さを捨てようとする明治日本の様相を悲しんだ。


けど、しかしながら、ハーンが書かなかった日本もある。
彼は、どこで、何を、どのように食べたか、ほぼまったく、記していない。
来日のおよそ5年前に彼は「クレオール料理」という本を出版している。ニューオーリンズ界隈の家庭で食べる料理のレシピ集なんだから、ハーンが舌オンチであろうはずはない。
どう美味しかったか、あるいは、そうでなかったか… 彼は"食"に関してはグルメでもグルマンでもなく、日本のそれを書くに価しないと思っていたのかもしれない。あるいは、とても彼にとってはまずいものであったゆえ、書けもしなかったのかも知れない。




あれほど徹底して日本の良質を、これでもかと綴り続けた彼の、その舌においては、味噌、タクアンやらキュウリ漬け、梅干し、やらやらの塩分高きなモロモロは、匂いも滋味も、いささかナンギなものであったかもしれない。梅干し1つでもって椀の御飯をカッ喰らう… そこに密かに野蛮を見たかもしれない。
けどもまた一方、彼は醤油の濃淡の中に、墨絵の国たるの本質を見とってはいたが、"食"を文章の核に、ただ置かなかっただけかもしれない… などと、アレコレ思ってみたりする。


横浜に上陸して割りと早い時期に彼はセツさんと結婚し、以後没するまで彼女の手料理が朝昼夕の食の中心であったろう事は事実として有るのだから、彼はそのセツ風味に馴染んでいたであろうとも空想する。
紀行文「美保関にて」(角川文庫-日本の面影II)で彼は、宿泊した宿のお女中に、まことにオズオズと、
「卵はありませんか?」
と問い、その返事に何とあひるの卵があると云われた驚きと新鮮を書いているけど、それをどう調理してもらい、どう食べたかは、いっさい書いていない。
この文から推測できるのは、彼が卵を嫌いではないというコト。



ハーンではなく、ボク個人のことでいえば… ボクは生卵が好きで、醤油を少し垂らした上で黄身と白身をかきまぜ、これを啜るのを極上の滋味と… そう思って早や40年オーバーの身の上。(←このコトを自覚して早や40年という意味だから実態はもっとトシよりだぞ)
ボクには、生卵はご馳走。啜り込んだ滋味が口の中にある内に、御飯を食べ入れると… 加山雄三のかのセリフの通りな、
「ボカぁ、幸せだな〜」
のシミジミを四肢の隅々にまで浸透出来るほど味わえるのだ。
口の中での足し算が裕福をもたらすんだ、な。
だから、卵かけ御飯はだめ。これは裕福を減じてる…。
卵と御飯はあくまで分離し、それは口の中で初めて会って交ざって滋味深くなる… というのが我が持論だ。


ハーンもまたそうであったとは、書けない。
ひょっとするに、目玉焼き1番かも知れないし、甘く味付けられた卵焼きであったかも知れない。
40歳で彼は日本に来て、同年すばやくも小泉セツと結婚するのだけど… 彼女の味付けこそがハーンの日本であった、ろう… そう思うのだ。
常にその味わいの根底には、隠し味としてか前面であったかはさて置いて、お醤油が、断固まちがいもなくあったろう、とは思うのだ。
神戸で国産ソースが登場するのは、彼が没した後ではなかったか…。ハーンは醤油味に舌を馴染ませていた…。と、これをボクは確信する。



すでに彼にインタビュー出来ないから、判らないまま想像をして、ハーンというか八雲が箸を使っている姿を想像する。
彼は日本に帰化した。国籍を日本とし、日本人になろうとしたこの事実の背景には、彼が梅干しも青海苔も漬物も… 大いに認め、呑み込んだ気配をおぼえる。
小篇「盆踊り」でハーンは伯耆は上市(うわいち)の小さな宿の夕飯を二人前食べたと、ケロリ、書いてもいる。
南紀白浜の蜂蜜入りの梅よりも、彼は塩が表皮で結晶したようなショッパサ1番な梅干しで御飯をいただくのを好んだ… かもと想像するのはボクの勝手である。


以上を書いて、なにやら… 甘い卵焼きが食べたくなった。
ボクは頬っぺが痛くなるような甘い卵焼きも好きなのだ。それを肴にいっぱいやれるし、早朝に柏手こそ… うたないけど、庭の片隅の石っころに神さんを思ったりも出来るんで… ハーンの見る日本人の典型かもしれない。
そこを誇りにしつつ、も少し、ハーンに日本をおしえてもらおう。
何を、どう見るかを。



たとえば、この写真。
これは我が実家のバスルームの壁なのだけど、夏の盛り、晴天の朝の7時から8時にかけてのみ、このように窓辺の樹木が影となって壁にさす。
陽のまったくあたらない北向きのバスルームだけども、夏場の陽の高さと位置が、束の間、こんなシャドー効果をもたらしてくれる。
ラフカディオ・ハーンの眼は、たぶん、このような微細に"日本のおもかげ"を見ている。その影絵の中から色ある本当の葉を茂らせる。